第4話 『じゃあ、しっかりやりなさい』
それから数日のうちに僕の住むことになる部屋の準備が整う。
イースト・ワイド・カンパニー――EWCから車で二時間ほど離れた場所にある、二階建てアパートの二階の一番奥の部屋。七畳のフローリングの部屋には四畳のロフトが付いている。僕が以前『住んでいた』家よりもずっとずっと狭いけれど、僕が『いた』場所よりもずっと広い。風呂とトイレが一緒で、ガス台と冷蔵庫が付いている。玄関や窓、ガス台などの至る所に「EWC」のゴロが張り付けられていて、リコリス曰く「なんかあったらすぐにセキュリティが作動する」らしい。
「EWCはね、セキュリティや警備を中心に行ってるんだけど、他にもアパートだとかマンションの経営もしてるのよ」
僕の部屋に揃ったのは、着替えと、布団と、テーブルと食器とそれくらい。テレビやラジオはいらないのかと言われたけれど、そもそも僕はテレビを見ないし、ラジオにだって興味はない。携帯電話なんて論外だ。むしろ、養われている状態の僕にここまでよくしてもらえるとは夢にも思っていなかった。精々、畳一枚程度の部屋に布団と共に放置される程度だと思っていたのに、まさか風呂付トイレ付とは。
「本もないおしゃれもしないテレビも見ないで、あんた一体、今までどんな生活してたの?」
そんなことを言われても、今までずっとそういう生活をしてきたので仕方がない。
僕の手元にやってきた制服は、渋い深緑のブレザーだった。擦り切れたTシャツや薄汚れたパーカーばかり着てきたので、制服なんて初めてだ。Yシャツを着てベストを羽織って、どうしてもネクタイが結べない。何度教えて貰ってもぐしゃぐしゃに絡まったようになってしまう。
僕の身分証だとか学生証もいつのまにか完成していた。
『私立
これがEWCにおける最新のプロフィールだ。
学生証によると、僕の誕生日は「20xx年 7月31日 O型」誕生日が適当に決められたというのはすぐにわかった。もしくは、『安西徹』のプロフィールをそのまま僕に流用したか。なぜなら、僕は自分の誕生日を知らないからだ。ちなみに血液型だって知らなかった。知ったのは、先日EWC本社――初めてリコリスと会ったあの日、安西徹の死体と共に連れて行かれたあの場所だ――で血液検査をされたとき。血液検査だけではなくて、身長や体重・血圧や両目の視力色々なものを計られた。なんでも、「もしものことがあった時に必要だから」ということらしい。
偽造だらけの僕の身分で一番驚いたのは何かというと、僕の保護者が「リコリス・ベーヴェルシュタム」というなんとも発音しにくい名前になっていたことだ。
「中学に通うんだったら保護者がいるでしょ」
「べー……べーべ……べーうぇ……? ぶぇ?」
「ベーヴェルシュタムよ」
「ベー……べー、べる、しゅたむ」
「うーん、まぁ、いいわ」
リコリスがまず僕に施したのは、一般常識と勉強だった。
身体検査と共に行った学力調査の結果にリコリスはひどく驚いて落胆をした。なぜなら僕は、同じ年の子供の正解の半分もできていなかったのだ。
更にDVDも使えない、パソコンの立ち上げもできない、携帯電話も持っていない。一度、お湯を沸かそうとしてガス台に火をつけたらうっかり火災警報器を作動させてしまい、「あんたはもう二度と火を使うな」と怒られた。その他にもガスだとか電気だろか色々心配だと言われたけれど、とりあえずまだ感電もガス中毒も起こしていない。
社長の言った通り、リコリスは優秀な人間だった。
十日も立たないうちに、リコリスは九九もまともに覚えていなかった僕に対して、一般動詞とBe動詞、方程式とxyの座標まで教え込んだ。
