第2話

 頭がきりきりと痛む。全身が凍えそうだ。何か冷たい物が俺の背後に被さっている。俺はどうやら俯せに横たわっているらしい。目をゆっくりと開けてみる。冷たい物が目に触れたので、また直ぐ目を閉じる。起き上がろうとしたら、肘から先と膝下十センチぐらい先の感覚が完全に麻痺している。頭だけ上げ、また目を開けてみる。今度は白く淡い光が目に入ってくる。鼻の先から上半分だけ顔が地上に出たようだ。視線を下に向ける。白く細やかに輝く物がある。雪だ!俺の腕はどうやら前に伸びているようだ。肘から先は曲がっているのか。ぴんと伸びているのか。雪が積もっていて視覚的には判らない。俺は勢いをつけ、膝を腹の方に近づけてみる。お尻と頭が地上に出る。背筋力で上体を起こし、雪の積もった地面と垂直な姿勢になる。その正座状態で前方の寂寂たる風景を見る。霧だ・・・・。白く虚ろな影のような霧が辺り一帯を蔽っている。

 前方にうっすらとパイプの上に雪の積もった白いジャングルジムが見える。右斜め前には、やはり、座るところやその周りを囲むパイプの鉄柵の上に雪の積もった白いぶらんこがある。右には屋根の上とドアーの取っ手の上と地面の辺りに雪の積もった青い扉の円筒状の一人用公衆便所がある。左斜め前には、やはり、これもパイプの上に雪の積もった鉄棒がある。左には網状に雪の積もった黄緑の壊れた金網がある。その金網の向こうには白いタイル張りのアパートメントが見える。ここはどうやら俺の住むアパートメントの裏の公園らしい。

 小鳥の囀りが微かに聞こえてくる。俺は座ったまま腕を振り、肘から先の感覚を戻す努力をする。誰の声も聞こえてこない。今度は脚を前に伸ばし、膝を左右に動かす。息を吐くと白い息が霧の中に呑まれてゆく。しばらく手足を座ったまま動かしていると、徐々に体が温まってくる。霧はそんな俺を優しく包み込んでくれる。

「僕の霧。僕の霧だ。僕の霧なんだ!」

手足の指が曲がるようになる。太陽の光が微かにぶらんこの上辺りから射している。俺はゆっくりと起き上がってみる。上を向いて両手を上げ、霧の優しい抱擁に静かに浸ろうと目を閉じる。霧が俺の体を包んでいる。釈然たる精神で全身が漲る。ああ、俺は生まれ変わったのか!

 霧の中の遠くの方から奇声を上げてはしゃぐ子供達の声が近づいてくる。

 俺は公園を出て、素っ裸で左の方から来る子供達に近づいてゆく。

「ヨッちゃん!大きな声出さないの!」

「次、ヒトシ君が鬼ね!」

「こらっ!雪投げちゃいけませんよ!」

「ママ、このおじちゃん、裸だよ!」

「ヨシユキ!こっちに来なさい!」

「糞お!よくも雪団子当てたな!」

「俺のだぞ!雪も霧も全部俺のだ!」

「ヒロシ!近付いちゃダメよ!戻ってらっしゃい!キャーッ!誰か助けて!」


 俺は警察署の取調室のドアーの向かい側に腰を下ろしている。警察の取調べを受けているのだ。

「御巡りさん、俺は本当に何もやってないんですよ」

「じゃあ、何故そんなに返り血を浴びてるんだ?」

「全く霧の中での出来事なんです。俺はただ酔っ払って、素っ裸で公園に寝てて、目が覚めたら霧が出てて、裸のままふらふらと霧の中から聞こえてくる子供達の声の方に近づいていっただけなんです」

 俺は朝っぱらから警察署に引っ張っていかれた。同じ事を何度も話しては無実を訴え続けている。ずっと酷い眠気に襲われている。

眠らせてもらえるのならば、やってもいない犯行を認めても良い。取調べを受けながら、何度となく睡魔に負けて眠り込む。その度に刑事が俺を怒鳴りつけ、強引に眠りから目を覚まさせる。

 昼過ぎになる。取調室に別の警官が入ってくる。その警官が取調べをしている刑事を呼ぶ。

 刑事は席に戻る。取調室の机の上の電気スタンドの灯を俺のうつらうつらとした目に向ける。また同じ質問を繰り返す。俺は何度も何度も同じ事を繰り返し質問される。何度も何度も同じ事を答えている。

「刑事さん、眠らせてくださいよ。そうしてくだされば、犯行なんてお望み通りに認めます」

「お前がやったんだな?」

「はい、そうです。山さん、申し訳ないですけど、カツ丼でも食わせてくださいよ(笑)」

「ふざけるな!」

 取調べをしている刑事は俺を怒鳴りつけると、俺の椅子を机の下から思い切り蹴り飛ばす。俺は椅子ごと真後ろに吹っ飛んで倒れる。俺は頭を強く壁に打ちつける。その瞬間、俺の怒りが爆発する。俺は素早く起き上がり、椅子に座った刑事の顔面に左の回し蹴りを食らわす。刑事は椅子ごと地面に倒れる。俺は机を持ち上げ、刑事の体に力一杯投げつける。刑事は肋骨の辺りを押さえて悶え苦しむ。俺は入口脇で供述を記録している警官の髪を鷲摑みにし、警官の頭を数回机に叩きつける。更に背後からその警官の顎と頭を手で掴み、思い切り右に回して頸の骨を折る。警官は椅子からずり落ちて気を失う。

「どうしましたか!」とドアーの向こう側から警官が大声で取調室の中の様子を伺う。俺は取調室のドアーを開け、扉の裏に隠れる。何と先程倒れた壁に血走った目をカッと見開いた自分が倒れている。俺は体から抜け出たのか!警官が開いたドアーから取調室に駆け込む。俺は警官の背後に立ち、両手の指で警官の両目を潰す。入ってきた警官は悲鳴を上げて地面を転げ回る。取調室を出て、家族の事を想った途端、一瞬にして自分の家の玄関に立っている。そこで聡子と愛子を想うと、一瞬にして家の居間に立っている。聡子はソファーに座って本を読んでいる。愛子はその足下に座ってTVを観ている。窓が開いている。外の様子を想うと、一瞬にして窓際に立っている。聡子の方に振り向く。聡子は俺がいる事に気づかない。愛子はこちらを見て、「おとうさん」と呟く。俺は愛子に笑いかける。事件現場を想って窓の方を振り返ろうとしたら、一瞬にして事件現場の上空で現場の様子を俯瞰している。一面に降り積もった白い雪が現場周辺だけ赤く染まっている。

『俺の死は何のために!』

 そう思った途端、俺は動かない体の中にいる。真っ暗で何も見えない。瞼が開かない。どうして体が動かないのだろう。お経を上げるお坊さんの声が右耳から聞こえる。宮田・・・・三郎、肺癌・・・・、世界のミヤタ自動車、社長、八十九歳、既婚、妻・志乃、長女・美和、長男・豊、何だ?やっと手の指が動いた。手の幅を広げると、両手が壁に当たる。水っぽい花の匂いがする。手を上に上げると、天井が肘を曲げたぐらいの高さにある。他人の死体に憑依したのか?俺の名は・・・・、守。そうか、もう取調室に残したあの体には戻れないのか。ああ!何て事をしちまったんだ!まあ、良い。この体の所有者なら、まあまあの生活が送れる。妻・志乃、79歳。もう一寸若ければなあ。いやっ、愛し合うのは聡子だけで良い。じゃ、そろそろこの棺から出るか。俺の新しい人生の出発に相応しく、大勢の喜びの声に歓迎されてみようか!

