第2話 『この子を殺してもらいたい』

 結局それから二時間近く走り続けた。

 最初の頃はばっちり目が冴えていたはずの僕もいつの間にか寝入ってしまい、彼女――リコリスにより「着いたから起きなさい」と起こされた。一体今、何時なのだろう。まだまだ朝は遠いような気がするし、逆にすぐ朝になってしまうような気だってする。時計でも携帯でも持っていたらよかったのだけれど、生憎どちらも持っていない。

 リコリスは、助手席に座り込んだまま未だ覚醒しきれていない僕の腕を掴むと、無理やり外に引っ張り出した。

 僕が連れてこられてきたのは、駐車場のようだった。会社の地下とかにあるような、暗くて寒くて密閉された駐車場。かなりの広さがある中で、停まっているのはドイツ生まれのスポーツカーを合わせて三台だけ。

 ここは一体どこなのかと問いかける前に、リコリスはどんどん先に進んでいく。僕は、そんなリコリスに置いて行かれないよう大股で追いかける。北欧混じりのリコリスは、歩くのが速いしコンパスが広いのだ。

 殆ど使われていない深夜だか早朝だかの駐車場でもきちんと警備員が存在していて、身分証の提示を行い警備員の了解を得て、中に入る。

「従業員用の入り口なのか」と問いかけると、「それもあるけど、こんな時間じゃあまだ、正面玄関開いてないの」とそう言われた。

 巨大な鏡がつけられたエレベーターは、僕立ちが乗ると同時に一気に上昇し始めた。僕はエレベーターが苦手だ。上昇中も下降中も、内臓がぐわりと宙に浮く感じがして、それがとても気持ち悪い。青い顔でずっと腹を押さえていたら、何をしてるんだと笑われた。

 エレベーターの赤いランプが最上階を点滅させると同時に、固い鉄の扉が開く。そこはかなり広めの廊下になっていて、エレベーターを出たところから線路のようにずっとずっと続いている。窓側が全てガラス張りになっていて、外の様子が一様に見える。左側にあるのがコンビニで、右側にあるのがラブホテル。少し遠くに線路が見えた。高層ビルがかなり多い。居酒屋や風俗業の看板だって沢山ある。その反面、田圃の類が一切ない。地下の駐車場にいたときはわからなかったが、かなり都会に来たようだ。

 少し明るくなってきている。日が上がるまでまだもう少し時間はかかるのかもしれないけれど、飽きるほどの時間はかからなそうだ。

 なんて、窓から下界を観察していたら、いつの間に距離ができたのか遠くの方でリコリスが呼んでいる。

「早くしなさい、置いていくわよ」

 待ってください。すぐに行くんで。

 廊下の導く先にあったのは、一つの扉だった。

 その、重厚そうな茶色の扉の表札には、こう書かれていた――「社長室」

 リコリスはトントン、と拳で軽くノックをし、えへん、と咳払いをして、先ほどよりもワントーン低い落ち着いた声でこう言った。

「社長、リコリスです。例の少年を連れてきました」

 間の向こうから「入りなさい」と若い男の声が聞こえてきた。

 リコリスが部屋への扉を開ける。

 社長室は驚くほどに広くて、さっぱりしていた。

 正面に置かれた大きな机と、その横に置かれた一鉢の観葉植物。街一面が見渡せるかのような巨大な窓にはブラインドがかけられていて、蛇腹の間から夜の光が漏れている。床全体に引き詰められた真っ赤な絨毯は咲き誇る薔薇のようでもあり、大きな本棚には、難しそうな本や分厚いファイルが所狭しと敷き詰められていた。

 リコリスに『社長』と呼ばれたその男は、そのような場所に存在していた。社長というから皺くちゃの老人を想像したのだけれど、随分と若い。テレビドラマや映画に出ている俳優のような甘い顔立ちをした男。大学生には見えないけれど、だからといって大きい子供がいるようにも見えない。けれど、リコリスよりもいくらか年上のようにも見える。その男がいるだけで、この社長室全体が、まるでドラマのセットみたいだ。

『社長』の左右には護衛をするようにして男が一人ずつ立っている。同じ黒いスーツとサングラスを着用していて、右側にいるのが浅黒い肌をした背の高い男。左側にいるのは、背は低いけれどがっちりとした体格の、腰の据わった男だった。