それだけではなく、髪はぼさぼさ、着たきり雀のファッションセンスゼロの僕の髪を切って綺麗に身支度を整えた。まるで使い古しの箒のように伸び切ってあちらこちらに跳ね上がっていた僕の髪の毛に鋏を入れて櫛を通すと、雀の巣だと揶揄されたはずのそれは卸したての糸のようにまっすぐさらさらになって落ちた。
リコリスは僕の前髪を切り落とした鋏を持ったまま「やだ、あんたかわいい顔してるじゃない」と驚いたようにそう言った。
四月の半ばを過ぎ、分数の掛け算もできなかった僕が音の速さと音源が伝わる時間を掛け合わせて音源からの距離を計算できるようになった頃。同じ年の子供から一年と二週間ほど遅れて漸くの事、「私立彰陽学園中等部」に入学をする。
結局の所、ネクタイを自分で結べるようにはならなかった。
ネクタイを自分で結べないということは、些細なようでとても大きな問題だった。なぜなら、常に誰かに結んでもらわねばいけないということだからだ。
「いい? 今日一日、家に帰るまで絶対にネクタイを取っちゃ駄目よ。あんた、自分でつけられないんだから。誰かにつけてもらうんだったら別にいいけど、そんなの誰にも頼めないでしょ」
なんてリコリスは言うのだけれど、そのリコリスがハンドルを握る右隣で僕は適当な相槌を打ちながらネクタイを解きぐしゃぐしゃに結んでから再び解くという動作を繰り返している。
「あーもう、言ってる傍から何してるのよー」
Yシャツの一番上のボタンの上で固結びを作り明後日の方向を向いているネクタイに、とても不満げな顔を作り上げる、彼女。
「あんたさぁ。結構器用なのかと思ったのに、変なところで不器用よね。ほらまた、それじゃあネクタイじゃなくて丸めたティッシュペーパーみたいになってるじゃない」
リコリスはひどく呆れたようにしてそう言うと、赤信号で車を停めて、ささっと僕の首元に手をかけた。濃紺のネクタイはリコリスの細くて白い指によって綺麗な三角形を形作る。
リコリスは、白いワイシャツの第一ボタンの上に収まるそれを見て満足げに目を細めると、ギアを入れ替えアクセルを踏んだ。
「何度も言っているけれど、あんたの名前は『安西徹』千葉県の県立安住山中学校から転校をしてきたの。遅れてきた理由は……まぁ、親の事情とかでいいわ。もし聞かれたら、なんか適当にいい具合にごまかしてぼやかして答えておくのよ。で、もう、充分にわかっていると思うけど、あんたの目的は学校に『生徒』として忍び込んで、『穂積文乃』を殺すこと。上層部の計らいで、あんたと同じクラスになっているはずだから――詳しいことはその資料に書いてあるから、ちゃんと目を通しておきなさい。ネクタイばっかり弄ってないでね」
リコリスは飽きずにネクタイを解こうとする僕の手をぺちんと叩くと、A4サイズの茶封筒を押し付けた。僕は赤くなった手を癒すようにしてひらひらと宙で仰ぎ、かなり大きめの封筒を開ける。
穂積文乃――ホズミ フミノ 20xx年9月3日岡山県に生まれる。A型。七つの時、両親共に他界。以後、親戚に引き取られ養子として育てられている。一人っ子で、兄弟はなし。得意科目は音楽で、苦手な科目は体育と英語。
「読めない漢字はあったのか」というリコリスに「大丈夫だよ」と返し、上から下まで一通りすべての欄に目を通す。特に目立った特徴も、際立って妙な功績も見当たらない。
「なんで、この子を殺さないといけないのさ」
中途半端に解きかけたネクタイを揺らしながら問いかけた僕の言葉に、リコリスはハンドルを握ったまま器用に肩をひょいと竦めた。
「あんた、一体何聞いてたの? この間本社に行ったとき、社長直々に言われたでしょ。殺す側にも殺される側にも、プライバシーってものが存在するのよ」
『安西徹』のときは、何もいわなくても教えてくれたくせに。
