第3話

 いつもの食堂に会社の同僚と昼食を食べにいく。俺の好みの如何にもお嬢様風の女がいる。俺も同じような女に次々とよく惚れるな。  

 俺は牡蠣フライ定食を食べている。良い女を鑑賞しながら飯を食うと、本当に飯が美味い。同僚の上原さんと岩下が何やら話し込んでいる。

「何話してんすか?」

「向こうのテーブルのOL達と合コン出来ないもんかなって話してるところですよ」と会社の後輩の岩下が答える。

「ああ、あん中に俺好みの女が一人いてさ」

「どれ、どれですか?」と岩下が乗り出すように周囲を見回して言う。

「あの手前の脹脛がパンと締まった女だよ」

「ああ!あっちが好みなんですか!あっちは背が高そうだな」と細身で小柄な岩下が言う。

「女は背が高いに越した事ないだろ。背の高い女とは色んな愉しみ方が出来るんだぞ」

「例えば、どう言う?」

「何、真面目な顔して訊いてんだよ!」と言って、俺は岩下の頭を叩く。

「例えば、どういう事ですか?」と岩下が不機嫌そうな顔で訊く。

「もっとよく考え、よく遊びたまえ」

「判んないなあ」と岩下が俺に頭を叩かれた事を少し不満そうに口を尖らせて呟く。

「岩下はどの女が好みなんだ?」

「俺は一番奥の顔が見える位置の子です」

「ああ。あの子は大人しそうな子だな」

「凄く可愛いですよ」

「あれにどんな事したいんだ?え?」

「何ですか、それ!変態なんじゃないですか、先輩!」

「だからな、例えばお前はあの服を脱がして、どうしたいんだ?」

「変態ですよ、先輩!そんな事訊いてどうするんですか!」

「馬鹿野郎、セックスを向上させたけりゃ、誰だって仲間に探りを入れながら良くしていくもんなんだよ」

「自分の愛し方で良いじゃないですか」

「お前、あれはもう済んだのか?」

「あれって何ですか?」

「だから、あれだよ。童貞じゃないよな?」

「童貞ですよ。俺は結婚するまでセックスはしません」

「そうか。俺も結婚するまでしなかった。しないと決めていた訳ではなかったんだけどな」

「やっぱり、合コンとかやって旨くいったら、結婚するまでセックスしないなんてダメなんですかね?」

「お前に惚れた女なら判ってくれるよ。結婚前提でお付き合いしたいですって言うつもりなんだろ?」

「はい」

「姦淫は今に始まった事ではないし、最近の女が特別性が乱れている訳でもないんだ。俺達が生まれる前には世の中既に性が乱れてたんだよ」

「結婚する女は出来るなら処女が良いですよねえ」

「処女っていうのはな、お前が始めての男である女だぞ。お前のセックスが好くなかったら、快楽に目覚める事もない。その点、経験のある女はこうして欲しいってのがある。こういう感じが良いって催促出来るんだよ。要するにな、セックスってこんなもんかって独り善がりには決めつけないんだ。もっと良いもんであるのを体で知っている訳だよ」

「はあ」

「男だってそれは同じだ。AVとは違うなって思いが先ず来る」

「それって、前の男が良いって事なんじゃないですか?」

 俺は岩下の頭を叩き、「人類皆兄弟だろ!」と言う。

「じゃあ、先輩はどうやって初めて同士の結婚でそういうのが判ったんですか?」

「だから、言ってるだろ。経験者の言葉を参考にしたんだよ」

「ああ、なるほど」

「判ったか、自分の愛し方!」と言って、俺はまた岩下の頭を叩く。その途端、岩下が席から素早く立ち上がり、俺の左の頬を思い切り殴りつける。俺は椅子から転げ落ちて床に倒れる。岩下が俺の上に跨り、「この野郎、なめやがって!お前なんか俺の相手じゃねえんだぞ!この変態野郎!」と叫びながら、俺の顔を連打する。顔に水滴が落ちてくる。岩下は泣いている。


 気づいた時には何処かのソファー上で寝ていた。どうやら会社の応接間のようだ。俺は食堂で岩下に殴られて伸びてしまったようだ。あの野郎、ただじゃ済まさねえぞ!俺はソファーから起き上がり、仕事場に向かう。見回しても仕事場に岩下の姿はない。

「おお、清高、大丈夫か?」と一緒に昼食を食べに行った先輩の上原さんが訊く。

「岩下、何処ですか?」

「明日、辞表持って最期の挨拶に来るって言って、早退してったよ」

「何だよ、あいつ!」

「大丈夫か、清高君?」と社長が訊く。

「ああ、大丈夫です。口ん中少し切ったぐらいで、歯も折れてないようです」

「そうか。今日はもう帰るか?」と社長が訊く。

「ああ、そうですね。かなり興奮してるし、これじゃあ、仕事にならないです」

「じゃあ、今日はもう帰って良いよ」

「済みません。それじゃあ、また明日。お先に失礼します」

「お疲れ様!」と上原さんと社長が言う。

 俺は岩下の顔を滅茶苦茶に殴る想像をしながら、JR新橋駅に向かう。もう夕方近いんだな。いつもと大して変わんねえや。

 蒲田駅方面行きのJR京浜東北線が轟音と共にプラットフォームに入ってくる。入って左向かいの手前の端のシートが空いている。そこに座ると、此間の女が右斜め前の席から俺を睨んでいる。俺は向かいの席に座っている紺のミニスカートを穿いた細身の女の脚を見て、此間の女から視線を逸らす。向かいの女とは時々視線が合う。次に視線が合った時に掌を膝の前で合わせ、女の眼を見ながら、股を広げるようにと合わせた掌を離したり、合わせたりしてみせる。女の口許が笑う。俺はポコチンを指差して腰を動かす。女は不機嫌そうな顔をして俯く。此間の女の方を見ると、睨んでいた目が少し笑い、努めて俺を無視するように視線を逸らす。

 此間の女は田町駅で下車する。向かいの女はその次の品川駅で下車する。俺は目を瞑る。


 俺は終点JR蒲田駅で下車して階段を上る。二つあるアーケイドの内の一つを抜け、更に住宅街に向かう。夕食を外で済ませないといけない事を思い出す。アーケイドに引き返す。何の当てもなく定食屋に入る。昼も夜も外食か。能のない一人暮らしだ。

 店の中は客で一杯だ。空いてる席を探して見回す。木幡がテーブル席に座り、一人で飯を食っている後ろ姿を見つける。

「よう!木幡君!」

「ああ、何だっけ、名前?」

「清高だよ。忘れちゃった?ここ座って良い?」

「ああ、良いよ。どうぞ」

「何、カツ丼?」

「うん。ここのカツ丼美味いんだよ」

「カツ丼か。俺は何にしようかな。焼肉定食でも食うか。すみませえん!」

「はあい」と三〇過ぎぐらいの女の店員が返事をし、俺のところに来る。

「焼肉定食一つ」

「はい、焼肉定食ですね」

「はい」

「ご注文、以上で宜しいでしょうか?」

「はい」

 店員はカウンターの方に行き、大きな声で、「焼肉定食一つ!」と厨房に向かって言う。

「何か顔が腫れあがって赤くなってるね」と木幡が眉を顰めて言う。

「ああ、これ?後輩の頭を叩いてたら、向こうがキレちゃってさ、滅茶苦茶に殴られたんだよ。まあ、俺は何処も頑丈に出来てるから大丈夫なんだけどね」

「訴えたりはしないのか」

「うん。訴えるつもりはない。木幡君、何処に住んでるの?」

「俺?」

「うん」

「千鳥町」

「ああ、何線だったっけな・・・・」

「池上線」

「ああ、そうだそうだ。へえ、千鳥町か。マンション?」

「いやあ、アパートだよ。木造で、バス・トイレ付きの1DKだよ。清高君は何処に住んでるの?」

「俺はね、何と蒲田なんですよお(笑)!そのまんまか(笑)!」

「アパート?」

「うん、そう。鉄筋で、バス・トイレ付きの2LDK」

「結婚してるんだったよね?」

「ううん、まあ、ギリギリね。もう離婚寸前」

「大変だね。子供いるの?」

「いるよ。娘が一人。二歳だよ」

「ああ、まだ小さいね。可愛い?」

「うん」

「俺は中古でCDやレコードを買って生活していければ、他に望む事欲しい物はないな」

「やりたい事はあるんでしょ?」

「最近、それもなくなってきた」

「へええ。あの、此間さあ、居酒屋で飲んだ日、俺、大変な目に遭ったんだよ」

「何か遭ったの?」

「家に辿りつく前に裸になって公園で寝ちゃってさあ」

「雪の日だったよな。危ないぞ。凍死するかもしれないよ」

「うん、まあ、そうなんだよね。それでさあ、知ってるかなあ。主婦三人と幼児三人が撲殺された事件」

「ああ、何か蒲田であったよね」

「その容疑者として、俺、警察に捕まったんだよ。霧の出てる珍しい朝でさあ。雪に埋まって目覚めたら、子供の声がする方にふらふらあっと近づいていったんだよ。その霧の中にあの殺人鬼が一緒にいたらしくて、俺、現場の惨状に驚いておろおろしちゃってさ、離れられなくてさ。撲殺された被害者の返り血まで浴びちゃってたから、警察に連行されたんだけど、真犯人がいるのが判って釈放されたんだよ。その犯人の大学生がさあ、実は俺んちの隣の部屋に住んでる奴だったんだよ。もう散々な目に遭ったよ」

