第7話 『おもちゃじゃない』
一日はあっという間に過ぎた。
やる気があるんだかないんだかよくわからない授業を受けて、昼食を食べて、少し寝て、気が付いたら放課後だった。
一日中机に座って授業を受けるというのはなかなか退屈な時間であったがそれでもなかなか面白くて、これはこれで充実していた。少なくとも、大橋や長塚の元にいる時よりも遥かに有意義な時間が過ごせた。あそこにいるときは、寝たり起きたりするくらいしかなかったからな。
植草と野々村に「部活どうするんだよ」「暇だから校内案内してやるよ」と言われたのだけれど、「用事があるから」と僕はそれを断って、ひとりぼっちで校内を歩く。
今日一日、できる限りの時間を使い、『穂積文乃』を観察していたのだけれど、彼女は一向に、何の動きもしなかった。本当に動かなかった。友達と会話もしていなかった。
佐野や他の女子は皆、誰かの席に集まって話をしてみたり違うクラスにいってみたり集まって給食を食べたりしていたのだけれど、文乃はずっと本を読み、宿題をやり、ひとりぼっちで休み時間を謳歌していた。給食だってひとりでもそもそ食べていた。誰かに声を掛けることも掛けられることもなかった。授業でさえも、彼女は一言もしゃべらなかった。教師が問題を黒板に書き、回答者をランダムで指名して、佐野や黒田や野々村が「はい」だとかなんだとかしゃべったというのに、文乃は本格的にしゃべらなかった。もしや教師達は、意図的に彼女を指名することをやめているのではないかというくらいにしゃべらなかった。
リコリスに貰った資料で文乃の顔を見たときに、なんとも人畜無害そうなやつだと思ったのだけれど、いくらなんでも無害すぎやしないかとこちらが不安になるほどだ。まるで、その場にいないかのような――そう、存在感がとても不安定なのだ、穂積文乃という人間は。
しゃべらないし動かない。誰とも話さないし付き合わないから、存在感が希薄になる。ということは、誰も彼女の存在を気に留めようともしないから、まるでその場に「いないか」のようになってしまう。空気のようなものだ。
人間なんて複雑だから、一日や二日たった数時間ばかり観察をしたところでどうにかなるとも思えないけれど、さすがにあれば異常すぎる。まるで、本格的にその場にいないかのように思えてしまう。というか僕は、途中で実際忘れてしまった。
ここまでくると、いよいよ疑問は大きくなる。
社長は、というか、EWCに文乃の殺害を頼んだ人間は、どうして彼女を殺そうとしているのだろう。
見たところ、文乃は決して殺すほど危険な人間ではない。
殺人なんて決してできないであろうし、人を騙して金品を奪い取ったりするようにも見えない。僕が殺した『安西徹』のように会社の大切なデータを盗んで流出させたりするようにも見えなかった。
考えられる可能性。
1、保険金殺人
2、再婚をするために奈々恵が邪魔だったから
3、文乃に見られてはいけない何かを見られてしまったから
……
意味もなく校内を歩きながらそんなことを考えたりもするのだけれど、どれもこれも説得力がなさすぎる。
保険金殺人なら、わざわざ≪それ≫専門の業者に頼むのではなく自分でやった方が早いだろうし、依頼料の方が高くつきそうな気がする。
再婚をするという説については、そもそも文乃は養子なので、わざわざ殺すのでなくても孤児院に預けるなりなんなり、色々方法があるだろう。
となると3の仮説が有力なのだけれど、見られたら殺さなければいけないほどの秘密というのは一体なんだという話になる。
そこまでぐるぐる考えて、僕はふいに、いつのまにやら自分が知らない場所まで来てしまったらしいということに気が付いた。
ここはどこだ。
僕の背後から足の裏を伝い正面までずーっとまっすぐに伸びる、白い廊下。壁。一定の間隔でついた扉と教室。トイレ。行き止まり。なんてことだ。うつらうつらと考え事をしているうちに、僕の足は僕の体を勝手に運んでしまったらしい。
ところどころについた階段は明後日の方向に伸びていて、まるで迷路のようになっている。一体どこに繋がっているのかわからない。