「あれは特別。それに、細かいことはあんた何も知らないでしょ」
そうだけど。そういえば、安西徹は一体どこにいったんだろう。
「え? あんたなに言ってんの?」
何が。
「死んだ人が行くところなんて、たったひとつしかないでしょ」
どこ。
「天国よ、天国」
ふうん。
僕がリコリスの話を聞いたり適当に聞き流したりネクタイをくしゃくしゃにしてそれを解いてまたリコリスに怒られたりしながらも、車はどんどん進んでいく。
「いーい? ちゃんとわかってると思うけど、今日は特別よ。普段は車で送って行ってあげられないんだから、今日の帰りからはちゃーんと定期を使って電車に乗って、自分の家まで帰るのよ。定期も財布も、ちゃんと持ってきてるでしょ」
足元に置いてあった指定鞄を持ち上げて、黒いパスケースと茶色い財布を取り出した。定期にはこう書いてある。『澤田駅⇔大迫東駅』
定期を使うのは初めてだ。そもそも今まで電車に乗るようなこともなかったから、電光板の見方も切符の買い方も先日リコリスに教わった。
「切符の買い方も電車の乗り方もわかんないなんて、あんたこの時代の人間じゃないんじゃない?」
なんて言われたことも記憶に新しい。最終的に「お金の使い方は大丈夫なのか」なんて妙な心配をされたのだけれど、流石にそれは大丈夫。いくら僕だって、コンビニでパンを買ったり自動販売機で缶ジュースを手に入れることくらいできる。
ドイツ生まれのスポーツカーは、建物が少なくて田圃ばかりの埼玉の田舎道を弾丸のように走り抜ける。リコリスだけではなくて、隣を走る黒の乗用車も白のワゴンも、どれもこれもかなりスピードを出している。制限速度は40キロと教えられたはずなのだけれど、スピード計はすでに70キロを超えていた。
あともう少しで80キロというところで、何かを思い出したリコリスは「あ」という声を上げた。
「ねぇ、あんたさ。後ろに、黒いハンドバッグあるでしょ」
「あの、ちっちゃいやつ?」
「そうそう。それ取って」
シートベルトを外した僕は、座席と座席の間から身を乗り出して、金色のラメが入った黒いハンドバッグを取る。かなり小さい。僕の持っている学校の指定鞄の、四分の一くらいの大きさしかない。この小さなカバンの中に一体何が入るのだろうと思いながらそれを渡すと、リコリスは左手でハンドルを持ち、右手でハンドバッグの蓋を開け、そこから何かを取り出した。
拳銃だった。
「殺すだけっていっても、道具がないとどうにもなんないでしょ」
この間、本社で持たせてもらった奴とはタイプが違う。社長に撃たせてもらった奴は、持つところが濃い煉瓦色でスマートな形状の、アメリカの映画にでも出てきそうな風貌のものだった。
けれど今僕が渡されたのは、全体的にずんぐりむっくりとした、一回りほど小さい鉄色のものだ。
そういえば、銃の練習のどうのこうのといっていたはずなのだけれど、勉強や検査に明け暮れて結局のところ、なんの練習もしていない。
「この前のやつと形が違うね」
拳銃をしげしげと眺めながら僕が言うと、リコリスはくすりと笑って
「この間のあれは元々ちょっと強いやつでね――109マグナムって知ってる?」
「知らない」
「でしょうね。まぁ、とにかく強くて、扱いが難しいやつなのよ。それは、単なる護身用の小型ピストル」
「ふぅん」
ただの護身用のピストルで、人を殺すことができるのだろうか。
「別に、小さいからって役に立たないわけじゃないのよ。だって実際――」
そこで短く息を吐き、続ける。
「あんたは殺したでしょ? あんな小っちゃいカッターナイフでね」
リコリスはちらりと僕に視線を向けて、それからバッグミラーに視線を移す。盾に守られた跳ね馬のエンブレムのお尻には先ほどからずっとシルバーのクラウンが吸い付くようにくっついてきている。