「へええ。大変だったね」

「それでさあ」

「うん」

「俺、絶対人殺すような人間じゃないんだよ」

「うん」

「それで頭きちゃってさ。悲しくてさ。その後、俺はこういう人間だって判って欲しくて、JR東京駅からJR新橋駅まで素っ裸で走ってやろうとしたら、JR新橋駅に辿りつく前に警察に捕まって、刑務所にぶち込まれたんだよ。それで釈放されて出てきたら、奥さんが離婚するって言い出してさあ。俺、今、別居中で、ほとんど離婚スレスレなんだよ」

「裸で走るって何なの?」

「何なのって言われてもなあ。そこに居合わせたら多分判るよ。殺人犯すような暗い人間じゃない。愛で一杯の人間なんだって判ってもらえると思うんだよ」

「確かに暗くはないわな」

「うん。判ってくれた?」

「うん、まあね」

「妻は判ろうとしないんだよ。俺の事まともな人間じゃないのが判ったなんて言うんだよ。もう着いていけませえん!みたいなさ」

「君は君で奥さんの気持ちが判んないんだ?」

「え?」

「お互い相手の気持ちを理解しようとしない訳だよね?」

「ああ、そう言う事になるのかな。なるほどね。よく判った。妻にはその辺の話をしよう」

「焼肉定食ですね?」と店員がテーブルの脇に立って言う。

「あっ、はい」

 店員は焼肉定食を俺の席の前に置くと、「ごゆっくりどうぞ」と言って下がっていく。

「食欲は旺盛みたいだね。まあ、そんなに悩むなよ」

「うん。俺、離婚したくないなあ」

 涙が一滴御飯の上に落ちる。

「じゃあ、俺、今日聴きたいCDがあるから、もう帰るわ」

「ああ、そいじゃあ!ありがとう」

「元気でな」

「うん」

 あいつ、良い奴だな。大田が付き合うのもよく判る。何て言うのかなあ、ああいう人間。機転が利く。誠実な人。思い遣りがあるって奴かな。俺は鞄から詩集を出し、焼肉定食を食べながら読み始める。

 自我が神の愛の邪魔をする、か・・・・。

「よう、清高!」

 俺は名前を呼ばれて振り向く。

「おお、何だ、チョンボか。まあ、座れよ」

「おお」

 チョンボは先、木幡が座っていた席に腰を下ろす。

「何だ、お前、本なんか読んでんのかよ」とチョンボが言う。

「その言い方、お前らしいよな」

「本なんて『雪国』しか読んだ事ねえよ。難しくて俺には全然判んなかったよ」

「ロック・スピリットを感じさせる小説だって沢山あるんだぞ」

「小説なんかでロックを表現しようとする奴はもっと嫌いだよ」

「何で?」

「そう言う奴がロックをやってみせれば良いだけの事じゃねえか」

「お前は本当に判りやすいよ!」

「またあ!インテリの真似事みてえな事言いやがって。本読む奴は皆そうなるからヤなんだよ」

「だから、判りやすいよ。良い影響受けたよ。ロックの本当の心を思い出させてもらったよ」

「いらっしゃいませ。ご注文は何になさいますか?」と店員がテーブルの脇に来て、チョンボに注文を取る。

「親子丼一つ」

「はい。親子丼ですね。少々お待ちください」と言って店員は下がり、厨房に向かって、「親子丼一つ!」と大きな声で言う。俺は詩集を鞄に仕舞う。

「お前、何か顔が赤く腫れてるぞ」

「あああ!これで二度目の話だよ!会社の後輩の頭を調子づいて叩いてたら、向こうがキレたんだよ」

「相当やられたな」

「知らぬ間に気絶してたんだよ。それで今日は会社早退。チョンボ、よくここ来んの?」

「まっ、大体この辺で飯食うな。休みの日なんかも飯は外食で済ませる事が多いね」

「蒲田にまだ皆いんのかねえ?」

「皆って?」

「いやあ、中学ん時の奴らとかさ」

「いるんじゃねえの」

「見かけないな、あんまり」

「皆、仕事あるからな」

「結婚してんの俺だけ?」

「他はあんまり聞かないな。お前が結婚してたのだって、此間初めて知ったんだからよ」

「結婚式とかにも学生ん時の友達はあんまり呼んでねえからなあ」

「そんな本なんか読んでっから、冷てえ人間になるんだよ」

「そういうのは関係ねえだろ。それに最近はあんまり本は読んでないよ。お前大体詩書かねえから音楽に文学なんて関係ねえみてえな事言うんだよ」

「詩が書ければなあ」

「ヴォーカルやりてえだろ?」

「やりてえって言えば、やりてえなあ。先のねえちゃんも」

「お前、頭ん中そればっかりだろ!」

「何言ってんだよ!自分だってそうだろ!」

「全くここらの奴らは品がねえんだよ」

「何気取ってやがんだよ!」

「親子丼ですね」と店員がテーブルの脇に立って親子丼をチョンボの席の前に置き、「それではごゆっくり」と言って下がっていく。

「あの女、三〇代だな。婆だよ」とチョンボが小声で言う。

「うん。俺の奥さんは美人だぞう。年上だけど。お前、彼女いんの?」

「いるよ。良い子だよ、今の子は」

「ふううん、今の子はってな。そういうのは経験ない。初めてやったのが今の奥さんだから」

「おおい!お前、ほんとかよ!」

「ほんとだよ」

「やりてえだろ、色んなのと?」

「いいや、奥さんだけで良い」

「へええ、ほんとかねえ!」とチョンボは言い、親子丼を食べ始める。

「俺も詩は書いてんだよ。いっそ作詞家になろうかなあ」

「何だよ、作詞家って!」

「お前ほんとパンクだよな!」

「当たりめえだよ!」

「俺は中学ん時でバッド・ボーイは終わってんだよ」

 俺が食後の一服で煙草に火を点けていると、「煙草は何時からだよ?」とチョンボが言う。

「十六」

「終わってねえじゃねえかあ(笑)!」

「馬あ鹿、高校入ってからは人間が変わってんだよ。中学ん時とは全然違うの判んねえかなあ。その内、俺がひょいと音楽作って、とんとんとデビューするかもしれねえぞ」

「そんな旨くいかねえって!」

「何かよ、音楽って億劫なんだよな」

「何で?」

「だってよ、ギター弾いて、ベース弾いて、ドラム・マシーン設定して、作詞と作曲して、歌ってって、一曲作るのにどれだけ負担がかかるんだよ」

「一人で全部やろうとするからだろ!」

「ソロでデビューしてえんだよ」

「デビューしたら、人と作るんだぞ?」

「ううん」

「ああ、アホらし。夢のお話かよ」

「皆、どうしてる?」

「だから、皆って誰だよ!名前言えよ!名前!」

「誰がどうしてるかって訊く程気にしちゃいねえんだけどさあ、俺ばっかキツいんじゃねえかって思ってよ」

「何だ、そういう事か!」

「結婚するとよ、他の事どうでもよくなるんだよ。家の事、家族の事で頭が一杯でよ。仕事人間にもならねえし、趣味からは遠のいていくはでよ」

「お前、そういう性格?」

「何が?」

「ものすげえ家庭的じゃん」

「うん、まあ、そうかな。お前だってそうなるぞ」

「あんまりそういうの聞かねえぞ。女にはよくいるだろうけどよ」

「男だって、女だって人間だぞ。大した区別なんてねえよ。特に家族になるとな」

「それってロックじゃねえよなあ」

「夫婦揃ってドラッグに溺れて死ぬ事とか、やっぱり、そういう事思う訳?」

「でけえよ声が(!)」とチョンボが小声に力を込めて言う。

「あれえ、お前、そんな事に関わってんの?お前、そんな事が未だにロックだとか思ってんの?」

「言うなよ、人に」

「言わねえよ!」

 チョンボが飯を食ってるのを見てると、何だか昔が懐かしくなってくる。かと言って、中学の時とは人間が変わっているのを台無しにしたくはない。昔の仲間とずっとつるんでたら、チョンボのようにドラッグに関わっていたのかもしれない。人種が違うだなんて、何だか寂しいような気もする。

「仕事毎日何時までやってんの?」と俺からチョンボに話しかける。

「一〇時ぐらいかな。そんな事よりさあ、若くして死んでいく奴って意外と多いよな」

「誰か死んだの?」

「今西も、カツも、ハゲも死んだだろ?」

「ええ!何々、何それ?何時死んだの?」

「お前さあ、ほんと知らねえの?」

「全然知らないよ」

「今西は車の事故で死んでよお」

「何時?」

「二年前。酒飲んで運転してたらしい。カツは去年自殺。何か精神病だったらしいよ」

「えええ!俺、結構、学生の時は仲良かったぞ。ハゲは?」

「ハゲは今年の正月に薬で死んじゃった」

「薬って?」

「やばいの掴まされて、心臓止まって死んだんだよ」

「ハゲってドラッグやるようなタイプじゃねえだろ。真面目な奴だったじゃねえか」

「高校ぐらいから変わってきたんだよ。よく家にも遊びに来てたし」

「お前らだろ!真面目なのまで引っ張ってきて悪の道に引き入れるの!」

「どっちが引っ張るなんて事は言えねえよ。気が合ってつるみ始めるんだからよ」

「何かショックだよなあ・・・・」

「皆、まいったよ」

「俺、全然知らなかったよ」

「お前がつるんでたのは一人も死んでねえの?」

「高校ん時の奴らは中学ん時の仲間じゃねえんだよ。音楽の仲間にはちげえねえけど、ドラッグとかはやんねえもんな。どっちかって言うと、ロック・オタクみてえな奴らばっかで、音楽やるような才能は全くねえような奴らだよ。外タレのどれパクってデビューしようかあとか、そんな感じで、コピーすら出来ねえような奴が口だけは達者でよ」