「おおおお!俺は生き返ったぞう!」

 俺は棺を開けようと、棺の中で手足を動かして暴れ、固く閉じた瞼を開ける!

 取調室に入ってきた別の警官が何やら取調べをしていた刑事に囁く。今入ってきた警官は直ぐに出ていく。何だよ、夢かよ!

 刑事が俺の左脇に立ち、「あそこで殺された主婦三人と幼児三人は全員撲殺されていました。あなたの手には六人も撲殺したような跡は残っていません」と言う。

「だから、私は無実ですよ!」

「今、知らせがあって、あなたが無実である事が判明致しました。裸で外にいた事に関しては今後決して繰り返さないように!ご苦労様でした。これでもうお帰りくださって結構です。あなたへの疑いは晴れました。犯人に心当たりがあるようでしたら、直ぐに警察に御連絡ください」

 何なんだよ!俺が何度も無実を訴えていた事自体は全くの無力だったのか!何か間違ってはいねえか!おまわりが俺の背に左掌を当て、俺を取調室の外へと送り出す。俺は取調室の前の何となく薄暗い通路を左に折れる。納得のいかない気持ちで階段の方へと歩いてゆく。何だか本当に腹が立ってきたな!俺は途中で取調室の方を振り返る。取調べをしていた警察官が取調室の開いたドアーの前に立ち、振り向いた俺に向かって深く頭を下げる。何であれだけ俺を犯人だと決めつけていたあいつが俺に謝れるんだよ!社会ってのは一定の形式だけ済ませれば、それ以上は何の意味もない集合体の機械的な働きなのかよ!俺は通路を左に折れて階段を下りてゆく。俺は殺人鬼の疑いをかけられたんだぞ!何でそんな凶悪な人間と判断された人間がすんなり社会の中に戻っていけるんだよ!こっそり後をつけてんのか?俺は一階のロビーに下りると、階段の上を振り返って見上げる。誰もいない。畜生!納得いかねえよ!気持ちが修まらねえよ!

 俺は警察署を出てゆく。

 全く何て日曜日なんだ!帰ったら直ぐに風呂に入るぞ!撲殺された人の返り血が体中にこびりついてやがる!これじゃあ、中古レコード屋にも寄れやしない。タクシーでさっさと帰った方が人目につかねえだろうな。俺はこちらに向かって走ってくるタクシーに手を上げる。タクシーが車道に止まる。タクシーの後部座席の自動ドアーが開く。俺はタクシーの後部座席の真ん中に乗り込み、「JR蒲田駅の西口の方に向かってください!そこから先は口で案内します」と運転手に行き先を告げる。

「JR蒲田駅の西口ですね」と五〇代ぐらいの浅黒い顔をしたおっさんの運転手が前を向いたまま復誦する。

「はい!西口の方にお願いします!」

 タクシーが走り出す。俺は腕を胸の前に組んでタクシーの進行方向をじっと見ている。俺はワイト・シャツの胸ポケットの中の『ラーク』を一本パッケイジから抓み出す。『ラーク』を一本口に銜え、緑色の百円ライターで煙草の先に火を点ける。久々の煙草を味わう。ああ、ニコチンのこの苦さ!上顎が完全にニコチン切れに飢えていやがる。俺は二服目の煙を吸い込み、口の中全体に塗す。やけに煙草がウメエな。地元の町並みだってえのに、やけに後ろめたい気持ちがする。早く部屋でキャメルかルネッサンス辺りのアルバムをゆったりとした気持ちで聴きたい。

「ああ、そのアーケイドを回り込んで住宅街の方に真っ直ぐ進んでください」

「はい。判りました」

 早く聡子と愛子のいる我が家に帰りたい。あいつらにはこの返り血を浴びた姿は見られたくない。ゆっくりと風呂に入り、念入りにこの体を洗いたい。

「ああ、その交通封鎖している通りを回り込んで、先に見える道路の方に行ってください」と俺は体を前屈みに乗り出し、警察が現場調査をしている公園前の道を指差して言う。

「はい。判りました」

 この後ろめたい気持ちは何だ!何故警察に見つからないように身を潜めようとするんだ!この服の返り血は俺が人を殺した返り血じゃないぞ!これはガキの頃からの犯罪者意識だ。今日程自分の心に無実の犯罪者意識を植えつけられた事はない。

「ああ、その白いアパートの前で降ろしてください」

「ここで宜しいんですね」と運転手は言って、車を俺の住むアパートメントの前に止める。俺は料金を支払ってタクシーから降りる。タクシーは直ぐに発進して遠ざかる。俺はアパートメントの階段を上る。家の前に来る。もう夕方だ。大田も木幡も朝まで一緒に酒を飲んで別れた俺がこんな目に遭ってるなんて夢にも思わないだろう。俺は玄関のドアーのノブを掴んで回す。鍵がかかっている。俺はブザーを押す。早く家の中に入りたい!

「はああい」と家の中から聡子が答える。俺は聡子の声を聞いて安心する。俺は玄関の前の柵に寄りかかる。両腕を柵に後ろ回しにかける。

「どなたですか?何の御用でしょう?」

 俺は答えない。たっぷりと愛情を貰わないと気が済まない。聡子が玄関のドアーをそっと開ける。

「あら、あなたじゃない。今、警察から電話があって、御主人は無実でしたってお詫びがきたのよ。朝までずっとお酒飲んでたの?今日は近所でずっと警察が現場調査してて、お買い物に行くのにも遠回りさせられたの。あそこで主婦三人と幼稚園児三人が撲殺されたんですものね」

「俺がその事件の容疑者として警察で取調べを受けていたのは知ってるのか・・・・」

「何であなたが殺人事件の取り調べなんかを受けるのよねえ」

「酔っ払って素っ裸で公園に寝てて」

「公園で寝てたって!今日、雪が積もってて寒かったでしょう?」

「現場の惨状を見て動けなくなってさ。現場で何時までもうろうろしてるところを警察に連行されて。殺された人の返り血を体に浴びてたから疑われたんだけどね。でもさ、もう寒かったかどうかなんて忘れちゃったよ。酔いも回ってたしね。ああ、直ぐに風呂に入りたいな」