人がいれば助けを求めたらいいのだけれど、時間が悪かったのだろうか、人っ子一人存在しない。不気味なほどに、影も形も一切ない。一番手近にあった戸を引いて覗いてみたら理科準備室で、腸の見えた人体模型と白く眩しい骨格標本と目が合ったので勢いよく閉めた。
困ったな、どうしよう。
右を向いても左を向いても同じ風景なのだけれど、いつまでもここにいたって仕方がない。
教室があり階段があるということは、とりあえずぐるぐる下に行けば、そのうち外にでることができるだろう。いくら迷路のようだといってもここはあくまで学校であり迷路ではない。人を騙したり、迷わせたりするような設計ではないはずだ。
そうだ、そうに違いないと踏んだ僕は、鞄を持ったままぺたぺたと先に進むことを決め
る。
階段を下りて、廊下を歩き、角を曲がる。角を曲がったところで、何やら悲鳴のような呻き声のようなそのようなものを聞いてしまい、僕は思わず足を止める。
そこにあったのは資料室。古くて、ぼろくて、蜘蛛の巣ばかりの殆ど使われていないような、そんな場所。やたらと立てつけの悪い扉をこじ開けるようにして開くと、鼻の中に埃の匂いが広がった。
そこにいたのは数名の女子で、口汚く罵りながら、なにかを囲んでいた。丸く輪になるようにして立っている女子たちの中心で丸まっている、汚れて汚い小さな猫。否、穂積文乃。
「あんた、本当にきったなぁーい」
文乃を囲む幾人の女子の手にはそれぞれ、濡れて汚れたモップやら、埃のついた箒やらが握られていて、その先を文乃の顔に押し付けて、笑っていた。
「まるであんたがモップみたぁーい。モップなんかよりも汚いんじゃないのぉー?」
「ほらー、さっさと掃除しなさいよー」
「綺麗にしないと、わたし達センセーに怒られちゃうよー?」
げらげらげら。
いつだったかテレビ番組で見たような光景を前に、僕は少し感動する。世の中にはいじめだとか嫌がらせだとかそういうものが存在していることは知っていたけれど、まさかこんなところで遭遇をするとは思わなかった。そんなもの、テレビの中だけだと思っていたのに。
こういう現場に居合わせた場合、どういう態度を取ることが正解なのだろう。教師を呼ぶか助けるべきか、それとも見て見ぬふりを決め込むべきか。
先日見たテレビの中では、学生服を着た主人公が「先生、こっち! こっちです!」とさも教師を呼んできたかのようにしていじめっ子を散らしていたけれど、現実の世界でそう簡単にうまくいくものなのだろうか。
なんて、僕が考え込んでいるうちに、転がった文乃はモップで突かれ腹を蹴られて笑われて、棚にぶつかり古い資料やら模型やら埃やらを被って大変なことになっている。
特に意味もなく踏み出した足がうっかり壁を蹴とばして、カンッ! という音が辺り一帯に響き渡った。やった瞬間、しまったと思う。
対して大きくもないはずの、普段だったら間違いなく聞き落していたであろうその音は、狭い部屋の中で文乃のことをいじめていた敏感な女子たちの鼓膜にしっかり聞こえてしまったらしく、ざっ! と驚くようにしてこちらを見る。後悔先に立たず、覆水盆に返らず。先日、リコリスに新しく教えてもらった言葉が激しくリフレインする頭を抱える僕の口から飛び出てきたのは、全くその場に似付かわない言葉だった。
「……どうも」
B棟から遠く離れているであろうこの場所で、何の関係もない転校生が突然現れたことに、女の子達はとても驚いているようだった。どれもこれも見たことがある、休時間、パンダに群れるようにして僕の周りに集まってきた、クラスの女子だ。
彼女達は、その驚愕の表情を嘲笑へと変化させ、持っていたモップで文乃を突いた。
「安西くんじゃーん。安西くん、安西くんもやるぅー?」
楽しいようー? くすくすくすー。
なんて笑う彼女達は本当に楽しそうであり、もしかして僕は、邪魔をしないほうがいいのかな、なんてことを思ってしまう。
けれど、床に転がる文乃はやっぱりぼろぼろになっていて汚くて雑巾みたいでとても情けないことになっている。一体、どうしてこういうことになっているのだろう。
僕は転がった文乃と文乃を突く汚いモップを見比べて、丁度正面にいる、文乃の顔にモップを押し付けている女の子に問いかける。名札に名前が書いてある。
「えーと……尾坂さん、は、どうしてこの子をいじめているの?」
「え?」
「え?」