「そういうのとつるんでっから音楽やらなくなんだよ。判り切ってるだろ、口だけの奴らなんて」

「友達なんだし、音楽はやってる奴らだから、あんまり悪く言うつもりはねえよ。それなりに楽しかったしよ」

「ロック・オタクねえ。人の音楽ばっか聴いて喜んでる奴らだろ?」「俺もロック・オタクって言葉には抵抗あってね」

「一丁前に抵抗してんだ?」

「嫌味な野郎だなあ」

「実際、オタクなんだったら、オタクで良いじゃねえか」

「オタクって認めると世界が広がらなくなるだろ」

「意味判んねえけど」

「要するに女にモテなくなる」

「結婚しててモテねえも何もねえだろ」

「結婚してても女にはモテてえもんだよ」

「オタクの癖して!」

「ああ!やんなるよ、全く!じゃあ、そろそろ帰るよ」

「おお、じゃあな。この辺で飯食ってんなら、またどっかで遇うかもしれねえぞ」

「うん、それじゃあ!」と俺はチョンボに軽く手を上げて別れを告げると、会計を済まして店を出る。そんなに度々会いてえもんかよ。俺一人面白くねえじゃねえか。木幡なんかと話すからいけなかったのかな。あれこそロック・オタクだよ。仕事って割り切って音楽聴いてたのは結果的に良かったんだ。木幡よりチョンボの方が良い。今更、中学ん時の仲間の方に戻る必要はねえか。俺も人に影響され易いよな。俺の人生、人に流されてばっかりかもしれない。いや、でも、結婚前後辺りは俺らしかったのかもしれない。俺はやっぱり、真面目なんだろうか。聡子か。何か狭い人間付き合いだよなあ。いや、俺は結婚して変わったんだ!独身者と同じじゃないのは当たり前なんだ!家族を養って働く一家の主なんだ!ああ、聡子、頼むよお!

 また、古本屋にでも行くか。いや、本はもういい。俺は本当に人に影響され易いんだな。家に帰って、じっくりと買ったばかりのCDでも聴くか。何でCDの時代になっていくんだろう。時代の変わり目って動きが速いな。仕事ではしっかりとCDを扱ってんのに、レコードを残したいだなんてぐずぐすした事は言ってらんねえか。レコードは俺の宝物だ。八〇〇枚ちょいのレコードとは一生の付き合いになるだろう。レコードは愛子のために残しといてやりてえな。あっ、公衆電話がある!もう一回聡子に電話をかけて説得してみようか。お袋の言うように、しばらく、そっとしておいてやった方が良いのかな。離婚届には絶対に署名しないぞ。するもんか!

「あっ、あの、守ですが、聡子はいますか?はい」

 何だよ、俺、もう電話かけちゃってるよ。

『なあに?』と聡子が電話に出る。

「あのさあ、一寸出てこないか?今、蒲田のアーケイドの中の公衆電話からかけてんだけどさ。話したい事があるんだ」

『あたし、話したい事なんてない!』

「お前、自分の家系が離婚家系になる事への危機感は感じないのか?」

『どういう意味?』

「結婚生活が離婚の危機にある時に、離婚家系の子達ってのは簡単に離婚して、夫婦力合わせて人生の苦難を乗り越えようとする事が普通には出来なくなるらしいんだよ。そういう事に対してお前は全く自分の責任を感じないのか?」

『子供の幸せのために親が自分達の人生を犠牲にして結婚生活を続けるって話をしてるのよねえ?』

「俺はお前を愛してる。生涯別の女とは肉体関係にならない。子供は結婚生活の模範を両親や芸能人や王室や皇室からしか学べないんだ」

『少おし、まともになってきてるかな。で、あなたは反省した訳?』

「反省か。俺も俺なりに一生懸命頑張って生きてきたつもりなんだよ」

『もう切るわよ?全然反省してないんでしょ?』

「お前は俺の気持ちが判らないのか?」

 聡子は電話を切る。世界の全てに背を向けられた日みたいだ!こんな時でも俺を何時もと変わらず見守ってくれているのはロックだけじゃねえか!ロックだけだよ!俺はロック・オタクなんかじゃねえんだよ!大体、オタクって何だよ!

 俺は家に帰る事にする。木幡も大田もチョンボも、皆、自分ってものがある。俺はどうだ?聡子の夫で、愛子の父親、俺って、それだけの存在なのか?それだけで良いのか?家族のために夢を捨てた訳でもないのに、結婚して家族を持つと夢を追わなくなった。家族の温もりが気持ち良くて、夢なんてどうでもよくなったのだ。俺はずっとそれだけで満足してたんだ。自分の家族がいるって、素晴らしい事だよ。俺はずっと幸せだった。結婚してからずっと幸せだったんだ!俺から家族を奪われたら、もう何も残らないじゃないか!これから独身生活に戻れとでも言うのかよ!独身の時は暇さえあれば、音楽を聴いて過ごしていた。音楽家を夢見て、気儘に鉛筆画を描いたり、歌詞を書いて楽しんでいた。恋人が欲しくて早く結婚したかった。夢が叶うまでは絶対に結婚はしまいと耐えていた。俺は結婚を何よりも夢見ていたのだ。男にだって結婚を夢見る者がいるのだ。彼女が欲しいって事と、結婚したいって事は、俺にとっては全く同じ事だった。欲しかった幸せの順番も間違えてはいない。そう!音楽家になるのはこれからで良いんだ!仕事が終わったら、これからは音楽作りをし、鉛筆画もた描こう。聡子と愛子の事は、気にしなくとも、またひょっこりと帰ってくるだろう。俺は心配し過ぎなんだ。聡子の奴、まさか他の男と再婚するつもりじゃねえだろうな!

 アパートメントの二階の一番奥のニ○五号室の前に来る。玄関のドアーの鍵を開ける。家の中は真っ暗闇だ。手前の寝室から奥へと一つ一つ電気を点けながら、一挙に居間まで進む。居間のTVを点ける。ソファーに腰を下ろす。愛子がいたソファー。聡子が夕食を作っていた台所。今はそんな思い出に満ちた家族の温もりを全て失ってしまった。

 寝室で服を着替える。風呂場に入る。シャワーで軽くバスタブを洗い流す。湯加減を確認してバスタブに湯を溜める。オーディオの電源を点ける。PiLの『ハッピー?』を流す。今日はとことんPiLを聴いて、PiLの日にしたい。黒いストラトキャスターのギターを茶の皮のケイスから出す。ギターにアンプリファイアを通して、『ハッピー?』に合うギターを即興で弾き捲くる。ギターの研究を始めよう!レコードを『ザ・フラワーズ・オブ・ロマンス』、『メタル・ボックス』と換えていき、ギターの研究に没頭する。

 気づくと、何時の間にかニ時間も経っている。風呂を沸かしていたのを思い出す。風呂場に行って湯を止める。ずっとバスタブから湯が溢れ続けていた。相当お湯の無駄遣いをしてしまった。それ以上にギターの研究は深まったので良しとする。聡子がいたなら、そうはいかないだろう。お湯の無駄はお湯の無駄として必ず厳しく注意するだろう。何かをするのにどれだけの時間と金を費やしたかという問題をお湯の無駄にまで拡大解釈する発想は聡子にはない。俺はラジカセをまた脱衣所兼洗面所に置く。風呂場に音を絶やさないようにして風呂に入る。いつものようにポコチンとケツの穴と腋の下を石鹸で洗う。そこで一端ざぶんと湯船に浸かる。FMに合わせたラジカセから音楽が流れている。ジャズだ。俺は目を瞑る。今日こそは安心して風呂に入ろう。じっくりと湯に浸かって温まる。バスタブを出る。再び腰掛に座る。やっぱりダメだ!俺は急いで髪と顔を洗い、糸瓜手拭いに石鹸水をつけて手早く体を洗う。慌しく風呂場を出る。脱衣所で手早く髪と体を拭く。素っ裸で寝室に駆け込む。レコードは止まっている。脱衣所からの音楽が聴こえるから静けさからは守られている。寝巻きを着て再びギターを手に取る。風呂から出たら、PiLの日にしようとした気分が変わる。キング・クリムゾンの『太陽と戦慄』をターンテーブルの上に置く。後半はキング・クリムゾンの日と呼ぶに相応しい、七〇年代のキング・クリムゾンを『暗黒の世界』、『アイランズ』、『レッド』と立て続けに流す。『ラーク』を一本口に銜え、先端に火を点ける。青い絨毯の上に置いた灰皿を足元に置く。ベッドに腰かけたまま『ラーク』を一本吹かす。煙草は美味い!何とかして止めたい物の一つでもある。煙草の楽しみの半分は節煙にある。何か袋菓子が食いたくなった。時間も時間なので、こんな時間に御菓子なんか食べたら、全部脂肪になってしまう。そう思って、明日の朝まで我慢する。『カール』のチーズ味が食べたい。居間に行く。『カール』のチーズ味を探す。食器棚の扉の中に二袋買いおきがある。その内の一袋をダイニングルームの食卓の上に置く。明日の朝食べるようにと今晩から用意しておくのだ。寝室のベッドに横になる。今日もまた一発抜くか。ああ、ちり紙を二枚用意して。聡子に長いロマンティックな前戯をし尽くし、聡子が濡れた辺りでゆっくりとモノを挿入する。聡子の甘い声を聴く。・・・・おお。・・・・おお。ああ、気持ち良い。あっと、ああ、行ったかあ・・・・。念のためちり紙をもう二枚。俺は丸めたちり紙を持ってベッドから出る。便器の中に丸めたちり紙を捨てる。

『ありがとうな。これでお別れだ。元気でな』

 俺は便器に捨てたちり紙目がけて小便をする。何故、俺は精子の入ったちり紙目がけて小便をするのだろう。洗面所で念入りに石鹸で手を洗う。再び石鹸を手につけて顔を洗う。鏡の前で歯を磨く。こりゃあ、デイヴィッド・ボウイには似ても似つかないような顔の腫れあがりようだ。俺の顔は商品なんだぞ!