「じゃあ、早く中に入ってよ。今、お風呂にお湯を入れるわ」

「うん。ありがとう。お前だけは俺を信じてくれてるんだな。嬉しいよ」

 俺は玄関に入り、靴を脱いで寝室で背広とタイを脱ぐ。

「お風呂にお湯溜まるまで一寸待ってなさいよ!風邪引くわよ!居間に暖房点いてるから暫く温まって待ってて!」

「返り血浴びた体のまま、ずかずかと家の中にまで入りたくないよ。愛子だっているんだし」

「じゃあ、お湯入れながら入る?」

「うん」

 昨日までの気分とは全然違う。昨日には昨日一日の意味があり、今日には今日一日の意味がある。

「じゃあ、後は自分で出来るわね」

「うん。ありがとう」

 俺はワイト・シャツを脱ぐ。下着と靴下を脱ぐ。脱いだ物は洗濯物籠には入れず、塵箱に捨てる。

 俺は風呂場に入る。立ったまま石鹸水をつけた糸瓜タオルで返り血を浴びた体を洗う。俺は泣いている。悔しい!悔しい!俺は人殺しなんてしないよ!熱いシャワーのお湯で石鹸を洗い落とす。俺は一端風呂場を出る。糸瓜タオルを洗面所の塵箱に捨てる。脱衣所兼洗面所から手拭いを取る。再び風呂場に戻る。今度は椅子に腰かける。手拭いに石鹸水をつけて更に体を洗う。とにかく入念に体を洗う。ちん毛はシャンプーで洗う。リンスもする。出来る事ならずっと勃起したまま完走したい。ものはエロい事を考えてないと萎んでくる。そんな事を考えながら、ケツの穴もよく洗っておく。女の子達は儲けモンだね。こんな良い男の裸を観れるんだ。天水桶で掬ったお湯で体の石鹸を洗い流す。丁度浴槽にお湯が溜まる。漸く湯船に浸かる。一体犯人は誰なんだ。友部正人の『誰も僕の絵を描けないだろう』をあがた森魚ヴァージョンで歌う。それを歌い終わると、松崎しげるの『女の部屋』を歌う。何だか気分良く長湯に浸りたい。今夜は風呂場が恐くない。松田優作の『ストリッパーの子守唄』を歌う。それを歌い終わると、ファウスト・チリアーノの『私だけの十字架』を歌う。十分に風呂場の湯や熱や湯気で温まる。頭の中がスカーッとさっぱりとした感じになる。俺は浴槽から出て、風呂場を出る。脱衣所で手早く髪と体をタオルで拭く。鏡に映った自分の姿を見る。まるで酷く疲れたデイヴィッド・ボウイみたいだ。風呂場と脱衣所の電気を消す。俺はタオルも持たずに脱衣所を出る。

 素っ裸で寝室に入る。紙袋の中に赤いビキニの下着と黒い靴下と黒いピンク・フロイドのロックTシャツと銀色のジャンパーとブラック・ジーンズと赤いスニーカーズとセロハンテープと裏が白紙の広告一枚と黒のマジックペン二本を入れる。明日の朝忘れないようにと通勤鞄の横に用意しておく。下着を穿く。ベッドの布団の中に横たわる。目を瞑る。ふと帰宅してからずっと煙草を吹かしていない事に気づく。俺は起き上がってベッドに腰かける。白い長袖のTシャツを着る。綿入れを羽織る。喫煙のため窓を開ける。絨毯の上に灰皿を置く。背広から『ラーク』と緑色の百円ライターを取り出す。『ラーク』の先に火を点ける。久々に煙草を吹かす。俺は殺人の罪なんて犯すような人間じゃない!本当の俺がどんな人間かも判らないのか!大声を出したくなる程苛立ちが募る。煙草を吸い終える。綿入れを脱ぐ。パジャマのズボンを穿く。ベッドの蒲団の中に入る。本当に家族の皆には申し訳ない。今夜の家族サーヴィスはなしにさせてもらうよ。悔しくて、悔しくて、また涙が出てくる。お母さん!体を反転させて俯せになる。枕にゴシゴシと顔を擦りつける。もっと心を落ち着けなければいけない。深い深い眠りに落ちるんだ。もう心も体も疲れ切ったよ。お母さん!お母さん!眠いよ。眠くなってきた・・・・。頭が物凄く疲れている。


 何だ、ここは?真っ暗だ。俺は横たわっている。体に素手で触れる。素っ裸だ。手足は真っ直ぐに伸びている。両腕を天井や左右に動かす。テントの布のような感触を手に感じる。袋のような物の中にいるのか。空気は十分にあるな。足で蹴飛ばせば、覆いが吹っ飛ぶのか。天井の辺りを蹴飛ばす。目を開けた顔に眩しい光が当たる。

 やっぱり、夢だったか。妙に冷静に夢か現かと分析してたな。もう朝なのか。随分ともう明るい。聡子は隣でまだ寝ているのか。もう起きて向こうにいるのか。俺はベッドから出て、鉄御納戸の綿入れを羽織り、便所に入る。今朝も絶好調の朝立ちだ。腰を直角に曲げて放尿しないと小便が便器の上に飛び出してしまう。昨日の苛立ちが蘇る。放尿感の癒しを感じる。便器の水を流す。

 洗面所で洗面し、歯を磨き、電気剃刀で髭を剃る。鏡に映る自分の顔の美しさに見惚れる。本当に俺は良い男だ。美し過ぎる。本当だったら、芸能人にでもなるべき顔なんだな。なれるなれないで芸能人にならなかった訳ではない。まあ、自分が芸能界に一寸したタレントやモデルのような感じで気楽に入る事を望まなかった訳だ。TVに出たいとかって思わなかったの?ああ、よくTVに出て、『笑っていいとも』とかで話す場面は想い描きましたよ。生まれつきTVが存在する世代なのかな?ううん、そう、ですね。生まれた時にはもうありましたねえ。

 俺は朝食のために居間に行く。テーブルの俺の席に朝食が置いてある。俺は席に腰を下ろし、「いただきます!」と言って、そぼろと煎り卵と紅生姜の三色丼とコーラの朝食を食べる。

 聡子が俺の向いの自分の席に腰を下ろし、「昨日は早く寝たのね」とトーストにマーガリンを塗りながら話しかける。

「俺も朝はそのくらいで良いのになあ」

「ダメよ!空腹感は人間の心に悪い事を考えさせるの」

「俺って、浮気でもしそうなタイプなの?」

「自分の男が浮気するしないなんて事に正確な判断は必要ないの。そもそも私は浮気する男の事を議論する以前に、相手が誰であろうと、自分の男が絶対に浮気しないと信じる心がないの」

「何か、それって、物凄く嬉しいなあ」

 俺はすっかり三食丼の食が進む。

「ちゃんと残さず食べてよ!思いっきり愛情籠めて作ったんですからね」

「うん」

 俺がこれからやる事だけは教えられない。これは俺一人の重要なけじめなのだ。

 朝食を食べ終えて席を立つ。通勤服の背広に着替える。俺は通勤鞄と紙袋を持って、「じゃあ、行ってくる」と玄関まで見送りにきた聡子に言う。俺はいつものように聡子の唇にキッスをして家を出る。最近越してきたアパートメントの隣人がまたゴミ袋を持ってドアーを開ける。隣人は挨拶をする機会を逃してしまったからか、今朝も会釈だけして、先に共用廊下を階段の方へと歩いていく。

 JR蒲田駅の改札口を定期を見せて通る。プラットフォームに停車している蒲田駅発東京駅方面行きのJR京浜東北線に乗車する。 JR新橋駅までの満員電車の中で俺の秘めたる想いが募ってくる。座席に座っていたサラリーマンが読み終えた『週刊少年ジャンプ』を網棚に置き、JR大森駅で下車する。俺はその『少年ジャンプ』を網棚から取り、気晴らしに読み始める。

 JR京浜東北線の新橋駅で下車する。改札口を出て、公衆便所の左奥の便器の上に紙袋に入った着替えの服を置く。扉を閉める。マジックペンで裏が白紙の広告に、『ただ今このトイレは使えません』と書く。その広告の張り紙をセロハンテープでドアーの外側に貼りつける。再びJR新橋駅の改札口を通り、JR山手線の東京駅方面行きのプラットフォームで電車を待つ。