 リコリスは、『社長』の座るデスクから二メートル程離れた場所で立ち止まると、軽く一礼をして声を出した。

「昨日お話が出た『安西徹』の件ですが、本日0時半ごろ無事、遂行することができました」

 その言葉で、ようやく僕は、あの高級車に押し込められている『安西徹』を思い出す。死んでからもう結構な時間が経ってしまった気がするのだけれど、果たして大丈夫なのだろうか。あの、安物のレジャーシートから血が染み出ていかにも高級な車のトランクを汚してしまっていたり、妙な汁を垂れ流していたりはしないのだろうか。

「死因は?」

「刃渡り十六センチほどのカッターナイフで心臓を一突きです。刺した位置がよかったのでしょう、殆ど即死状態で、目立つ出血もありません」

 リコリスは一歩先に進み出ると、手持ちの鞄から何かを出して机の上にポンと置いた。僕が『安西徹』の胸に突き刺した、工作用のカッターナイフだ。

 社長はそれを手に取り刃を出して、眺め、刃を掌に合わせるようにぽん、ぽんとリズムを取った。

「その、後ろにいるその少年は?」

「先ほど電話でお話をした少年です」

「名前は?」

「少年A……と自分ではそう言っています」

 自分でそう名乗っているわけではないのだけれど。

『社長』は薄らと笑みを浮かべ両足を軽く交差させると、言った。

「安西くんは、個性豊かな我が社の中でも飛びぬけて個性的な人材でね――行動力があるのはとてもよいことだったのだけれど、いかんせん、彼は少し、子供過ぎてしまったようだ。まさか、無関係の人間を巻き込むつもりはなかったのだけれど、どうやら無事なようで安心をしたよ。私の部下――いや、元部下が、不躾なことをしでかしてしまったことへの侘びと、本件を解決に導いてくれたことへの礼をしよう。本当にありがとう。感謝する」

 リコリスの後ろに立ったまま、はぁ、といまいち気の抜けた返事を返す僕。人を殺してしまったことに対して、咎められるわけではないんだな。

 そこで僕は、疑問に思っていたことをそのまま『社長』に問いてみる。

「あの」

「なんだい?」

「この会社って、なんの会社なんですか?」

「なんの会社だと思う?」

「あの……その」

「ああ」

「人殺し、とか」

 社長はそこでふっ、と目を細めて、体勢を代えた。細かい細工が施された椅子が左右に揺れて、金属が擦れるような音を立てる。

「サービス業だよ。警備やセキュリティーサービスを中心に行っている――イースト・ワイド・カンパニーって知っている?」

 左右に首を振る、僕。社長は何とも言えない笑みを零すと、

「君はあまりテレビを見ない人なのかな? 海外進出もしているし、谷中昇選手がイメージキャラクターのCMも放送をしているんだけれど」

 今度は首を縦に振る。テレビなんて、もう何か月もの間まともに見ていない。谷中昇選手とは一体誰の事なんだと問いかける前に、「有名なプロ野球選手よ」とリコリスがこっそり教えてくれた。

 それと同時に、それまでずっと隠れるようにして立っていた僕のことを、リコリスが前方に引っ張り出す。

「……まぁ、それだけではないのだけれどね」

 社長の形のよい唇が少し動いた気がしたのだけれど、うまく聞き取ることができなかったので「え?」と思わず聞き返す。

 僕の疑問に、社長は右手を左右に振りながら「なんでもないよ」といって笑った。

「ところで、えー……Aくん、だったかな。君は、警備員に興味はあるかい?」

 社長の言った言葉の意味がわからず、僕は思わず眉を顰める。

「生憎本日――いいや、もう昨日のことになるか。非常に貴重な部下をひとり亡くしてね……ああ、大丈夫。安西くんのことではないよ。井上くんというのだけれど――彼の後の仕事を請け負ってくれる人間がいなくなってしまったんだ。このご時世、昔のように溢れるほどの人を雇うというわけにもいかなくなったし、雇う方もある程度、人間を見極めて雇っていかねばならなくなった。どういう意味だかわかるかい?」

 まったくわからない。

 端正な顔の男は含み笑いを浮かべながら、一部の新聞を取り出した。やたらと白くて細い、ピアノでも弾いているかのような繊細な指で指示したのは、一週間前、B県のとある住宅地で起こった事件だった。


 今から丁度一週間前の3月23日、B県O街にある住宅で男女の死体が発見された。被害者は大橋圭吾(39)と長塚由美子(34)。死因はそれぞれ、腹部を刃物で刺されたことによる出血死と、頭を強打したことによるショック死だと思われる。二人は暴力団と関わりがあったと見て警察は捜査を慎重に進めている……


