第8話 『ありが、とう』
教師はすぐにやってきた。
「今ここで大きな音がしたんだが、どうしたんだ」「すいません、片付けしてたら地球儀落としちゃったんです」「こらー、落ち着いてやらなきゃだめだろー。お前担任は誰なんだー」なんてやり取りを繰り返し、僕たちは少し怒られて、解放される。
ふらふらと校内を歩いていたはずの僕が迷って尾坂を威嚇していじめられていた文乃と共に外に出ると、すでに太陽は暮れかけていた。
見上げたら天辺で光っていたはずのお日様はビルとビルの間に落ちかけていたし、吹く風だって少し寒い。
僕は今、体育館脇の水道の隣に座り込み、ばちゃばちゃと水で顔を洗う文乃のことを待っていた。
いじめられている文乃のことは助けたし、一体どこにいるのだかわからないような場所から学校の外に連れてきて貰ったのでこのまま帰ってもよかったのだけれど、僕は文乃に接触をしなければいけなかったし、単純に僕自身が彼女と接触をしたかった。あの、しゃべらないで友達もいないでぐちゃぐちゃにいじめられていた穂積文乃が一体どういう人物なのかただ単に知りたかったのだ。
改めてみると、床に転がされモップで突かれ顔を洗われ蹴られて殴られた文乃は、なかなかすごい恰好になっていた。顔中に汚水が付いて髪の毛には蜘蛛の巣が巻き付いて制服には埃がこびりついている。そのままの格好で帰ろうとする文乃を引き留めて、「とりあえず顔を洗ったら?」というと、彼女は恥ずかしそうに俯いた。
ジャージャーという流水音を聞きながら、目の前にある木から落ちる葉っぱの枚数を数えてみる。僕の膝の上にあるのは卸したての僕の鞄と、ぱんぱんに膨れた文乃の鞄。一体なにが入っているのか、やたらと重い。学校指定のその鞄には、明らかに意図的につけられたのであろう落書きだとか切り傷だとかが付いていた。
数える葉っぱが十枚を過ぎ欠伸が出てきた頃、身支度を整えた文乃が戻ってくる。顔を洗って埃を取って汚れを落とした彼女の姿。あちらこちらに皺が付いて水が飛んで至る所に沁みのようなものがついているけれど、先ほどよりもずっとずっと見栄えがいい。
「終わったの?」
彼女は自前のタオルでごしごしと顔を拭きながら、小さくこくんと頷いた。
「綺麗になった?」
こくん。
「怪我はない?」
こくん。
「痛いところとか大丈夫?」
こくん。
そもそもそれほど心配をしているわけではないのだけれど、どういう風に声をかけても文乃は一向にしゃべらなかった。今だけではない、先ほど資料室で教師に尋問されているときも、僕が校舎の出方がわからないといったときも一切なにもしゃべらなかった。失語症なんじゃないかとも思うのだけれど、リコリスに貰った資料にはそんなことは書いていなかったしクラスの誰もなにもいっていなかった。
彼女は家でもこうなのだろうか。まさかそんなことはないと思うけれど、彼女は一体、いつになったら声を出すのだろう。
改めて並んで見てみると、文乃はかなり小さい。それなりの背丈があった尾坂と比べれば、明らかに小さい。背が低いうえに骨も細い。撫で肩で、顔が小さく首も細い。勿論、野々村のこだわる胸だってほとんどなくて、筋肉についてはゼロに等しい。体が小さく力がない、ということは、ただ単純に、弱い。
座り込んだまま観察をしてみる。洗った顔をごしごしとタオルで拭き取る彼女は、まるでハムスターかリスのようだ。
それにしても一体いつまで拭いているのだろう、いくらなんでも拭きすぎなんじゃないかと思い始めた頃に、文乃がゆっくり顔を上げる。眼鏡をしていない文乃の顔。あの、牛乳瓶みたいな眼鏡の上からはわからなかったけれど、思ったよりも目が大きくて、睫が長い。パンダみたいな、愛嬌のある垂れ目をしている。
じっと見ていたら、拭き終った文乃が何かを言いたそうに待っている。彼女はいつだって俯き加減で、長い睫の奥から覗くようにこちらを見ている。靴の爪先はいつも少し内側向いていて、上下の唇がくっついたり開いたりしていた。
帰りたいのだろうか。ああ、そうか。鞄を返してほしいのか。
分厚い鞄を放り投げると、驚いた彼女は過剰なくらいに大きく体を跳ねあがらせた。それこそむしろ、投げたこっちが驚くほどに敏感に。