 俺がこの日をどれだけ夢見た事か!この熟れた果実を女の子達の目の前に晒す喜び!誰か一人が独占するには余りにも美し過ぎるこの美貌!俺の心は間もなくこの体と共に解き放たれる。失敗はない。JR東京駅の公衆便所に着いたら、身に着けている服を全て脱ぎ、着替えが用意してあるJR新橋駅の公衆便所まで全速力で走り抜くのだ。

 東京駅方面行きのJR山手線が轟音と共にプラットフォームに入ってくる。電車が停車する。電車の溜息みたいな音の後に自動扉が開く。俺はその電車に乗り込む。

 心臓が激しく鼓動している。緊張して火照った顔を自動扉の硝子に押しつける。ひんやりとして、とても気持ちが良い。少し熱が出たのかな。俺は今、大勢の女の子達がオナニーによる想像でしか見る事の叶わなかった俺の裸体を白日の下に晒し、不特定多数の女の子達に向かって路上に放とうとしている。女の子達はどんな願いも叶えてくれる男が現われるのをずっと待っている。この俺ならどんなに恥ずかしい事でも叶えてくれると判っていながら、俺に告白する勇気のなかった女の子達を既婚者の俺が満足させてあげるにはこの方法しかない。肉体的な若さなんてものは永遠ではない。若い頃の俺はどんなに緊張感のある男女のシチュエイションでも、必ずラヴコメに終わらせていた。そんなラヴコメな俺に女の子達は相当に鬱積していたに違いない。俺の周囲にいた女の子達は次々と隙を見ては言い寄る男達の餌食になっていった。俺はそれをずっと黙って見ていた。俺が恋の告白をするのを根気よく待って勝利を得ようとした女の子は一人もいなかった。実際に俺から告白された女の子達はどう言う訳か俺を遊び人だと思った。俺が初めて抱いた女は今の妻だ。親しい女友達なら、俺が遊び人に見えるのは見た目だけだと知っている。それは俺の事をよく知らない女の子達にしてみれば詰まらない事なのかもしれない。もっとHな事を訊かれたい。どんなに恥ずかしい事を望んでいるのかを知って欲しい。私の体をあなたの好きなようにして欲しいの。もっとHで助平な本当の私を知って欲しいのと、女の子達の願いはきっと尽きなかった事だろう。このままでは俺の方まで鬱積してしまう。今日こそは路上にて咲き誇る花となろう。

 JR東京駅に着く。改札口を出て八重洲口方面に進む。俺は八重洲口の公衆便所に入る。早速洗面所の鏡の前で服を脱ぐ。全裸になり、洗面所の台の上に脱いだ服を畳んで置く。興奮していてカッカと体が火照り、全く寒さを感じない。全裸になった俺は鏡に映った自分の肉体の美しさに見惚れる。俺は鏡に向かって呟く。

「良い男だ。心配はいらない。女の子達は皆、お前の味方をしてくれるだろう。お前は美しい。そう!私は、美しい!」

 突然、公衆便所に三〇代ぐらいの勤め人風の男が入ってくる。俺の全裸の姿を見ると、男は少し驚いたような素振りを見せ、「すみません」と謝って、直ぐに入ってきた入口から外に出ていく。俺は再び鏡に映った自分の姿に見入る。よし!行くぞ!もう誰もこの俺を止められないんだ!

 俺が公衆便所から飛び出した途端、女の子達の叫び声が上がる。呆気に取られた女の子達の視線は俺の裸体に釘づけだ。そう!今、君が目にしているこの光景は夢じゃないんだ!現実なんだ!駆け抜ける俺を見て、頭を抱えてしゃがみ込む太った女性達。楽しそうに振り返って裸を眺めるグレイや紺のスーツを着た細身の女性達。男は皆、ウケにウケている。大いにウケてくれたまえ!この日の喜びを私と共有する諸君!警察官の姿は今のところ見えない。よし!俺は何が何でも逃げ切ってやるぞ!

 どよめくストリートの勤め人達。判るんだな!この俺の熱っぽさが!背後から警察官の笛の音がする。振り返ると、警察官が一人、俺の背後から追い駆けてくる。捕まるものか!モノの方はすっかり萎えてしまった。真冬に素っ裸で路上を走れば、モノが萎えるのは判り切っていた。女の子達は皆、喜んでくれている。振り返ると、それとなく警察官の道を遮る女の子達もいる。パトロール・カーが歩道を走る俺の右を走り、「そこの君!止まりなさい!」と拡声器で警告している。女の子達は俺と警察の鬼ごっこに、「頑張って!」と声援を送ってくる。俺は走る!全人生を賭けて走る!前方には警察官が二人、こちらを向いて立っている。もう銀座に入ったんだな。建物が建ち並び、脇道には入れない。

「こらっ!止まりなさい!」と言って、背後から警察官の手が俺の肩に伸びる。俺はその手を払い除け、ガードレイルを飛び越える。

「危ないぞ!車が来るから歩道に戻りなさい!」と歩道に取り残された警察官が左斜め後ろから叫ぶ。俺は車道を走り、先、前方の歩道から近づいていた警官二人の難関を何とか通り抜ける。その前方にまた警察官が現われる。俺は咄嗟に振り返る。先の歩道から俺を追い駆けていた警察官が何時の間にか車道にいる。その警察官が振り向き様に俺の頭と肩に覆い被さるようにして飛びかかる。俺は地面に倒される。警察官は俺を取り押さえようとして、俺の胸の上に馬乗りになる。俺はその警察官に激しく抵抗し、警察官の手を払い除ける。別の警察官が棍棒で俺の太股を打ちつける。もう一人二人と警官達が駆け寄り、それぞれ棍棒を手にして俺の体をこれでもかと打ち続ける。

「ああ・・・・」

 痛みに悶える俺の手に警察官が手錠を嵌める。俺の体の両脇に二人の警官が片方ずつ手を通す。左側の警察官が速やかに俺をパトロール・カーの後部座席に押し込む。

 俺は警察に公然猥褻罪で捕まった。パトロール・カーで警察署に連行される。パトロール・カーが警察署に入る。俺は取調室で犯行の動機を尋問される。俺は昨日の撲殺事件の容疑者として捕まった事への不満から、犯罪に於ける自己同一性の問題を証明しようと犯行に及んだ事を供述する。撲殺事件からまだ二日と経たないこの日この時、俺のアパートメントの隣に住んでいた大学生が撲殺事件の真犯人として警察に捕まった事を警察が俺に伝える。犯人の部屋からは盗撮された夥しい数の幼女達の写真が発見された。その中にはなんと愛子の写真まであった。愛子が公園の砂場で遊んでいるパンツ丸見えの可愛い写真である。あんなに酷い事をする殺人鬼が隣の部屋に住んでいたなんてとても信じられない。とにかく、愛子が無事でよかった。

 取調べを終えると、反省の色がないという事で俺は留置所に拘置される事になった。

 数日後、精神鑑定の結果、俺には精神疾患は認められず、厳重に注意されて釈放される。

 昼前の清々しい空気の晴天の下、俺は公園の金網の穴を潜ってアパートメントの一階まで来る。アパートメントの前には引越し屋のトラックが一台止まっている。二階の何処かの部屋から引越し屋が荷物を運び降ろし、トラックに積んでいる。俺は階段の脇に退き、引越し屋に通路を譲る。俺は塗装の剥げかかった黒い階段をゆっくりと上ってゆく。

