第5話 『よろしく』

 僕が学校に行かなかったことには理由がある。

 ひとつは、僕に正式なる戸籍がなかったこと。

 そして、保護者と明確に言えるような人物がいなかったこと。

 元々僕は長い間、大橋圭吾や長塚由美子のような人間に「囲われている」……? 違う、「飼われている」? ……うまい言葉が見当たらない。とりあえず、「そこから出ないよう言われていた」ので、彼らの影響もあり、まともな教育を受けることがなかった。教育といえば、本を読んだりテレビを見たり、あとは出入りをする人たちに漢字の読み書きや数字の数え方を教えて貰ったりと精々その程度だったのだ。

 だから僕の中にある「学校」というものはひどく抽象的なものであり、それこそテレビや漫画で受けたイメージそのままだ。

 今まで外側からしか見たことがなかった学校は一体どんなところなのかという、興味半分緊張半分だったのだけど、「学校」は予想以上に大きかった。

 学校法人 彰陽しょうよう学園。

 1976年現理事長である草壁正行くさかべまさゆきが設立した、中高一貫男女共学の私立校。普通科と進学科、音楽科を持つ進学校で、今現在中高合わせて1700人ほどの生徒が在籍している。広大な敷地の中には、4つの校舎と2つの体育館の他に、陸上競技場やサッカー場、室内温室プール、総合グラウンドなどの特別施設も設置されていて、遠方から足を運ぶ生徒のために寮も設備されている。

 ここまでがリコリスから受け取った資料によるもの。僕はまるっきり、漫画に出てくる金持ち校を想像していたのだけれど、まさかここまで大きいとは。

 彰陽学園は、まるで迷路のようだった。あちらこちらに階段やら扉やら廊下があって、少しでも先をいく教師から目を離すと、あっという間に迷宮の中に入ってしまう。

 僕の担任についたのは、風間真一かざましんいちという名前の男だった。カマキリみたいな痩せた体に鉄色の眼鏡をかけた中年の男であって、いかにもあと二十年家のローンが残っています、中学生くらいの息子と小学生くらいの娘がいます、そして妻の尻に敷かれていますという風貌の、冴えない男。

 担任教師は、僕がふらっと何かに気を取られ余所見をしたりうっかりどこかに行ってしまいそうになると、決まって立ち止まり僕の名前をこう呼んだ。

「どこいくのー、安西君。この学校は広いからねー、迷路みたいになってるから、君みたいに慣れてない子はあっというまに迷っちゃうよー。上級生でも未だに迷っちゃう子はいるんだからー」