リコリスはちっ、と小さく舌打ちをして、思い切りアクセルを踏み込みスピードを出した。時速はすでに90キロを超えていて、すれ違う車が驚いたようにこちらを見ていた。
クラウンが完全に離れたことを確認すると、ハンドバッグの中から片手だけで器用に煙草とライターを出し、口に咥えて火をつけた。
「別に、そんなに急いで殺せって言ってるわけじゃないのよ」
ふぅ、と吐き出されたリコリスの煙。リコスの煙草は、大橋圭吾や長塚由美子が吸っていたものよりももっとずっと甘くていい匂いがする。同じ煙草なのにどうしてだろうと思うのだけれど、煙草臭いことに代わりはない。
窓を開けると、煙は外へ飛んで行った。
「だってあんたはまだ、子供なんだから――友達を作って遊んでみたり、彼女を作って淡い青春の一時を過ごしたりしてもいいと思うのよ。あくまで私はね」
「……人を殺すのに?」
「社長がこの間言ってたでしょ。世間知らずのあんたには、一般教養をつけるいいチャンスなのよ。でもただ、たったひとつだけ忘れちゃいけないことがあって」
リコリスはそこでギアを入れ替え、スピードを一気に落とした。正面を見ると、赤い青い信号がちかちかと停止を知らせている。
「命はね、たったひとつしかないんだから。それだけは絶対忘れちゃ駄目よ」
彰陽学園には、車に乗り込んで一時間半ほどで到着した。
ポルシェが停まったのはどうやら学校の駐車場らしく、だだっ広い土地を区切るようにして白い線が書かれている。そこにはすでに何台もの車が駐車していて、スーツやらジャージやらを着た人があっちへ行ったりこっちへ行ったり忙しそうに行き来していた。
結局僕は、この一時間半の中でネクタイを結ぶことが出来なくて、またリコリスに締め直される。
「転校生はね、最初が肝心なのよ。ちゃんとしないと、すぐにいじめられちゃうんだから」
ダークグリーンのブレザーは縦にも横にも僕には少し大きくて、ズボンも袖も色々なところが少しずつ余っている。けれど、ショルダータイプのホルスターには丁度よかったらしい。妙な膨らみも目立たない。少し違和感があるけれど、すぐに慣れるとリコリスは言った。
「体育があるときはどうすればいい?」
「うまくやりなさい。トイレで外すとか色々あるでしょ」
「わかった」
薄紅のマニキュアが塗られたリコリスの指が、僕のワイシャツの天辺で綺麗な正三角形を形作る。リコリスはそれを満足げにぽん、と叩くと、
「じゃあ、私ももう行くから」
と車に乗り込んだ。
僕が学校に行っている間、リコリスは一体どこで何をするのだろう。
それを聞くと、車のキーを突っ込んだリコリスは呆れ半分にこう言った。
「仕事に決まってるでしょ」
「仕事? 誰か殺すの?」
「馬鹿ね。そんなわけないでしょ。普通に仕事よ。し・ご・と!」
そんなことを言われても。説得力がなさすぎる。
いざ発進という時にまたしても何かを思い出したリコリスは、黒いハンドバッグの中から何かを取りだし僕の掌にポンと落とした。スマートフォンだ。
「なにかあったら連絡しなさい。使い方、大丈夫よね」
確認するかのようなリコリスの言葉に、僕はうん、と首を上下させる。
スマホの使い方もこの間リコリスに教わった。お財布機能だとかカメラ機能だとか難しいことはできないけれど、LINEくらいならなんとかできる。
「じゃあ、しっかりやりなさい。『安西徹』くん」
リコリスはにっ、という含み笑いを僕に送り、ブロロロロとエンジン音をたたせて去って行った。
盾と跳ね馬が見えなくなるまで見送ってから、学校の方に向き直る。
僕の学校生活が始まる。
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