 引越し屋は二階の一番奥の二〇五号室から荷物を運び出している。俺の部屋だ。部屋の前まで行くと、玄関が開いている。引越し屋が家から運び出しているのは聡子の荷物だ。俺は玄関に入り、聡子の名を呼ぶ。

「聡子!何だ、これ?どうしたんだ?」

 俺は家の中に入って聡子を捜す。聡子は寝室にも居間にもいない。

「あら、あなた、お帰りなさい」と背後から玄関口に立った聡子が言う。「理由はあなたにもお判りでしょうけれど、私、もうこの家から出ていきますから。食卓の上に置いてある離婚届にサインしておいてください」

「俺は離婚なんてしないぞ!俺は殺人の罪なんて犯すような人間じゃないんだ!だから、それを証明するために疑いを晴らしたんだよ!やっと刑務所から出てきて帰ってきたのに何だよ!話し合いも何もないじゃないか!俺はこんな風に俺達の結婚生活が終わるのは厭だぞ!俺達が長年連れ添ってきた夫婦の歴史はどうなるんだ!こんな終わり方で良い訳ないだろ!俺達は夫婦なんだぞ!」

「あなたは少し頭を冷やした方が良いの!自分のやった事がどれだけ不謹慎な事か、あなたは判っていないの!あんな事したのを愛子が大きくなってから知ったら、どう思う?私は絶対にあなたを許しませんからね!でも、養育費は払ってもらいますよ。私、ちゃんと自分でも働きますから!」

「聡子!俺はお前を愛してるんだぞ!」

「私だってあなたを赤の他人を見るようには無関心になれないわよ。今度の事だってね、本当はあなたの気持ちも判らない訳ではないの。でもね、そう理解するにはあなたにも諒解を得ないと、あなたはきっと不遜な扱いを受けたと文句を言うでしょう。私、もうね、あなたをまともな人間だとは思ってないの。私はとりあえず実家に帰ります。あなたがよく頭を冷やして、よく自分のやった事を反省したら、愛子のために三ヶ月に一回は家族揃って三人で外食をします。それじゃあ、お元気で!」と聡子は言って、家を出てゆく。

 俺は灯の消えた誰もいない寝室のベッドに腰を下ろす。今更、俺の何が気に入らないって言うんだ!まともな人間って何だよ。実際にお前が結婚した当時の俺はお前が言うようにまともな男だったとでも言うのかよ。冗談も言えないような糞真面目な男がお前の好みなのか。俺はお前が判らなくなったよ。俺達上手くいってたよな。何でお前はこんなにあっさりと別れられるんだよ。俺は聡子や愛子の顔を切ない気持ちで想い浮かべる。幾ら聡子に心の中で話しかけても返事はない。何だか一遍に全てを失った者のように、犇と体の冷たさを感じる。寒い!寒いなあ!聡子!お前はここまで夫を苦しめたかったのか!そうじゃないだろう。お前は寒さに震える夫の姿が見えないから、このお前の愛する夫の苦しみが判らずにいるんじゃないか!今なら間に合う!今ならこの俺が風邪を引く事だって防げるんだ!早く帰ってこい!今直ぐ家に戻れ!

 夕食は外に食べに行くか。

 JR蒲田駅の方まで歩いていく。馴染みのない一軒のラーメン屋に入る。

「いらっしゃいませ!」と威勢良く店員が言う。俺は店員の顔も見ずに店内の右側にあるカウンター席の手前から二つ目に座る。

「よう、清高!」と店員がカウンター越しに俺の名を呼ぶ。

「えっ、誰だっけ?」と俺が店員を誰だか判らずにいると、店員はエアー・ギターを弾きながら、「俺だよ。大沢」と名乗る。

「ああ、チョンボか!」

「おお!やっと思い出してくれたね、って遅えよ!思い出すの!」

「何、チョンボ、ここで働いてるの?アルバイト?」

「違うよ。見習いで働いてるんだよ」

「ほう!ああ、ラーメンと餃子ね」と俺はチョンボに注文する。

「おう!はい、お水!」

「ありがとう。チョンボ、お前もう音楽やってないの?」

「いや、続けてるよ」

「髪は坊主だしなあ。一寸、ほんと判らなかったよ」

「ステイジでもこれだよ」

「へええ。U2にいたな、そんな髪型の人」

「うん。俺もその辺の真似をした」

「お前、独身?」

「勿論。どう見たって独身だろ」

「俺、今、別居中。もうほとんど離婚スレスレ」

「だって、結婚なんて早いだろ?そうなるに決まってんだよ」

「いやあ、さあ、ほんと、つい最近まで良い感じでいたんだよ」

「なんか浮気とかバレて?」

「まっ、その話はいいよ」

「お前、音楽はやってんの?」

「いや、全く。俺、ロックのライナー・ノーツ書く仕事してるんだ。音楽活動の方はやりたくても基礎がないんだよ」

「基礎がないって、基礎って何?」

「いやあ、楽器弾けないし、音痴ではないけれど、声の音域は狭いし、楽譜は読めないし、作詞はするけど、オリジナル曲を録音した事もないしさあ」

「楽器の練習始めて、作詞した詩にメロディー乗せれば良いんじゃないの?ロックやってる奴らなんて楽譜読めないような奴ばっかりだぞ」

「ううん、自分に音楽的な才能があるとも思えないし、やるとしたら、プレグレをやりたいんだよ。どう考えてもプログレなんて無理だろ?」

「確かに才能ないって説明にはなってるな。やるとしたらプログレって言う時点でオリジナリティーのなさが判るよ。それじゃあ、やれてもコピーバンドだよ」

「厳しいご意見ありがとうございます」

「年齢。いつまでも若くはないぞ」

「うん」

「はい、餃子!」

「おお!」

「俺、今さ、バンドの存続が難しくなってきてるんだよ。作詞作曲してヴォーカルとギターやってる高井ってのがさあ、サウンドがちゃちいって言い始めたんだよ」

「どんな音楽やってんの?学生ん時はパンクだったろ?」

「うん。今でも下地になってんのはパンク的な音楽だよ。今はそれに色が付いたような音楽だよ。根底にあるもんはそうそう変わんねえよ。楽器も相変わらず上手くはないし、何となくそれっぽい自分のギターを弾いてるよ」

「その高井って人は『セックス・ピストルズ』が『PiL』へ移行したような事思ってるのかな・・・・」

「それを言うなら、今、俺達がやってる音楽自体ニュー・ウェイヴだよ。お前さ、音楽は聴いてんの?」

「あああ、まっ、聴いてるよ。音楽聴くのは仕事でもあるからね。何だ、既にパンクじゃない訳か」

「言っとくけど、俺達のバンドの音楽を誰々風って説明する事は出来ないぞ。あのさ、どうせ俺と音楽の話するならさあ、もっと生きた音楽の話しろよ。お前、ライナーやってる時以外でも、いっつもそうやって既成の音楽を体系的に捉えるような内容だけで自分の音楽語ってるつもりになってんの?音楽を説明出来るのは人じゃなく音楽なんだよ。音楽は言葉で説明する以上に自ら主張するもんなんだよ」

「いやあ、仕事柄そういう語り口調が身についちゃってるんだろうな」

「はい、ラーメン!お待たせえ!」

「おお、ラーメン。いただきまあす!」

「じゃ、ごゆっくり」と大沢は言って、一方的に会話を終わらせて厨房に下がる。生きた音楽の話か。俺の音楽の話はそんなに退屈なのかねえ。そういう事はお前の音楽を聴かせてから言えよ!