 寝室に入る。全身を投げ出すようにベッドに横になる。ギターの弾き過ぎで相当頭が疲れている。聡子・・・・。


 神社の境内の石畳の上に女の人が足を挫いて座り込んでいる。

「どうしました?」

「足を挫いちゃって立てないんです」

「どれどれ一寸見せてごらん」

 俺はそう言って女の人の足に手で触れる。

「痛いですか?」

「はい」

「じゃあ、こっちの様子を確かめましょうか」と俺は言って、女の人の茶のカウガール風の革のミニスカーを穿いた足を広げ、クリトリスを弄り回す。

「止めてください!」

「こっちが使い物にならなくなったら、どうするんですか!大変なところなんですよ!」と俺は女の人の聞き分けのなさを叱る。

 女は黒いレースのパンティーを穿いている。体が細くて軽いので簡単にパンティーを脱がせる。濃いアイラインの化粧をした眼が濡れたように光っている。セックスの方は本来的に好きそうな眼をしている。

「止めてください!」

 俺は抵抗する女の口をキッスで塞ぐ。股の穴に指を入れ、激しく前後に動かす。

「ああああ!」と女は気が触れたような声を上げる。

 俺は女の左の胸を揉みながら、女の穴にモノを挿入する。女は穴の中で俺のモノをきつく締め付ける。チンポコを入れた穴の中の感じが温かくて気持ちが良い。両胸を揉み解しながら、ゆっくりと前後に腰を振る。この女、虐めたくなる程色っぽい声を出すな。ヤリマンって可愛いんだな。ほとんど抵抗もせずにヤラせてくれる。

 目覚まし時計の音がする。夢か。目覚めると、目覚ましを消さないで先ず体を起こす。二度寝をせず、確実に起きなければいけない。俺はベッドから出る。玄関の郵便受けから『朝日新聞』を取り出す。新聞をダイニングルームの食卓の上に置く。脱衣所に戻って洗濯機のセットをする。台所に入って米を磨ぐ。明日の夕食時用にジャーのタイマーをセットする。水切り籠から皿を出す。皿の上に六枚切りの食パンを一枚用意する。食パンにマーガリンを塗り、ハムを乗せ、溶けるチーズを乗せて、トースターに入れる。三分にセットして食パンを焼く。洗面所で鏡を見る。顔が潰れたように腫れ上がっている。俺の顔が・・・・。笑い顔を作る。腫れ上がった顔の肉が固くて上手く笑えない。

 焼き上がったトーストを皿の上に載せる。皿をダイニングテーブルの上に運ぶ。冷蔵庫から冷たく冷えた一リットル入りの紙のパックの牛乳を出す。犬の絵のついた白いマグに牛乳を入れる。マグを食卓に運ぶ。新聞にざっと目を通しながら、トーストを食べ、大好きな牛乳を味わって飲む。食卓に用意しておいた『カール』のチーズ味を一袋貪るように食う。

 食器を台所の流しに置く。洗面所の洗濯機の中から洗濯物を出す。居間の窓を開けて洗濯物を干す。食器を手早く洗剤を付けたスポンジで洗う。水切り籠に洗った食器を伏せて置く。寝室で出勤の服に着替える。洗い立てのハンカチーフと使い捨て懐炉を取る。使い捨て懐炉の封を開け、ハンカチーフと一緒に紺のスラックスの右のポケットに入れる。通勤鞄を持って玄関のドアーを開け、共用廊下に出る。玄関のドアーを閉めて鍵をする。いざ出勤!

 JR蒲田駅の改札口を定期を見せて通る。プラットフォームに停車している蒲田駅発東京駅方面行きのJR京浜東北線に乗車する。また座席に腰かけた高校時代の同級生が俺を見ている。俺は満員電車の中で鞄から詩集を出して読み始める。この詩集には信仰生活者の生きる喜びが本当に美しく描かれている。信仰生活とは何とも幸せそうな生活だ。この詩集を読んで全く知らない世界が開けてきた。この信仰生活者の満ち足りた幸せそうな感じは何だろう。この詩人の才能によって表された美には違いないだろう。祈ったり、お経を唱えたり、奉仕活動や布教活動に明け暮れる日々か。丸一日全てに亘って信仰が関係するのか。それを信仰生活と言うんだな。美しい詩集だった。俺は読み終えた詩集を通勤鞄の中に仕舞う。

 俺はいつも通りJR新橋駅で下車する。

 会社の建物に入り、編集室に入ると、社長に挨拶をする。

「おはようございます」

「おお、おはよう。おお!来たか、君も!」

 俺は後ろを振り返る。振り返ると、背後に岩下がいる。岩下は俺とは視線を合わせず、社長のいる方に歩いていく。

「おはようございます。社長、これ、辞表です」と岩下が社長に言う。

「岩下君、一寸椅子に座って待っててくれないか」

「はい」

 岩下は自分の机から椅子を運んできて、社長の机の前に腰かける。

「おお、お待たせ!お待たせ!」と社長が明るい顔で席に戻って言う。

「社長!二年間ほんとにお世話になりました!」と岩下が畏まった顔で言う。

「うん。まあ、一寸話を聞けや」と社長が厳しい顔で少し乱暴な口調の低い声で言う。

「ああ、はい」と岩下が沈んだ声で答える。

「一寸、清高君、こっちに来てくれないか」

 俺も岩下に用があったから、社長が俺を話に加わえてくれたのがとても嬉しい。

「岩下君、君はもっと清高君と話し合っておくべきだ。それで彼にも来てもらったんだ」

「清高さんにはちゃんと謝るつもりでいました」

「清高君は何か謝られる理由なんてあるのか?」

「いいえ、岩下が怒ったのは私のせいです」

「岩下君な、家は一応ロックを扱う会社なんだよ」

「はい」

「同僚を殴った事に責任を取ろうとしてるのはよく判る」

「はい」

「でもなあ、もう一寸気楽に清高君に意見したり、話したりしても良いんじゃないか?」

「私は正直なところ、清高さんのような人間にはなりたくないんです」

「俺も別にお前に俺のようになってくれとは言ってねえよ」と岩下の背後に立った俺が言う。

 岩下が立ち上がり、俺の方を向いて、「殴ったりして済みませんでした!」と大きな声で頭を下げて謝る。「俺、これでもプロ・ボクサーの資格があるんです。それなのにあんなに無遠慮に殴りまくっちゃって、本当に済みませんでした!」

 岩下がまた頭を下げて大きな声で謝る。俺は岩下に言う。

「後輩に殴られるぐらい何ともないよ。何も会社辞める事ないだろ。俺は暴力なんかで法に訴える程ヤワじゃねえよ。ちゃんと明日も明後日も会社に来いよ。冗談で叩いてたつもりなんだけど、ほらっ、お前、学生時代ボクシングやってたって前から言ってたからよ。気の弱い人間じゃないと思ってふざけてたんだよ。気を悪くしたなら、俺が謝る。ごめんな」