「やだぁ、安西くん。どうしてって、そんなの決まっているじゃないー」
尾坂はどん、と文乃の体を蹴とばして、にっこりと花の咲くような笑みを浮かべた。
「だってこの子むかつくんだもん。ねー、みんなー」
なんて、皆に同意を求める尾坂は、ただの中学生でありかわいい女の子にしか見えなかった。足元に転がる文乃の体と、手に持った汚いモップがひどくアンバランスであったのだけれど。
僕は少し考える。
確かに僕は文乃を殺すように言われているけれど、いじめられている文乃を見殺しにするようには言われていないし、いじめを止めるなとも言われていない。そろそろこんな風に死にかけの虫のように丸まっている文乃がかわいそうだと全く思わないこともないし、下手をすればこのまま文乃は死んでしまうのかもしれない。
それは困る。
それは阻止をしなければいけない。
「……やめた方がいいんじゃないかな」
僕が言うと、尾坂はモップでぐりぐりと文乃の背中をえぐりながら、つん、と唇を尖らせた。
「なんでー? こいつ、むかつくじゃーん。暗いしー、とろいしー、何かキモいしー」
「ほんとほんとー。もう、死んだ方がマシっていうくらいの感じだよねー」
「いっそのことさぁ。わたし達でもう、殺してあげよっかぁー?」
「あー、それいいねえー。名案だねー」
「……あんまり殺すとかそういうの、言わないほうがいいと思うけど」
僕がそう忠告をすると、彼女達はぎん、と尖ったような瞳を僕に向けた。
「何々ー? 安西くんてもしかしてー、こういうやつが好みなのー?」
「いやーん、ショックー。わたし、安西くんのこと、ちょっとカッコいいとか思ってたのにー」
「ほらほらー、あんたも何かいいなさいよぉー。ボロ雑巾!」
僕の言葉を全く聞かず耳を傾けることなく勝手なことを言い続ける彼女達。
仕方がないので、ブレザーの内側に手を突っ込んで、リコリスから受け取ったピストルを取り出すことに決める。リコリスに貰った、小さい銀色の護身用。
それを見た女子達は、それぞれ「なにそれ、玩具?」「エアガンじゃないの?」「えー、それでどうするのー?」とか、勝手にくすくすと笑っている。
おもちゃじゃないよ。
僕はそれを間違いなく誰もいないはずの床に向け、引き金を引いた。瞬間、パァン! という音が響き渡り、なぜか尾坂の後ろに置いてあったはずの地球儀の上半分が吹っ飛んだ。意外と音が小さいな。そうだ、そういえば、消音機が取り付けられてあるとリコリスが言っていた。
この薄汚くて狭い資料室で発砲したことで、尾坂を中心とする女子たちはとてもとても驚いている。顔が蒼白になり、目玉がぽろんと飛び出しそうだ。
「な……なにそれ……なんのおもちゃ?」
「まさかほんもの……?」
「ばっ、ばかっ。そんなわけないじゃん……」
この期に及んで、まだ玩具だと言い張る彼女達に、僕は少しだけむっとする。
「おもちゃじゃないって」
そういって小さなピストルを彼女らに向けて、引き金に軽く指を掛ける。僕は一応「文乃を殺すように」とか言われているけれどそもそも人を殺すのが特別好きなわけではないし、むしろできれば殺したくない。けれど、もし目的達成のためだったのなら、一人や二人、余計に殺してももしかして怒られないんじゃないかとそう思う。
引き金を引くような動作をすると、彼女達は「わぁぁぁぁ」だか「ぎゃぁぁぁぁ」だか、なんとも品性の欠片もない野獣みたいな悲鳴を上げて逃げて行った。
彼女たちの姿が完全に見えなくなるのを確認し、僕は屈んで、床に散らばった地球儀の欠片を拾い集める。床を目掛けて発砲をしたはずなのに、どうして数メートル離れた正面にいた、尾坂の後ろなんぞに命中をしてしまったのだろう。「あんたいつか、絶対自分の頭打ち抜くわよ」というリコリスの言葉が脳裏に浮かぶ。やはりちゃんと、射撃のやり方を教わった方がいいのかもしれない。
暫しの間地球儀の欠片を手に持ったままそのようなことを考えていたのだけれど、僕の意識は床に転がった文乃を見つけたことで現実世界に引き戻される。
野暮ったい瓶底眼鏡としめ縄みたいなおさげをつけた穂積文乃は、床にぺたんと座り込むようにして、僕の姿を見つめていた。
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