 夕食を済ますと、本でも読もうかと、アーケイドの中の古本屋に寄る。店には日本のフォーク・シンガーのブロマイド・ペイパーが沢山売られている。何を読んだら良いのか全然ビンとこない。帰っても家には誰もいない。何か買って帰らないといけない。AVでも買うか。俺は顔で選んだ中古のAVを一本選ぶ。AVを手に持ち、更に買いたい本を探す。本も何冊か買って帰りたい。

 結局、俺はAV一本と絵の上手い見知らぬ漫画家の劇画風の単巻長編の単行本一冊と自費出版らしき詩集を一冊買って店を出る。今日は公園の先の十字路を右折して帰ろう。

『言っとくけど、俺達のバンドの音楽を誰々風って説明する事は出来ないぞ。あのさ、どうせ俺と音楽の話するならさあ、もっと生きた音楽の話しろよ。お前、ライナーやってる時以外でも、いっつもそうやって既成の音楽を体系的に捉えるような内容だけで自分の音楽語ってるつもりになってんの?音楽を説明出来るのは人じゃなく音楽なんだよ。音楽は言葉で説明する以上に自ら主張するもんなんだよ』

 あのなあ、俺は大卒ばっかりの職場環境に一人高卒として混ざり、独学で身に付けた文章を武器に必死になって音楽に関係する記事を書いてきたんだよ。

『確かに才能ないって説明にはなってるな。やるとしたらプログレって言う時点でオリジナリティーのなさが判るよ。それじゃあ、やれてもコピーバンドだよ』

 いちいち煩せえ野郎だな。俺だって楽曲が揃った時点では別の表現で自分の音楽を語るよ。偉そうな事言いやがって、テメエだってどっかのバンドのサウンドパクって、パクった本物よりうんと劣るような真似事をして音楽をやってるんだろう。

 あああ!いやっ、そう言う事は言いたくない!誰にだって自分の憧れのミュージシャンのサウンドに連なるバンドとしてデビューするもんだよ。俺だってそのくらいは判ってるよ。憧れのミュージシャンと音楽で連なる血統意識みたいなものを欲しがる気持ちは誰にでもある。俺だってあるよ。あああ!こんな事言うようじゃ、俺、その中自分が嫌いになるなあ。これはマズいぞ!ライナー書く夢は叶ったんだ。そろそろ本当の夢の方に向かわないといけない。人生なんてあっという間に終わっちまうんだ。チョンボの言葉が間違ってる訳じゃない。

『言っとくけど、俺達のバンドの音楽を誰々風って説明する事は出来ないぞ』

 そうかなあ。先人のサウンドや感性を何処かで継承しているからこそ、自分のやろうとしている事が音楽だと認識出来るんじゃないか。それなくしてはギターの弦をピックで弾く事や、ドラムをスティックで叩く事が、物質に対して物質で衝撃を与えるような破壊行為になってしまうのが『二○○一年宇宙の旅』の原始人みたいなのから進化した人間本来の行為なんじゃないの。人類の進化や文化の発展ってさ、そういう風に自分のやろうとしている事が音楽だと認識出来る文化的な継承があるからこそ、原始人同然に生まれくる自分達に音楽史なるものとの関わりを意識させたり、自分って存在に文化を発展させていく役割りみたいなものを意志するようになるんじゃないかな。

『言っとくけど、俺達のバンドの音楽を誰々風って説明する事は出来ないぞ。あのさ、どうせ俺と音楽の話するならさあ、もっと生きた音楽の話しろよ。お前、ライナーやってる時以外でも、いっつもそうやって既成の音楽を体系的に捉える内容だけで自分の音楽語ってるつもりになってんの?』

 いやあ、例えばね、歌には歌詞がある事が前提とされるけど、商業的な詩の才能を音楽の中に作詞陣として導入したミュージシャン達の試みっていうのはさ、いやいやいや!これはダメだ!俺は結局ミュージシャン達が音楽で示した結果を前提に自分の音楽を語ろうとしているんだ。俺は音楽を論じていながら、自分の音楽を作り出したり、新しい未来の音楽を予言するような立場にはないんだ。

『あのさ、どうせ俺と音楽の話するならさあ、もっと生きた音楽の話しろよ』

 ああ、多分、チョンボの意見は俺が思っている以上に正しいんだ。俺の音楽の話は単なる評論家の言葉に過ぎない。ロバート・フリップや坂本龍一が語るような音楽論の次元とは全く性質が異なるんだ。本当に黴の生えたような音楽論なんだな。生きた文学や生きた芸術を論じる者とは、恐らく表現者である必要があるんだ。作品という結果を出さない事にはどうやっても死んだ文化論にしかならない。俺の言葉や論法は音楽的と称される事もないだろう。音楽とはもっと心臓の鼓動や言葉の隙間から生まれる詩のようなものだ。作曲家が楽譜の上に書き込む編曲上のメモのような言葉、ああいう言葉だけが真に音楽における生きた言葉なんだ。自分の音楽を生み出すにはもっと音楽に塗れ、音楽鑑賞中にふいに浮かんでくる自分の音楽に心を奪われ、オーディオから流れる音楽から自分の作曲へと生活を変えていかなければいけないんだ。『ハートビート』と題された曲は世界中に幾つもある。その『ハートビート』と題された音楽は正確には心臓の鼓動だけをリズムの基調として作られている訳ではない。恐らく時計の針の音よりも、自分の生命のリズムへと帰り、一種の瞑想的な行為における心の宇宙の広がりを音楽で表現しようとしているんだろう。それは恐らく静寂をも音で表現しようとするような作業だろう。この俺の頭の中に今浮かんでいるような音が自分のサウンドの原形なのだろう。そのまま即興で歌を歌うなり、ものにした楽器に向かうなどして、この頭の中のフレーズやサウンドのイメージを膨らまし、仕上げれば良いんだ。アーティスト達は既存の音楽から音楽理論を組み立てる方法を知らないのか。俺達は何か飛んでもない勘違いをしているぞ。ずっと時代のどさくさみたいな怪しい肩書きで金儲けをしているんだ。俺はこの真実から決して目を逸らさないぞ。これは俺の人生に訪れた非常に重要な転機なのだ。俺はこれから本気でプロのミュージシャンを目指して生きなければいけないんだ。音楽ライターの仕事では決してアーティストやその作品を酷評する事はしまい。ライナーノーツとはアーティストへの愛を以てその作品を広く世に伝える仕事なのだ。バンド間の派閥の一員として他を批難するのもいけない。イングリッシュに肩入れして、アメリカンを酷評するのもいけない。俺達は音楽の宣伝マンなのだ。それこそが我々がライナーノーツを書く上で果たされた掟なのだ!学生の頃の俺には神のように尊敬し、崇拝するミュージシャン達がいた。俺は彼らへの愛故に音楽ライターの道を志し、その夢を現実したのだ。決して嫌いなアーティストを酷評するために音楽ライターを目指したのではない。それだけは神に誓って言える。憎しみではない。愛なのだ!