「いいえ。悪いのは私です。社会人が会社の先輩を殴るなんて、どうお詫びしたら良いか、自分には会社を辞めるしか他に思いつきません」

「お前な、もっとボクシングの試合みたいに図太く社会に生きろよ。お前には非はないだろ?悪いのは俺だ。悪人は俺だったろ?」

「岩下君な、私はそう簡単に大切な社員を首にはしないぞ。君はこの会社に必要な人間なんだ。私も清高君と同じ意見だよ」

「また会社で働かせてくださるんですか?」

「当然だよ。判ったら、これからは腹ん中の事を遠慮無く清高君にぶちまけて、思いっきり家のために働いてくれ」

「はい!ありがとうございます!またお世話になります!」

「よし、じゃあ、話はこれで終わりだ」

「社長、清高さん、これからもまた宜しく御願いします!」

 俺は岩下の肩を叩き、「また一緒に働こうな」と言って席に座り、自分の仕事を始める。

「清高君、顔の方相当なダメージ受けてるな」

「はああ、そうですね。岩下があんまり遠慮なく殴ったもんで」

 岩下がフロアーに土下座し、「清高先輩!済みませんでした!」と大真面目に謝る。

「お前な、そこまでして謝る事ねえだろ」と俺がくだけた口調で言うと、岩下がむっくりと立ち上がり、「今日の昼は俺に奢らせてください!」と力んだ口調で言う。

「おお、嬉しいねえ。じゃっ、御馳走になるよ」

「いえいえ。俺、清高さんに心からお詫びしたいんです」

「ほう!そうか。じゃあ、遠慮なく御馳走になるよ」


 今日も仕事を終えた。プラットフォームで数人のサラリーマンと一緒に電車を待つ。蒲田駅方面行きのJR京浜東北線が轟音と共にプラットフォームに入ってくる。入口の手前左のシートに一人分の空きがある。俺はその合い間に腰を下ろす。紺のブレザーを着た女子高生が真向かいに座っている。眠っているようだ。ほっそりとした背の高そうな美少女だ。美しい者を見ると、人の心はこんなにも洗われるような気持ちになるのか。この美少女のパンティーはパンチラなんかの安っぽい下着ではない。彼女のパンティーを拝むという事は彼女から洗礼を受ける者の聖なる儀式だ。細くて綺麗な脚だ。白いレースのショート・ソックスの清潔さには彼女の細やかな美意識を感じる。聡子の学生時代の写真には美少女のあらゆる魅力が収められている。聡子は文芸に親しむ学生時代を過ごした。早熟にも彼女の学生時代の詩や短編小説の中には完成された独特なナルシシズムが形成されている。その頃の聡子の美少女ぶりの遠慮なさには後々エッセイストになるようなファッション・モデルやTVタレント並の個性が芽生えている。向いに座って眠っている女子高生がどんな子だかは判らない。恐らく聡子のような洗練された全体像は持ち合わせていないだろう。女子高生が自分を見つめる俺の視線に気づいたように眼を開ける。俺は顔の前で両手の指を赤ちゃんに対するように開け閉めし、両掌を顔の横で扇状に動かし、笑顔を見せる。彼女は不思議な変なおじさんでも見るような眼をして唇を嚙む。俺は彼女の微笑みが見たくて、彼女の顔を見て胸の前で十字を切り、合掌して眼を閉じると、アーメン、南無釈迦牟尼仏と心の中で唱える。俺が再び眼を開けると、彼女が漸く愛らしい微笑みを見せる。俺は彼女の合わさった両膝頭に合図を送るように、前屈みになって膝の前で合わせた両手を離したり合わせたりする。彼女は呆れたようにそっぽを向き、再び目を閉じる。俺も満足して目を閉じる。

 品川駅で電車が停車する。扉が閉まる音で目を覚ます。向いの女子高生はもういない。

 俺は終点JR蒲田駅で下車して階段を上る。いつものように駅ビルを西口から出る。二つあるアーケイドの内の一つを選び、マーケットでカリー・アンド・ライスの食材を買う。

 アパートメントの一番奥の四つ目のドアーの前でブザーを押す。家の中からは誰の返事もない。俺はスラックスの右のポケットから鍵を出し、自分で家の鍵を開ける。ドアーを開けて玄関の電気を点けると、寝室に入り、また電気を点ける。家の中の静けさが不安な気持ちにさせる。廊下から居間から全部電気を点ける。寝室に戻り、オーディオの電源を点ける。デイヴィッド・シルヴィアンの『シークレッツ・オブ・ビーハイヴ』のレコードをターンテーブルの上に載せる。再生ボタンを押す。何度聴いても良い出だしだ。これぞロックの芸術と言うものだ。俺は背広のジャケットとスラックスを脱いでハンガーにかける。ブラック・ジーンズと黄土色のセーターに着替える。食材の入った買い物袋を持って台所に向かう。鍋を出してコンロの上に置く。鍋の中にサラダ油をぐるりと一周垂らす。盥の上に水で洗った俎板を置く。ニンジン二本の皮を皮剥き機で手早く剥き、大きめに切る。ジャガイモ二つと玉葱を同じような手順で手早く皮を剥き、大きめに切る。惣菜のカキフライのパックを開けて皿に盛る。レンジの中にその皿を入れる。固形カレーの箱を破る。鍋の火を点ける。刻んだ野菜を全て鍋に放り込んで炒める。軽量カップで測った分量の水を鍋に入れる。八人分の固形カリーを鍋に入れる。塩を少々振る。鍋を搔き回す。レンジの中のカキフライを温める。良し!これで今晩の夕食にカキフライ・カレーが食べられる!ジャーの中の御飯が黄色くなっている。御飯は一日の終わりに必ずラップに包んで冷凍庫に入れなければいけない。その時に釜を水で洗い、米を研いで、翌朝の御飯をジャーのタイマーをセットして仕込むのだ。こういう事は特別面倒臭くはない。俺は毎日生活習慣通りに行動するのが好きなタイプだ。野菜カレーぐらいなら、帰宅して即夕食の支度に取り掛かれば、三、四〇分で作れる。俺は御飯を皿に盛る。カキフライをその上に置く。更に温かいカリーのルーをかけてダイニングテーブルに運ぶ。水差しを冷蔵庫から出す。さあ!食うぞ!俺は食卓に着き、「戴きまあす!」と合掌して言う。カキフライ・カレーを食べ始める。冷蔵庫の中のらっきょうと赤い福神漬けを取りに行く。再び席に戻る。俺は食卓に着いて食べ始めてから台所と食卓を往復する用が出来るのが大嫌いだ。物凄く忙しなくて嫌な気持ちになる。

 夕食を食べ終わると台所の流しに食器を置く。らっきょうと福神漬けと水差しを冷蔵庫に仕舞う。食器を洗う。寝室で昨日買ったユーロ・ロック・シリーズのCD三枚の中の一枚をじっくりと聴く。このマイナーなアルバム・シリーズを再発するには大変な苦労があったろう。その苦労の結果齎された喜びを消費者として共有するのが学生の頃から好きだった。これは名盤と呼べるようなアルバムではない。コレクターズ・アイテムだ。幾らプログレ好きでも、珍しさ一点で取り上げるアルバムには余り興味がない。立て続けに二枚目のアルバム、三枚目のアルバムと聴いていく。三枚ともコレクターズ・アイテムだ。

 風呂場に入る。シャワーで軽くバスタブを洗い流す。湯加減を確認して湯を溜める。俺は寝室でスケッチブックに妖怪の鉛筆画を描き始める。今回の妖怪の鉛筆画はルドンの影響が強い。より発想の原点を探っていくならば、水木しげるの妖怪ペン画の影響だろう。漫画はストーリーが思いつかない。イラストレイションをコマ割りしていけばアート・コミックのような体裁にはなる。同じ人間の描くイラストレイションならば、同じテーマに沿って描かれた作品が幾種類も出来上がる。同じような絵の並びでコマ割りしていく漫画と言う表現には、強いられて描くような絵が多々見受けられる。文章だけで目的が足りるコマは文章だけでも良い。漫画のコマやページを文章だけで満たされると、漫画を読む上で非常に億劫に感じる。

 俺はまたラジカセを脱衣所兼洗面所に置く。脱衣所で服を脱ぎ、いつものようにポコチンとケツの穴と腋の下を石鹸で洗う。そこで一端ざぶんと湯船に浸かる。FMに合わせたラジカセから音楽が流れている。英語のポップスだ。俺は目を瞑る。今日こそは安心して風呂に入ろう。じっくりと湯に浸かって温まる。バスタブを出る。再び腰掛に座る。やっぱりダメだ!俺は急いで髪と顔を洗い、糸瓜手拭いに石鹸水をつけて手早く体を洗う。脱衣所で手早く髪と体を拭き、素っ裸で寝室に飛び込む。寝室に音楽が流れていない!脱衣所から音楽が聴こえる。静けさからは守られている。下着とパジャマを着る。綿入れを羽織る。

 洗面所で歯磨きをする。鏡に映った自分の顔を見る。顔の腫れが大分引いている。

 居間と台所の電気を消す。寝室の電気を消す。ベッドに入って目を閉じる。聡子は今夜も俺の隣にはいない。


 押入れの中に記憶にないレコードが五〇〇枚近く保管されている。試しに一枚抜き取る。高校時代の仲間が卒業時に譲ってくれたレコードだ。ノイズとパンクのアルバムが沢山ある。これは嬉しい!自分では買わないようなレコードを纏めて譲り受けたのか!上の段は時代劇の劇画の単行本が一〇〇〇冊ぐらいある。燃えるゴミの日に拾ってきた漫画本だ。何でこんな宝物を忘れて生活していたのか。寝室の方の押入れには確か映画のパンフレットが一〇〇〇冊とTVプログラムをランダムに録画したヴィデオ・テープが三〇〇本程あるんだった!パフレットとヴィデオ・テープもゴミの日の拾い物だ。

 目覚まし時計に起こされて目覚める。目覚ましを消さないで、先ずベッドの上で上半身を起こす。夢か。あんな物本当に家にあったかな。いやっ、ないな。あの夢の中の家は参考になる。忘れる事が思い出した時の喜びになるのか。はっきりと目を覚ましてベッドから出る。玄関の郵便受けから『朝日新聞』を取り出す。新聞をダイニングルームの食卓の上に置く。洗濯機のセットをする。台所に入る。水切り籠から皿を出す。今日の朝食もハムと溶けるチーズのトーストだ。洗面所で洗面と歯磨きと髭剃りをする。顔の腫れはほとんど引いている。新聞にざっと目を通しながら、トーストを食べ、大好きな牛乳を味わって飲む。