 しまったな、と僕は思う。

 リコリスのブラウンの瞳と社長の黒い瞳の二つの視線を受けながら、目の前に置かれた古新聞をじぃ、と見つめ、弁明する。

 殺す気はさらさらなかった。それは本当のことだった。

 ただ、いつもよりもいくらか遅く帰宅をした大橋はその日ひどく泥酔をした状態で、何を思ったのか刃物を持って襲い掛かってきた。抵抗をしたら自分で自分の腹に包丁を刺して死んでしまった。そして、そのあとすぐに返ってきた長塚が床に転がる大橋の死体を見てひどく驚いて取り乱して、僕が殺したものを決めつけた。僕は違うといったのだけれど、長塚はとても脅えて混乱していて、「近寄らないで人殺し!」と叫びながら、辺りにあった花瓶やコップを僕に向かって投げつけた。その拍子に、たまたまずるりと落ちてきたテーブルクロスを踏みつけて足を滑らしすっ転び、テーブルの角に頭をぶつけて絶命した。

「警察は関わりを持っていた暴力団関係者の行方を追っているらしいけど……二人は、君のお父さんとお母さんかい?」

 若い社長の問いかけに、僕は左右に首を振る。

「じゃあ、君のお父さんとお母さんは?」

 知りません、会ったことないんで。

 僕の言葉に、社長は楽しそうにくすくすと声を出して笑った。

「住所不明、名前も不明――それだけではなく、親や家族も一切なしということか。まるで、君の存在自体がないみたいだ」

 社長は特に何も考えず、軽い冗談のつもりで言ったのだろうけれど、なかなかうまく比喩されている。容姿端麗なこの若社長は、スタイルだけではなくどうやら頭もいいらしい。

 肯定をするその前に、社長はパン、と景気よく両手を合わせ、人差し指を僕に向けた。

「一千万」

「?」

「今回の仕事が成功に終わった時の報酬だよ」

 社長はキィ、と椅子ごと反転すると、明るくなりつつある窓に向かった。

「まさか就職をして、ずっと働くようにとは言わないさ。なにせ君はまだ未成年だ。けれど、帰る所がなければ住む所もない。食べるものがなければ、匿ってくれる人間も頼れる人さえもいない君には打って付けの好条件だと思わないか? なぁに、物は試しというだろう――少なくとも、我が社に協力をしてくれているその間は、最低限の衣食住は保障しよう」

 確かに僕は今、住所不定無職の状態だ。そして、いくら存在がぼやけているからといっても一応、警察から追われるべき身だ。ここ一週間くらいはあの家から持ち出したお金でなんとか凌いでこれたけれど、諭吉であったはずのお金はあと数百円しか残っていない。

 けれど、その「仕事」というのは一体何をするのだろう。社長の言う「優秀な部下」が「いなくなってしまった」ということは、それだけ難しい仕事なのだろう。プロの警備員ですら達成することのできなかったそんなこと、果たして僕にできるのだろうか。

 などと色々なことをぐるぐる考えているのだけれど、僕の思考とは真逆の所で話はどんどん進んでいく。

社長は新聞をデスクの引き出しに仕舞い込み、それと引き換えに一枚の写真を取り出した。

 僕の位置からは、いまいち写真がよく見えない。けれど、どうやら人の写真であるようだ。

「君にお願いしたいことはただひとつ。この子を殺してもらいたい」


 なんだって?


 社長の言葉を耳に入れ、十秒たっぷり僕は体を強張らせ、眉を寄せ、首を捻り、漸くの事声を出した。

「え?」

「この子を殺してもらいたい」

「あ、いえ、そうじゃなくて」

 聞こえなかったと思ったのか、同じことを二度言おうとする社長の言葉を遮って、僕は言う。

「殺す、ん、ですか? 警備会社なのに」

「ああ、そうだよ。何か問題でもあるのかい?」

 と、さも当然のように言う、社長。逆に聞き返されて、むしろこっちが困ってしまう。

 写真に写っているのは女の子だった。

 彼女の名前は穂積文乃。僕と同じ年くらいの、眼鏡をかけた、二つ括りの女の子。大人しくて地味目の、いかにも読書が好きという風貌で、間違ってもピアスを開けたり髪を染めたりするようには見えなかった。

「あの」

「うん」

「どうしてこの子を殺すんですか」

 僕の素朴な疑問に、社長はくるりと椅子を回転させた。

「仕事を行う上で、プライバシーの保護というのは非常に重要な問題でね。依頼者は当然、目標のプライバシーを守ることも、我が社の大事な決まり事の一つになっている」

 わかるかい? と視線で訴えられたのだけれど、正直僕にはよくわからない。ので、取りあえず曖昧に相槌を打っておく。

 僕が頷きに社長は満足したのだろう。ぴん、と『穂積文乃』の写真を指で弾いて、机の上で両手を組んだ。

「君には、『安西徹』として、穂積文乃と同じ学校に入ってもらう」

 安西徹?