 俺はアパートメントの塗装の剥げかかった黒い階段をゆっくりと上ってゆく。帰ったら気分転換にAVを観よう。二○五号室のブザーを押す。中からは誰の返事もない。あいつ、本当に出ていったんだな。自分で鍵を開けて入るのか。

「ただいま!」

 新聞受けから夕刊を取り出す。金具が転がる音がする。何だろうと手に取ると、家の鍵ではないか。聡子の鍵だ。風呂も自分で湯を沸かして入る訳か。留守電確認しとこうか。俺は電気も点けずに家の中に入り、電話機の留守電を確かめる。

『三件です』

『守?帰ってきたんなら、一回家に電話しなさい』

 お母さんか。

『あなた?離婚届にサインしたら、こっちに送ってください。それじゃあ。電話はしてこないでね』

 聡子だ。

『ああ、聡子?岸本洋子です。今度中学の同窓会があるんだけど、出席するかしないかだけ教えてください』

 聡子の同級生からだ。

 俺は聡子の実家に電話をかける。

『はい、もしもし、三沢ですけれども』

「あのう、清高です」

『あら、守さん。聡子は今、電話に出たくないみたいなのよ。何か御用が御有りなんですか?』

『もしもし、何?』と聡子が険悪な口調で電話に出る。

「ああ、あのさあ、岸本洋子さんから電話が入ってて、中学の同窓会に出席するかしないか伝えてくれって。それとさ」

 あっ、切れた。ほんとに俺達終わりなのかなあ。俺は居間の電気を点ける。ソファーを回り込んでTVの前のソファーにどっかりと腰を下ろす。TVもある。あいつ、TVは持っていかなかったんだな。四畳半の部屋にあった本棚と本はしっかりと全部持ち出している。台所用品は全部ある。エレクトロニック・オーヴンもトースターもある。俺との思い出は一切いらないって訳か。寝室へと向かう。明かりの消えた寝室には夫婦のベッドがそのまま置いてある。聡子と愛子の洋服箪笥と愛子のベッドがない。レコードやオーディオはそのままだ。ベッドの掛け布団の上に仰向けで大の字に横たわる。天井を見つめる目から涙が零れる。目を瞑る。掛け布団を両脇から体に巻きつける。


 白昼の街中に板チョコを齧る少年達が大勢歩いている。子供達の間で板チョコを齧りながら歩くのが流行っているのか。よく見ると、少年達の眼が全部白目を剥いている!。周囲から白目を剥いた少年達が板チョコを齧りながら近寄ってくる。少年達が不気味な余り、近づきたくない。どの方向に逃げようにも、見渡す限り広範囲に亘って白目を剥いた少年達がいる。俺はたちまち少年達に取り巻かれる。その中の真正面にいる赤いTシャツにデニムの半ズボンを穿いた少年が、「チョコレイト食べる?」とミルクチョコレイトの板チョコを俺に差し出す。俺は震える声で、「ありがとう」と言うと、少年から板チョコを受け取る。俺は恐怖に震える手で包み紙と銀紙を剥がし、板チョコを齧る。

「そんなに恐がるなよ。チョコレイト美味しいだろ?」と板チョコをくれた白目の少年が口許に笑みを浮かべて言う。

「おっ、美味しいね。美味しいよ」

 大勢の少年達が一斉に喜びの声を上げて笑い出す。

 俺は目を覚まし、寝台の横のテーブルの上の時計を見る。もう深夜一時か。風呂でも沸かしながら、久々に音楽でも聴くか。バスタブは綺麗に掃除してある。湯の温度を確認しながら、白い湯気が立ち込める風呂場を出る。寝室のレコードラックのコレクションを眺める。

『あのさ、どうせ俺と音楽の話するならさあ、もっと生きた音楽の話しろよ』『言っとくけど、俺達のバンドの音楽を誰々風って説明する事は出来ないぞ』

 俺はアーティストへの愛の中に逃げ込み、チョンボの言葉から身を護る。リチャード・トンプソンのライヴ・アルバムをターンテーブルの上に置き、針を下ろして再生ボタンを押す。ターンテーブルが回転し始める。スピーカーからパチパチとレコードのノイズが鳴る。玄人好みの音楽と言うと、俺は必ずこのアルバムを連想する。ほんとに良いと思って聴いてるのかと言うと、その辺は怪しい。部屋の四方の端にある大きなスピーカー四つから、レコードの中の司会者がリチャード・トンプソンを紹介する。客席が一斉に沸く声がする。今でこそフェアポート・コンヴェンションのリード・ギターリストだと知っているけれど、買ったばかりの頃はほとんど誰も知らないアーティストのアルバムだと思っていた。このリチャード・トンプソンの輸入盤のライヴ・アルバムのレコードを聴く度に未知なる世界にのめり込み、何度も何度もわくわくしながら聴き込んでいた時期がある。学生の頃の俺は帯と歌詞対訳とライナーノーツが付いている事に拘る国内盤の中古レコードのコレクターだった。当時の俺が輸入盤を買う事はほとんどなかった。八〇〇枚以上あるコレクションの中でも、輸入盤のレコードは一〇枚かそこらしかない。確か俺はフェアポート・コンヴェンションのレコードも一枚しか持っていない。それはリチャード・トンプソンのライヴ・アルバムと同時に買った輸入盤である。

 オーディオの音量を下げる。レコードを流したまま風呂場に向かう。風呂から出てきて部屋の中が静まり返っているのが大の苦手だ。風呂場で髪をシャンプーで洗っている時など、誰か後ろに立っているような気がし、風呂に入る度に恐怖に怯える。一人暮らしで家の風呂に入るにはもっとハード・ボイルド小説の主人公のように、落ち着いて風呂に入れなければいけない。今日ぐらいのんびりと風呂に入ろうか。足の方から順々に上に向かって湯をかけていく。ちんぽことケツの穴と腋の下を石鹸をつけた手で洗う。そこで一端ざぶんと湯船に浸かる。誰もいない家の中であるから、物音がしたら、それは大事だ。物音なんてしない。する訳がない。する訳がないだろ!ゆっくりと風呂に浸かろうだなんて、本当に自分らしくない事を思ったものだ。手早く髪と顔と体を洗って、さっさと風呂場を出よう。髪と顔を洗い、糸瓜手拭いに石鹸水をつけ、手早く体を洗う。風呂場から出る。手早く髪と体を拭く。タオルを持って寝室に駆け込む。聡子がいない家ならば、これからは音楽が鳴っている寝室で心を落ち着けねばならない。あっ!寝室の暖房を点け忘れてた!俺は暖房を点ける。よく体を拭く。裸でベッドの布団の上に寝転がる。両脇から掴んだ布団を体に巻きつける。これで良い。こんな時間じゃオーディオの音も小さくしかかけられない。リチャード・トンプソンの音楽は心が温まって良い。やっぱり、これは名盤だろう。あがた森魚の『永遠の遠国の歌』の編集版でもかけて、『誰も僕の絵を描けないだろう』でも歌うかな。そうだそうだ。古本屋で良いもん買ってきてるじゃねえか。俺はベッドから出て下着と寝巻きを着る。『吉永美雪』か。なかなか綺麗な顔してるな。居間に行って観るか。しばらく抜いてなかったしなあ。買ってきたAVを居間のヴィデオ・デッキに入れ、リモコンで再生する。素早く台所に行き、『コーク』を持って居間に戻る。おお、こんな可愛い子がねえ。贅沢贅沢。ちり紙二枚用意して。あああ、これは堪らない。良い感じになってきたなあ。いやっ!とか、止めて!とか、厭なヴィデオだな。気持ち良い、気持ち良いだろ。どうしようかな。不快だから消すか。聡子おおおおお!・・・・はあ。行ったな。ちり紙をもう二枚。さあ!便所にちり紙を捨てに行くか!