 教師の言葉に僕は暫し考え込み、それからそうか、と答えを出す。

『安西徹』は僕の名前だ。今日から僕は、『安西徹』になったのだ。

 今まで「あれ」とか「それ」とかよくて「あんた」「お前」くらいの名前でしか呼ばれることがなかったので、ついつい反応が遅れてしまう。

 僕は、このカマキリ男の骨ばった筋っぽい後ろ姿を見失わないよう、生まれたばかりのひよこのように跡を追いながら、教師の雑談に適当に相槌を打っていく。

「安西君は今まで千葉県の学校にいたんだよねー」

「はい」

「急な転校でご両親とも離れちゃって色々大変だと思うけれど、クラスの子はみんな明るくていい子たちだから心配しなくてもいいからねー」

「はい」

「何かあったらすぐに相談に乗るからねー」

「はい」

 僕が編入することになった二年二組は、B棟三階の一番左側の教室だった。

 足を一歩踏み入れてまず初めに目に入ったのは、さんさんと太陽の光が入る巨大な窓と、窓の外側から茂っているやたらとでかい背の高い木。そして人。

 僕と同じ濃い緑色の制服を着込んだ生徒達は、それぞれ自分の机で本を読んだり机の上に乗っかって談笑していたり教室の後ろの方に集まり箒とボールで野球をしていた。

 その生徒たちは、この飢え死に寸前のカマキリのような担任教師が「お前らー、席につけー」と言うのを合図にして、ばらばらと散ってそれぞれの席に収まっていく。

 風間先生は、持っていた出席簿でぱん、と軽く机を叩いて、教室をさっと見渡した。

「よーし、それじゃあホームルームを始めるぞー。今日は昨日言った通り、転校生を紹介する」

 そこで一度区切った風間先生が、入り口辺りで佇んでいる僕に目配せをしたので、僕は慌てて先生の隣に歩いていく。

「安西徹くんだ。みんな仲良くするように」

 はぁい、といういくらかの声と共に起こる、騒めき。

 どうしていいのかわからず暫くぼんやりとしていると、とん、と先生に背中を叩かれたので、リコリスに言われたように挨拶をすることに決める。

「安西徹です。よろしくお願いします」

 ぺこり、と軽く頭を下げてそれを上げ、意味もなく教室全体を見渡してみる。縦に七列、横に六列。廊下側半分が女子の席で、窓側半分が男子の席。たまにネクタイやリボンをしていなかったり適当に着崩したりはしているけれど、髪を染めたりピアスをしたりしている奴はいないようで、どいつもこいつも同じ服を着て(制服だから当たり前なのだけれど)同じような髪形をしている。僕は人の顔や名前を覚えることが苦手なので、全員が全員、同じ顔をしているような錯覚を受ける。よくよく見ると違うのは一目瞭然なわけなのだけれど、見慣れない光景に目の前がちかちかとしてしまった。

 ごしごしと目を擦り、それを閉じ、開けた先に、『穂積文乃』を発見する。

 廊下側から数えて二列目の前から三番目。分厚い眼鏡に三つ編みをした彼女は、僕と同じモスグリーンのブレザーと僕とは違う赤いリボン、そして襞のついたスカートを穿いて、そこにいた。

 写真で見たときも思ったけれど、実際見ると実に冴えない人間だ。黒フレームの牛乳瓶の底みたいな眼鏡は野暮ったいし、子供用のボーリングボールみたいな頭からぶら下がっている二つのおさげもまるでしめ縄みたいだった。

 他の女子よりも一回りくらい小さい体を縮めるようにして綺麗にすっぽり自分の席に収まっている彼女は、癖のない前髪の間から覗くようにして、俯き加減にこちらの様子を覗っていた。じっと見ていると視線が合って、ばちっ、と跳ねるようにして逸らされた。

「それじゃあ、安西君の席は――」

「はいはーい! 俺の後ろー! 後ろでーす!」

 そう叫んだのは、窓際から三番目、後ろから二番目の生徒だった。

 教師は「うるさいぞー」と言うと、促すように僕の背中をそっと押した。

「だ、そうだ。あそこの、一番後ろの席が空いているから」

 先ほど声を張り上げた生徒は、僕が座るまでここ! ここ! と一生懸命意味もなく主張していた。

「俺、俺。野々村慎吾ののむらしんごっつーんだ! よろしくな!」

 野々村慎吾は、癖のある黒髪と大きな目を持った男だった。

「よろしく」

 好奇心に満ちた野々村の視線を浴びながら席に着くと、誰かに机の左端をとんとんと叩かれる。犯人は色素の薄い茶色い髪と狐みたいな細い目を持った男子生徒。

「俺、植草宏英うえくさひろひで。仲良くしようぜ、安西くん」

 ニヒルともいえるようなその笑みに、僕は「よろしく」とそう言った。

 野々村はずいっ、と椅子ごと後ろの下がり僕の机に身を乗り出すと、

「なぁなぁ、安西はどこから来たんだ? 東京? 神奈川?」

「こらー、野々村ー。いくら転校生が来たからっていって、いつまでもくっちゃべってるんじゃないぞー。もう、授業始めるぞー。前を向けー」

 教卓の上からぽん、と飛んできた教師の言葉に、野々村がやべっ、と小さく呟いた。教室中がどっ、と湧いて、花火が上がったみたいになる。それは僕の隣にいる植草だって例我ではなく、なんとも馬鹿にするような嘲笑うかのような表情を浮かべていた。

「ざまーみろ、シンゴ」

「植草ー、お前も人の事言えないぞー。今日、お前が一番だからなー。昨日言ったところ、ちゃんとやってきただろうなー」

 思わぬ教師の一言に、植草は小さく「えっ」と言って、机の中から慌てて教科書とノートを出した。一時間目は数学らしい。未だくすくすと笑い続けるクラスの面々が一斉に教材を出し始めたのをきっかけに、僕も鞄から真新しいノートと筆箱、そして教科書を取り出した。

 右斜め前を向くと、生徒と生徒の隙間から穂積文乃の後ろ姿が目に入る。やぼったい動作の彼女は、少し大きめの制服から小さな手を出して、やぼったい動作で板書をノートに書き写していた。




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