 朝の事は朝の生活習慣をこなし、仕事帰りには夜の生活習慣を順序良く仕上げていくだけだ。寝室で出勤服に着替える。洗い立てのハンカチーフと封を開けた使い捨て懐炉をスラックスの右のポケットに入れ、クリーニング屋に持って行くワイト・シャツの入った紙袋を手に取り、通勤鞄を持って共用廊下に出る。玄関のドアーを閉めて鍵をする。洗い立てのハンカチーフと使い捨て懐炉を確認する。良し!いざ出勤!JR蒲田駅に行く途中、クリーニング屋に寄り、洗濯物を預ける。

 JR蒲田駅の改札口を定期を見せて通る。プラットフォームに停車している蒲田駅発東京駅方面行きのJR京浜東北線に乗車する。

 勤め人の生活は毎日が変化に乏しく、同じ事の繰り返しのようだ。昨日の事、今日の事が、明日もまた予想した通りに起きれば、それでもう何の心配もいらない。勤め人の生活習慣は毎日きちっと決まっている。


 今日も仕事を終えた。プラットフォームで数人のサラリーマンと一緒に電車を待つ。前にいる五〇代ぐらいの禿頭のサラリーマンがまた頻りに頷くように頭を動かしている。日々の生活の中にこんなにも同じ人間が居合わせているのだ。それなのに何故東京の人間達は互いの事を深く知ろうと確かめ合い、認め合い、愛し合う事をしないのだろう。

 蒲田駅方面行きのJR京浜東北線が轟音と共にプラットフォームに入ってくる。入って直ぐ左手前の席が空いている。そこに腰を下ろす。向かいにはいつか俺を睨んでいた女が微笑みの眼で俺を見つめながら座っている。ミニスカートも健在。今日は黄色いミニスカートだ。ここまで揃ったなら、パンツも見ておきたいな。俺は向かいの席に座っている黄色いミニスカートの女の脚を見て、掌を膝の前で合わせる。女を見ながら、股を広げるようにと合わせた掌を離したり合わせたりする。女は笑っている。あなたはこれを笑えるまでに成長したんですか!俺はポコチンを指差し、腰を動かす。女は馬鹿にしたような照れ笑いをし、俺から視線を逸らす。

 向かいに座っていた女は今日もJR田町駅で降りる。


『皆、大好きだよ!俺はお前ら皆を愛してる!』


 俺は終点JR蒲田駅で下車して階段を上る。いつものように駅ビルを西口から出る。二つあるアーケイドの内の一つを選び、マーケットに入る。店内を見ながら、カレーライスに載せる揚げ物を選ぶ。揚げ物をちくわ天二本に決める。

 アパートメントの二階の一番奥の二○五号室の前に来る。玄関の鍵を自分で開ける。家の中は真っ暗闇だ。玄関に入り、手前の寝室から奥へと一つ一つ電気を点けながら、一挙にリヴィングルームまで進む。留守電を再生する。

『三件です』

『守、帰って来たら、直ぐにお母さんに電話して下さい』

『・・・・』

『・・・・』

 何だ、三件中二件が無言電話か。暇だねえ。聡子かな?俺は母に電話をかける。

『はい、清高です』

「ああ、お母さん?俺だけど」

『毎日食事はどうしてるの?大変なら、こっちに来て食べなさいよ』

「最近、俺、一人暮らしに慣れてきてるからいいよ」

『ちゃんと栄養あるもの食べてる?』

「食べてる。それだけ?」

『大丈夫なのね?』

「うん」

『風邪引かないように気をつけなさいよ』

「うん。判った。じゃあね」

 電話を切る。寝室で背広を脱ぐ。ワイト・シャツを洗面所にある洗濯物入れの紙袋の中に入れる。この静けさが良くない。オーディオの電源を点ける。ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレイターの『スティル・ライフ』のレコードをターンテーブルの上に載せる。再生ボタンを押す。音が流れるのを待ってから脱衣所のドアーを開ける。風呂場に入る。シャワーのお湯を出しながら、洗剤をバスタブに振り撒く。軽くブラッシュで擦って洗い流す。湯加減を確認して湯を溜める。居間に行く。この静けさが良くない。TVを点ける。台所でカレーライスを温める。朝炊いておいた白米を皿に大盛りに盛る。今夜はちくわ天二本のカリー・アンド・ライスだ。冷蔵庫から福神漬けとらっきょうと冷水の入った水差しを出す。湯呑みと一緒にお盆に載せ、食卓の上に運ぶ。居間のTVを点ける。食卓に着く。

「いただきまあす!」と俺は食事に合掌して言う。TVを観ながら夕食を食べる。丁度良いTVプログラムがない。愛子が観てた幼児番組にチャンネルを変える。愛子に会えない寂しさで眼が潤む。やはり、ちくわ天・カリーは美味い。一人前にちくわ天二本は多過ぎる。幼児番組は心温まる。優しいものに一杯愛される感じがする。愛子に幼児番組を見せるのは良い。俺に見せるのも良い。寂しいな。聡子、愛してるよ!らっきょうが美味しい。赤い福神漬けも美味しい。自分で作ったカリーはヴォリュームがない。聡子の料理には愛情があるんだな。新婚当時は物足りない感じがした。あの頃の聡子の料理は恋人の料理なのだろう。お母さん料理になってからヴォリュームが増したのだろう。何時の間に変わったんだ。

 明日の朝は今日の御飯で生卵掛け御飯を食べよう!味噌汁も作ろうかな。

 風呂場に行ってお湯を止め、蓋をする。俺はまたラジカセを脱衣所兼洗面所に置く。ラジカセで風呂場に音を絶やさないようにする。いつものようにポコチンとケツの穴と腋の下を石鹸で洗う。そこで一端ざぶんと湯船に浸かる。FMに合わせたラジカセから音楽が流れている。フラメンコだ。俺は目を瞑る。今日こそは安心して風呂に入ろう。じっくりと湯に浸かって温まる。バスタブを出る。腰掛に座る。やっぱりダメだ!俺は急いで髪と顔を洗い、糸瓜手拭いに石鹸水をつけて手早く体を洗う。脱衣所で手早く髪と体を拭く。素っ裸で寝室に駆け込む。レコードは止まっている。脱衣所からの音楽が聴こえるから静けさからは守られている。暖房が点いていない。暖房を点ける。下着とパジャマを着る。綿入れを羽織る。今日は昨日の妖怪の鉛筆画の続きを描こうか。久しぶりに昔の作品のファイルを眺めたい。俺はファイルの棚から高校時代の作品ファイルを一つ抜き取る。懐かしい絵が眼に飛び込む。悪魔的な毒々しい描写力で髑髏の山が描いてある。次にゾンビ、吸血鬼、座敷童、魔界、鬼、悪魔、地獄、魔物の数々へと続く。素晴らしくダークな世界観だ!俺は作品ファイルを仕舞う。昨日の妖怪の鉛筆画の続きを描く。

 鉛筆画の傑作を一枚仕上げる。寝る前に洗面所で歯磨きをする。鏡に映った自分の顔の腫れがほとんど引き、デイヴィッド・ボウイに似た顔が薄っすらと浮かび上がっている。居間と台所の電気を消す。寝室の電気を消す。ベッドに入って目を閉じる。聡子は今夜も俺の隣にはいない。


 寝床にしている押入れのベニアの壁からアパートメントの隣人の部屋の灯が漏れている。灯の漏れた隙間から隣室を覗く。二十歳ぐらいの女性がこちらに背を向け、机に向って畳の上の座布団に腰を下ろしている。書き物をしているのだろう。白いブラウスの背に白いブラジャーの紐が透けて見える。長く黒い髪をした細身の女性だ。紺のミニスカートと白いストッキングを穿いている。あの感じは恐らく美人だろう。何となく嫌な予感がする。女がこちらに振り返る前に覗くのを止める。何でこの時点で背後に何かの気配を感じるんだ!俺は潔く横になって目を閉じる。

 何で今目覚まし時計が鳴るんだ!ああ、夢なのか!目覚ましを消さずに先ずベッドの上で上半身を起こす。はっきりと目を覚ましてベッドから出る。玄関の郵便受けから『朝日新聞』を取り出す。新聞をダイニングルームの食卓の上に置く。脱衣所に戻って洗濯機のセットをする。

 寝室の窓を開け、口に銜えた『ラーク』に火を点ける。なるほど!今日は日曜日で会社は休みか!俺は煙草を口に銜えながら、オーディオの電源を点ける。ドゥルッティ・コラムの『ヴィニー・ライリー』のCDを再生する。このアルバムは本当に名盤だ。

 今日の朝食は生卵かけ御飯と長ネギと若布の味噌汁だ。

「いただきまあす」と合掌して言う。味噌汁を作るだけで朝食が随分と豊かになる。

 少しぶらぶらと出歩くか。また中古レコード屋に行こうか。

 中古レコード屋の店内に入る。そこでまた木幡に遇う。

「木幡君!またここで遇ったね!」

「ああ、何だっけ?」

「清高。好い加減名前憶えてくれよ(笑)!」

「いやっ、あのね、君見ると他の名前が記憶を遮るんだよ。それが君の名前じゃないって事は判ってるんだよ。それで一生懸命君の名前を思い出そうとするんだけど、君から名乗られても、清高って名前がどうも君のイメージとピンと来ないんだよ」