じたばたと暴れるようにしてそれを受け取った文乃は、大きな目をぱちぱちさせながら僕の顔を手の中の鞄を見比べている。まるで間抜けな金魚のようだ。
「帰ろうか」
そう言って僕は立ち上がり、そのまま歩き続けるのだけれど、足音がない、つまり文乃が一向についてきていないことに気が付く。
どうしたのだろうと振り向くと、文乃が鞄を受け取ったとき体勢でわたわたと何かを探していた。その場所から一歩も動いていないように見えた。
「どうかした?」
数歩下がった僕の問いかけに、文乃は上を見て、下を見て、それから鞄を抱きしめて、小さな唇をゆっくり開いた。
「……ね……」
「え?」
「……めがね、が、ないと……なにも、見えないの……」
耳を澄まさねば聞こえない、蚊の鳴くようなその声に、僕はきょとんとしてしまう。思わずポカンとして拍子抜けして、アホみたいな間抜けな声でこう言った。
「君、しゃべれたの?」
僕が述べたそのままそっくり正直な感想に、文乃は鞄を抱きしめて、顔を真っ赤に紅潮させ俯いた。
僕はそのまま間抜けな顔で突っ立っていたのだけれど、文乃が眼鏡を探していることを思い出し、辺りに視線を走らせる。眼鏡は、先ほど彼女が顔を洗っていた水道の上に置いてあった。
まだ水滴がついている眼鏡のレンズを指で拭って、真っ赤な顔で縮まっている彼女の顔に掛けてみる。殴られるとでも思ったのか、眼鏡を持った僕がテンプルの部分を彼女の耳に引っ掻けるとき、ひどくきつく目を瞑ってびくりと体を跳ねあがらせた。
愛嬌のあるパンダの瞳を眼鏡のレンズで隠して離れる。すると彼女は一体何が起きたのかわからないというようにして、挙動不審になぜか辺りを見回した。変わった子だなと僕は思う。クリアになった視界の中で僕の姿を見つけると、また赤くなって縮まった。赤くなるのが趣味なのだろうか。
眼鏡も掛けたしもう帰ろうと踵を返すと、文乃が「あ」というか「え」というか、なんとも声にならない声を出した。猫の鈴より小さな音に、僕は足を止めて振り返る。そこにいたのは、やっぱり鈍くさい恰好で佇む穂積文乃なのだけれど、文乃はまた鞄を抱きしめた格好のまま、何かを言いたげにこちらを見ている。
「どうかした?」
僕の素朴な問いかけに、彼女は下を向いて、桜貝みたいな爪の先で意味もなく鞄を弄っていた。俯いている文乃の首の細さだとか頭の小ささだとかを見ていると、このままここでさっさと殺してしまおうかと思う。鞄の中にはナイフもあるし、ピストルの中にはまだ四発だか五発だか弾が残っているはずだ。この首の細さと白さだったなら、締めて数秒で殺せるだろう。
けれどそう言った考えは、真っ赤になった文乃の顔がおずおずと正面に向けられたことで放棄することに決める。
「……あの………」
「うん」
「……ありが、とう……」
すとん、と胸の奥に落ちるように響いたその言葉。
お礼なんて言われたの、初めてだ。なにか言った方がいいのかもしれないけれど、こういう時に、なんと返したらいいのかわからない。
仕方がないので「うん」とだけ返すと、真っ赤な顔の文乃がはにかんだ。嫌な顔はしていないので、この返事でよかったのだろう。
帰っていいのかな。眼鏡も掛けたし鞄も持ったし、忘れ物はないはずだ。そのはずなのに、鞄を抱えたままの文乃はいつまでたっても動き出そうとしない。
痺れを切らして「帰らないの?」と僕が聞くと、彼女はぱっ、と顔を上げて、水に濡れた犬みたいにしてプルプルプルと顔を振った。
「穂積さんて寮?」
プルプルプル
「電車?」
こくん。
またしゃべらなくなったなぁと思う。けれどまぁ、取りあえず、会話ができるらしいということが分かったのでいい。
「一緒に行く?」
特に意味もなくそういうと、弾くようにして顔を上げた文乃がこくんと小さく頷いたので、僕はそのまま駅に向かって歩くことに決める。一緒に行くといっても、決して彼女は僕の隣に並ぶことはなかったわけなのだけれど。
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