「敵を欺くにはまず味方から。どうせ君は、学校にもまともに通ったことがないのだろう? 一般教養を身に着けるいいチャンスだ」

 大分見抜かれている。顔が良くてスタイルもよくて頭がよくて更におまけに勘もいいとか、一体どこのドラマの主人公だ。

「でも、なんで安西徹なんですか」

「元々この仕事は、君の殺した『安西』くんに任せるつもりだったんだよ。彼は元々、少しばかり問題が多くてね……その上、経験も実力も少しばかり不安だったから、他に適任がいればいつでも代えるつもりだったんだ。ま、今となってはどうでもいいことなんだけどね」

 社長はそこで薄く微笑み、ひょい、と痩せた肩を竦めた。

「君に任せる仕事は特殊でね。色々と面倒なことが多いんだよ、こっちの仕事は。君だって少ない方がいいだろう? 命に関わるリスクは」

 そうかもしれない。

 本名でやるより偽名のほうが何かあったとき都合がいいのかもしれないし、安西徹はすでにこの世にいない存在なのだ。彼の名を語ることほどうってつけなことなどそうあるまい。

 けれど、ただ一言で「殺す」といっても、一体どのように殺したらいいのだろう。先の二回は本当に「偶然」殺すことができたのだけど、まさか三度目も、しかも故意に殺すことができるなど思えない。もし何らかの偶然で殺すことができたとしても、今度こそ誰かに見られて、間違いなく通報されそうだ。

 僕の主張に、社長はデスクの引き出しから今度は一丁の拳銃を取り出した。

 拳銃を生で見たのは初めてだ。そもそも、普通に生きていたらよっぽどのことがなければそれほどお目にかかることなどないのかもしれないけれど。手に取ると、玩具ではないずっしりとした重さがのってくる。

「これを使うんだ」

 使うんだと言われても、言われてすぐに「はい、そうですか」と使えるものではない。

 すると社長は立ち上がり、机の上に飾ってあった一つのトロフィーを指差した。『EAST WIDE COMPANY 第3回社内ボーリング大会優勝』

「ここを狙って引き金を引いてみるのよ」

 引くんだと言われても、まず拳銃の持ち方がよくわからない。

 リコリスに実地で教えてもらっている僕の後ろでは、すでに避難をしている社長とそのSPが興味深そうにこちらの様子を覗っている。

「そう、緊張しなくてもいい。最初からうまくできる人間なんていないんだから。外したっていいさ」

 当たり前だ。銃を持つことも見ることすら初めてなのに、うまくやれ的中させろと言われてもこっちが困る。最も、もうすでに困りきっているのだけれど。

 後ろ手にリコリスに付き添ってもらい、銃を構え、引き金を引く。ドン! というか、ズドン! というか、もしくはバン! というべきか。言葉で言い表せないようなものすごい銃声と反動が、僕を包みこむ世界一体に広がった。

 初めての衝動に僕の体は耐えきることができなかった。飛び出る弾丸の反作用で、一気に後ろに座り込んだ。すごい衝動だ。まるで小型の爆弾みたいだ。

 背後からものすごい悲鳴が聞こえてきたことに気が付いて、僕は尻餅をついたまま後ろを振り向く。

 僕が放った弾丸は目標であるはずのトロフィーを見事に避け、右斜め後ろにいたはずの色黒の男に命中した。前に向かって撃ったはずなのに、どうして後ろに飛んだのはよくわからない。頭の中心から血を垂れ流した男が赤いカーペットの上に仰向けになり、絶命していた。

 もう一人のSPである小男は青い顔で先ほどまで生きていたはずの相棒を見つめていたし、社長はなにやら、子供の悪戯でも見るかのような笑みを浮かべていた。リコリスに至っては片手で顔を覆い、「あーあ」というようにしてぱくぱくと口を動かしていた。

「……銃の扱いについては、少し練習しておこうか。リコリス、彼のことを見てあげてくれ」

 社長の言葉に、リコリスが小さな声で「……はい」と返事をしたのが聞こえた。

 僕は尻餅をついたまま、ひゅーひゅーと煙の上がる銃口を見つめた。もしかしたら、僕に銃は向いていないのかもしれない。


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