「なんだろうね、それ。もしかして、俺の前世の名前を知ってるとか(笑)?」

「いやあ、別にそういう事を知る力はないと思うんだけど・・・・」

「いやあ、特に深い意味があって言った訳じゃないよ」

「それ、からかってるのかな?」と木幡が真顔で俺に訊く。「君さ、霊能力みたいなものを単なる特技みたいに考えてるの?」

「冗談だよ!軽い冗談のつもりで言ったんだよ!ゴメンゴメン」

 木幡は無言でせせら笑うような顔をし、まじまじと俺の顔を見る。何かこいつ、些細な屈辱を味わされると、深く根に持って仕返しをする人間なんだな。俺は子供を見るような眼で木幡の顔を観察する。木幡は不意に俺から視線を逸らし、再び中古レコードを見始める。

「木幡君、そんな事で人間が判ったようなつもりになっちゃいけないよ。些細な発言なんかでそこまで機嫌を損ねるなんて、何か子供っぽくないか?俺は木幡君の事をちゃんと大切に思ってるよ」

 木幡が感心したような明るい顔で俺の顔を見る。

「ああ、なるほど。判ったよ。じゃあ、レコード買ったら、また居酒屋に行こうか」

「うん、良いね」

 判り易さも確かにあるな。人には人それぞれ付き合い方にルールがあるって事なんだろう。俺は先に店の外に出て木幡を待つ。よく木幡のあんなリアクションに対応出来たな。電車の中のあいつ以来の動揺だ。木幡には音楽の好みにも人間的な魅力がある。あいつはダメだ。只の付き合いづらい変人だ。チョンボも昔よりはずっと個性が強くなってる。大人の付き合いに持ち込める奴らは皆パワー・アップしてるな。木幡がにこやかな顔で店を出てくる。

「木幡君、俺とプログレのバンドやらないか?俺、楽器とかは弾けないんだけど、作詞とヴォーカルは或程度出来るんだよ」

「どういう詩を書くの?歌はもしかして音程が外れないとかって程度?」

「詩は学生の時に授業で誉められて、歌はデイウィッド・ボウイの声真似とかをよくやる。音程は勿論外れない」

「ダメな声出すテストを何回かさせてもらえるなら良いよ。それと詩はサイケな詩とかシュールな詩は書ける?」

「ダメな声を出すの?何で?」

「ダメな声を良しとする感性は自分で判断するのは難しいだろうと思ってね。売れたアーティストのダメな声を良しとする判断は誰にでも出来るんだよ」

「確かにダメな声を自分の持ち味としてイケるって思えるような判断にはそれなりの感性が必要だろうね。でも、俺は自分のダメな声が評価を得られるなんてとても思えないよ。作詞もサイケだとかシュールな歌詞はとても書けない」

「俺は作詞作曲編曲全部自分でやれるんだよ。ダメな声を自分で出して、どの声はどの曲に使えるって判断力もある。清高君はもっと自分の音楽ライターって仕事に自信を持った方が良いよ。別に俺と組まないといけない人だとも思わない。スタンダードなアレンジとスタンダードな詩と日本のデイヴィッド・ボウイって言われるような声でメロウな曲を歌えばいいんじゃないの。プログレのミュージシャン達だって、普段リスナーとして聞いてるアルバムにはスタンダードな音楽のアルバムが一杯あると思うしね」

「そうだね」

 俺は木幡と一緒にバンドをやる上で、木幡とは対等な立場にはない事をはっきりと示された。悔しいというよりも、俺は本当に人の技術を利用してデビューしようとしていたのだ。木幡は別に怒っている様子もない。俺が想っている以上に自信家で、それ相当の技術と才能があるのだろう。

「俺とやる気なら、清高君はヴォーカルと作詞を担当してくれれば良いんだよ。俺からのヴォーカルのアドヴァイスとしては、自分にしか出せない、所謂ダメな声で歌う事なんだよ」

「ダメな声ね」

「個性的な声のヴォーカリスト達って、普通の人の環境で普通の人として歌っている間はダメな声だと思われて、もしくはそのダメな声が原因して、歌の下手な人だと思われるような人達が物凄く多いんじゃないかな」

「はああ。ああ、ピーター・ガブリエルの声とかロジャー・ウォーターズの叫びとか、ピーター・ハミルの発声法や変わった歌唱法とかね。なるほど。やってみるよ。でも、シュールな作詞やサイケな歌詞となると一から勉強しないといけないなあ」

「作詞はカンのヴォーカリス達の歌詞を参考にして、余り肩肘張らずに書く事だよ。自分の好きな発想や好きな言葉を一作の中に一杯詰めたような詩から始めるといいよ。別にピート・シンフィールドのような歌詞がロック的な歌詞って訳ではないんだから、下手で元々って感じで気楽に書き始めると良いよ」

「カンの歌詞か。何かキーワードのような同じ言葉の繰り返しや、意味を持ってるような持たないような感じだよねえ」

「何れにしろ、盗作は絶対にやっちゃいけないよ。出来ない出来ないって言う人達のほとんどは、人がやっていないような音楽作りを恥ずかしがる人達なんだよ。それは人真似の次元の高さや低さと言うより、全く自分の才能とは違う才能に圧倒されてたり、強烈な個性を持ったアーティストに心を支配されてるんじゃないかな」

「到底敵わないような者になりたがってるって事かな?」

「違うよ。それが人の個性や才能に心を支配された人達のコンプレックスなんだよ。人の才能は自分の才能とは違うんだよ。君が目指す才能は清高君の才能だよ。清高君が自分のコンプレックスを乗り越えたら、人は清高君に対して、今の清高君と同じようなコンプレックスを抱き、清高君に似てないって事が最大のコンプレックスになるんだよ」

「でも、そのコンプレックスを乗り越えられる力っていうのも、やっぱり才能なんじゃないかな?」

「才能って言うのは誰にでも等しく与えられているものだよ。違いはその与えられた才能が開花しているかしていないかなんだよ」

「そうかなあ・・・・」

「才能を開花させる秘訣はただ一つ。赤の他人の前で人に見せた事のない自分を曝け出す事だよ」

「ううん」

「それはそんなに大げさな事ではないんだ。これから一緒にバンド活動をしようとしている人間、つまり、俺の前で清高君の本当の自分を曝け出せば良いんだよ。一人の赤の他人の前で恥を晒す事が出来たら、後は十万人の客がいようが、百万人の客がいようが、本当の自分を曝け出す事なんて容易に出来るようになるんだよ。シド・バレットの『帽子が笑う・・・・不気味に』を思い出してごらんよ。何でもありのような発声法で全く自由に歌うでしょ?そうなったら、残りの注意点は音楽家なら誰でも背負うような、歌詞を歌い間違えたり、キーを外したり、演奏を間違えないように練習を重ねるだけなんだよ。自信のなさっていうのは、そういった些細な心理障害が原因になっているんだよ。歌っている間にハプニングで声が裏返ったり、綺麗な高音域の声が思うまま出せない場面を人に知られたり、録音中にオナラをしてバンド仲間と笑い合ったり、要するに、赤の他人と心から打ち解けた関係になる事が才能の開花に繋がっていくんだよ」

「NGを出せって事?」

「そういう事!君の想うNGは僕の感性で聴いたら、必ずしもNGじゃないんだよ。最初の時点では赤面する程のNGを連発して、早く僕を自分同様に思う事だよ」

「やっぱり難しいな」

「難しいなら俺とは出来ないね」


 翌日、俺は音楽ライターとして、日本のインディーズ系新人バンド『マンボー・サタン・サタン・アンド・マイ・ホーム・イン・ヘル』を取材しに行く。俺は機会あって自分の音楽の悩みをそのバンドのヴォーカリスト兼ギターリストの女性に打ち明ける。

「僕は大の洋楽ファンで、洋楽漬けのように育ったんですが、思い浮かぶ自分の音楽は歌謡曲調のドが付く程メロウな歌モノなんです」

「それはそれであなたらしいんじゃないですか。但しメロウな曲で極上のポップ・ソングを作るとなると、それは並大抵の才能や感性では出来ないと思います。その音楽の地下世界には溢れる程の凡才達が折り重なるようにして蠢いています。何となく良い感じに仕上がってる程度のサウンドの厚味で、私の心って純粋でしょみたいなお利口さんの歌詞を書いて、誰かの感性を誰とも判らないようにパクったようなメロウな歌モノをプレイするミュージシャンなんて、地方のセミプロみたいな世界には捨てる程いるんです。その世界で売れる売れないっていうのは一見紙一重の世界のように思われるかもしれません。それが実は違うんです。強い個性を持ったアーティストの作品を自然にパクッてるんですよ。メジャーの大物や中堅のアーティスト達の個性と比較したなら、彼らの音楽なんて本当に薄っぺらな素人芸ですよ。いてもいなくてもいいような、あってもなくてもいいような、何て言うかな、音楽以前にその人達自体の感性が何一つ特別な感じがしないんです。プロの表現者が曲を完成させる過程で、生まれては捨てるような仮のメロディーが山程作られます。そういうプロがいらない曲、捨てる曲を自作品としているようなものなんです。プロも或程度の数が存在しますから、そのレヴェルのパクリは境界線が判り難いんです。プロの音楽とはもっと特別であるべきです。プロの表現者とは洗練された感性の事です。ファンや追随者としての感性では決してプロにはなれません」

「・・・・なるほど。僕はギターの方もなかなか上達しないんです」

「ロックにおけるギターって言うのは、頭に浮かんだカッコいいフレーズをギターで再現するだけです。エフェクターに遊ばれてるだけでもカッコいい効果的な音は生まれます。ダーク・パンクに例えると判り易いと思うんですけど、カッコいいと感じるスリー・コードを単音か二つぐらいの弦の和音でシンプルに繰り返す事が一つの特徴としてあります。それにインパクトの強いダークなフレーズのソロをドラムとベースのリズムの間にシンプル且つ効果的に一回入れるんです。ロックには既成の歌を基礎的なコード進行でカラオケ的に伴奏するような音楽理論は全くいらないんです。譜面も読めなくていいんです」

「僕はプログレをやりたいんですけど」

「プログレはダーク・パンクよりたっぷりとした演奏をギター好きの好みでプレイしているだけです。テクニカルである事を理屈やイメージで考えてはいけません。ダーク・パンクと同じように自分の頭に浮かんだフレーズの再現に過ぎないんです。録音や人前で演奏するに当たり、間違えずに完全なリズム感で弾くのが困難なだけです。それには自分の頭に浮かんだフレーズを根気よく繰り返し練習する事です。そんな練習の成果はどんなに音数の多い楽曲でも、二日間続けて練習すれば、誰にでも簡単にモノに出来ます。シンプルな演奏力や表現力を持ち味としながら、自分という存在を自己演出する事にこそロックの楽しさがあるんです。これと言ったずば抜けた才能はなくとも、漫画のキャラのような存在の仕方を死ぬまで貫くロック・スターは大勢います。そういうロック・スターをあんまり純粋に崇め過ぎると、自分のデビューばかりが困難に感じられます」

「なるほど」

 正直なところ、ここまでシンプルに網羅した音楽理論でロックを説明されると、ロックに対する幻想がカラリと晴れてくる。二度目の夢の実現を目指す自信が自然と湧き上がってくる。


 晩飯の事を考えながら、JR蒲田駅の駅ビルを西口から出る。今夜は外食で済ませようか。食材を買って、今夜も家で料理するかな。二つあるアーケイドの内の一つを選び、マーケットに入る。俺はそこですき焼きの食材を買う。買い物袋を手に提げて、アパートメントの階段を上がり、二階の一番奥の二○五号室の方を見ると、誰かが共用廊下にしゃがみ込んでいる。俺は立ち止まって唾を飲む。しゃがんでいる女性が俺に気付き、立ち上がってこちらを見る。聡子だ!

「よう!帰ってきたか!」と俺は嬉しさの余り、溢れるままに喜びの声を上げる。何か用があって来たのか。俺に会いたくて来てくれたのか。

「聡子、今夜は俺のすき焼きでも食べてみないか?」と俺は聡子に近づきながら言う。二○五号室の前に来る。俺はズボンの右のポケットから鍵を取り出す。玄関のドアーの鍵を開ける。

「おい、聡子、入れよ!」

「一寸話があるの」

「話なら中で聞くよ」

「それは失礼だと思う。私は家を勝手に飛び出した女なんですから」

「おう。じゃあ、何だよ、話って?」

「あたし、妊娠したの」

「妊娠って、お前・・・・」

 違う。きっと俺の子だ。ああ、朝立ちでした時のかな?

「あなたに確認したかったの。あたし、子供産んで良いのかな?」

「俺の子だろ?」

「うん」

「産んでくれよ。俺達が愛し合ってた証拠だよ。また一緒に家族揃って暮らそうよ」

「あたしまたあなたに頼っちゃって良いのかな?都合良過ぎるわよね」

「頼るってお前、俺はお前の亭主だぞ。まだ離婚届だって出してないんだ」

「うん・・・・」

 俺は聡子を力一杯抱き締める。

「もう俺から離れないでくれ。心の通わなくなった夫婦みたいな真似事は止めてくれよ。俺の事をもっと信じてくれよ」

「ごめんねえ。あたしやっぱりあなたを愛してた。あなたがいないと、あたしは独りでは生きていけないわ。とてもじゃないけど、働きながら女手一つで子供を育てるなんて、あたしには出来ない。あたし、何だか疲れちゃった」

 俺は聡子の肩を抱きながら、家の中に入る。

「あんまり辛いばかりの人生生きたって不幸になる一方だよ。でも、お前は一人で愛子を育てながら働く気にもなったんだな。お前みたいな美人がな、そんな不幸な人生を生きてるのを男が知ったら、そうそう放ってはおかないんだぞ。お前、ほんとよく俺のところに帰ってきてくれたよ。片意地張って物事を難しく考えるような女なんかより、お前はずっと可愛いよ。賢い女を妻に持って良かった。お前は俺が愛するたった一人の女なんだ。もう俺を捨てて何処かに行こうとしないでくれ。俺、お前がいない間ずっと寂しかったんだぞ」

 俺は荷物を玄関に置き、聡子の唇に口づけする。聡子は目を瞑り、涙を流す。俺は聡子の涙を手で拭ってやる。俺は愛を求めて聡子の声と言葉の出るところに長い長い口づけをする。

「結婚ってのは夫婦と言う元々赤の他人同士だった者達が家族として同じ家に同居し、全てを共有して共に生きる事だ。だから、してはならない事、言ってはならない事は当然あるんだよな。温もりある家族であり続けるには自分勝手や我がままのし放題では人生の伴侶に対する気配りや相手の重荷を軽くしてあげるような気遣いや優しさは決して生まれてこない。共に生きていく間、何度となく夫婦間に離婚の危機が訪れるのかもしれない。でも、その度に危機を乗り越え、決して夫婦たる者は離婚すべきではないと俺は思うんだ。夫婦や家族皆が互いを思い遣り、力を合わせてあらゆる困難を共に乗り越えて生きてゆくのが結婚生活であり、真の家族だと信じてる。家族のための自己犠牲と生きている内に挑戦したい自分の夢との関係は難しい問題なのかもしれない。夫婦と言えども、相手の人生を尊重出来ないようではまだまだ完成された夫婦関係とは言えない。現代ならば、女性にだって結婚後に自分の力を社会で試してみたい夢や欲求が生まれるだろう。夫が妻の人生を尊重出来ないようならば、それは男が夫としての役割を果せずにいる事になる。家族が元通り一緒に暮らせるなら、俺にはもう何の不足もない。別居している間に俺も自分の趣味や夢に関して、夫や父親としてだけではない個人的な生活を取り戻せたよ。家族と別居して、漸く俺も恋愛や結婚生活だけが人生の全てではない事に気付いたんだ。家族の一員でありながら、犯罪を犯すというのは、家族に対する暴力を犯したのと同じ事なんだよな。俺は体罰教育を受けて育った最期の方の世代に属する。家庭内でも学校でも体罰が当たり前に行われていた時代だった。俺は父を恨み、母を恨み、自分に暴力を振るう者全てを憎んだ。その結果、自分も犯罪を犯し、暴力を振るい、憎しみを募らせていった。親を蔑み、生きていくための師さえ判らずに生きてきたよ。それでも結婚して子を授かったら、こんな俺でも妻に対しては勿論の事、自分の子に体罰を与える事を厳しく自分に禁じられるようになった。子供が親の言う事を理解しない時には根気よく話し合い、共に判り合える家庭を築きたい。お前が離婚すると言った時、俺は自分の犯した罪の重さが判らなかった。全く俺のやった事は狂気の沙汰だよ。今更で申し訳ないが、聡子、今回の事は本当に俺が悪かった。ごめん!もう二度と同じような間違いは犯さない。法に反する事も二度としない。もう一度だけ俺にチャンスをくれないか?生涯、二度とお前に苦労はかけない。神に誓って自分の中の悪を消し去る。俺はお前を愛してる。愛子の事も愛してる。俺が悪かった!ごめんな!」

「あなたが悪い事をしたのに、私達に一言も謝ろうとしないから私は出ていったの。私は素直に謝れないあなたの心の中の壁をどうにかしたいと思ってたの。あなたは漸く私の前で謝ってくれた。私が求めていたのはそれだけよ。だって、犯罪者意識なんかで生きてるような人とは一緒に暮らせないもの」

「ごめん!本当にごめん!」

「もう許してるわよ。今夜はあなたの作るすき焼きを食べて、たっぷりとあなたに愛してもらうわ」

「聡子!お前は最高の女だよ!俺の生涯でたった一人の妻だ。今夜は二人だけですき焼きを食べて、新婚当時のように二人だけの時間を過ごそう」

「すき焼き食べるまでは我慢しててね(笑)」

「うん。俺はもう二度とお前を失いたくない。もう一度俺の妻として俺の愛を受け止めてくれ」

「はい。判りました!私ね、実は別居してる間に小説を書き始めたの」

「へええ!ほんとに!」

「昔、少し書いてたって言ったでしょ?憶えてる?」

「ああ、確か読ませてもらったよ。へええ!また小説家になる夢を目指すのか!俺、今度、会社からプログレの案内書を出版するんだ。本が出来たら読んでみてくれないか?それでもしプログレに興味があるようなら、良い機会だから、プログレを聴いてみないか?」

「うん。良いわね」

「俺も時間の都合をつけて、自分の音楽を創ろうと思ってるんだ。二度目の夢の実現に本気で取り組もうと思ってね」

「へええ!凄い!」

「さあ!中に入って俺のすき焼きを食べてくれ」

「うん。判った。丁度お腹が空いてきてたの。何か久々に我が家に帰ってきた感じがするわ」

「お帰りなさい。これからはずっと一緒だよ!」

「そうね。あなた、良い男になってきてるわよ」

「おお!そうか!」


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夢見る自由人 天ノ川夢人 @poettherain

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