『さようなら、我が精子よ!』と心の中で精子にお別れを言い、便器の中に丸めたちり紙を放り込む。放り込んだちり紙目がけて小便をする。ベッドの上で本でも読むか。そしたらまた眠くなるだろう。洗面所に寄り、石鹸でもう一回手を洗う。買ってきた本の入った紙袋をベッドの上に放る。続いて自分もベッドに横になる。一冊ものの絵の上手い見知らぬ漫画家の劇画一冊と、自費出版らしき詩集一冊の中から、先ずは劇画を読み始める。この作家は絵が上手いな。絵の上手い漫画は悪趣味な話が多い。この人はなかなか綺麗な話を書く。この人、基本的に詩人だな。話が詩的で、その上絵も上手い。最近、ぎっちりとプロットを組んだ劇画調の絵の大作は読まなくなった。性描写や暴力的な場面や殺人を犯すエピソードが必ず入るからだ。高校生の時に大友克洋を読んで以来、小説みたな単巻長編漫画を読むのが好きになった。一冊ものには短編集が多い。漫画の短編作品は何か物足りない。漫画の短編はまだまだ次元が低い。どれもこれも大長編では息苦しくなる。良質な短編作品を沢山描く漫画家に出会いたい。漫画は出版社が有名でなくとも、作家が無名であっても、基本的には絵で見せる表現媒体だから、絵を観るだけで作品の傾向が判る。買おうとする作品に検討が付け易いのだ。その上価格が安いから楽に手が伸びる。古本なら尚更買い求め易い。俺は古本好きな人間が好きだ。聡子がなあ、古本が嫌いなんだよ。

 劇画を読み終え、洗面所に歯を磨きに行く。俺は鏡の前で歯を磨きながら自分の顔にうっとりと見惚れる。この似てき方はやばいよな。ほとんどデイヴィッド・ボウイそのものだよ。

 リチャード・トンプソンのライヴ・アルバムをターンテーブルの上に置いたまま、電気を消してベッドに入る。明日の朝は何を食うかな。明日は職場に挨拶しに行かないといけない。仕事の方は多分何とかなるだろう。素直に頭を下げて、また復帰させてもらえば良いのだ。ああ!お母さんに電話してないわ!。まあ、良いか。

 

 代々木公園に両親とピクニックに来ている。俺は芝生の上に仰向けに寝転がり、母の作ったお握りや玉子焼きを食べている。空が高い。その上ぐるぐると回転している。目が疲れるので横向きになる。離れた所に敷物の上に座った別の家族連れがいる。女の子一人の子連れである。女の子のお母さんらしき女性の白い下着がスカートの隙間から見える。旦那は結構な男前だ。あの人、良い女だな。彼女の白い下着をずっと見ていたい。ああ、抜きてえなあ。近くに自分の両親がいて、周りにも人が一杯いる。俺は俯せになり、周囲に判らないように腰を動かす。ああ、手でしてえ。イキそうでいかない。

 ああ、こりゃあ、夢だな。何だ?もう陽が出てるのか。あの子、愛子か。多分、あの白い下着のお母さんは聡子だろう。じゃあ、あの男前の亭主は誰だ?俺か?俺なのか。あれじゃあ、俺が俺に負けてるような世界だ。変な夢だ。さあ!起きるか!

 今日は会社にお詫びしに行かないといけないんだ。一発抜くか。朝立ちでするのは楽だ。あの聡子らしき白い下着の女性をネタにしよう。あああ。ちり紙二枚。日本女性の白い下着は本当に清らかだ。堪らなく可愛い。日本男児はあの清らかな下着を脱がしてヤッちゃうんだから凄い。ああ、何て可憐な下着なんだろう。じっと見つめていたい。鼻先に押し当てて匂いを嗅ぎたい。下着の下の割れ目なんて想像力に乏しい奴が好むものだ。あの下着だけで十分にイクだろう。オッパイなんて見えなくていいのだ。白いブラウスの背に薄っすらとブラジャーの紐が透けて見えれば、それだけでそそるではないか!厚手のスカートにパンティーの食い込みラインが見えれば、それだけでビンビンに反応するではないか!おお!イッたあ・・・・。ちり紙をもう二枚。あの下着だけでこんなに溢れるんだ。俺は丸めたちり紙を持ってベッドから出る。便器の中に丸めたちり紙を捨てる。

『寂しいけれど、お別れだな。元気でな』

 俺は便器に捨てたちり紙目がけて小便をする。何故俺は精子の入ったちり紙目がけて小便をするのだろう。昔から精子を拭いたちり紙に小便をかけるのが不快なのだ。精子とは赤ちゃんの素なのだ。そう考えながら、ちり紙に小便をかける。ちり紙と一緒に水を流す。洗面所で再び手を石鹸で洗う。再び石鹸を手につけて洗顔する。続いて歯磨きをして髭を剃る。台所に向かう。あれっ!今日起きる時目覚ましかけてないぞ!何時かな?俺は寝室に戻る。寝室のサイドテーブルの上の時計で時間を確かめる。六時か。何とか間に合う。少し早いくらいだ。朝飯どうしようかな。とりあえず台所見てみよう。

 パンもある。御飯も炊いてある。味噌汁は・・・・、味噌汁はないか。ないよなあ。ある訳ねえよ。うん。ない。ないんだよ。俺は台所をうろうろして食べ物を探す。冷蔵庫の中はと。卵と納豆があるのか。じゃあ、七味もあるかな。それに長ネギを刻んだのがあれば、納豆生卵掛け御飯だけでも結構なスタミナがつくんだよな。あっ、長ネギ刻んだのが入ってる!良し!丼で食うか!卵を掻き混ぜる器はと。あっ!ダイニングテーブルの上に置いてあるじゃねえか!

「よしよしよし。で、丼はと・・・・」

 ああ!丼もテーブルの上に伏せて置いてある!何だよなあ、あいつ!何でも用意していてくれて・・・・。俺の目から涙が零れる。朝食の特性生卵掛け御飯って、独身の時以来久しぶりに食うな。納豆を掻き混ぜる。納豆の白い発泡スチロールの容器に醤油と練り和辛子と七味唐辛子を入れて混ぜる。納豆を生卵を掻き混ぜた器に入れる。そいつをお茶碗に盛った御飯の上にかける。

「いただきまあす」と胸の前で合掌して言う。美味い!この適量の醤油加減!このシンプルさでこれだけの美味さが味わえるんだから、一度外人に食わしてやりたい。

 使った食器を台所の流しに運ぶ。洗剤をつけたスポンジで手早く食器を洗う。水切り籠に洗った食器を伏せておく。

 寝室で背広に着替える。通勤鞄を持って玄関で革靴を履く。玄関のドアーを開けて共用廊下に出る。玄関のドアーの鍵を閉める。スラックスの右のポケットに家の鍵を入れる。あいつ、鍵も置いていったんだよな。いない間来ても中に入れないじゃねえか。あっ、牛乳飲み忘れてた!コンヴィニエンス・ストアに寄って買うか。

 俺はコンヴィエンス・ストアで五〇〇ミリリットル入りの紙パックの牛乳を買う。俺はその店の前で牛乳をラッパ飲みする。ゆっくりと味わって飲む。牛乳美味えよ!あっ!服に零れた。染みになんなきゃ良いんだけどなあ。ハンカチーフはと。ああ!ハンカチーフ、新しいのと交換してねえよ!洗濯は何時やるかな。独身の時みてえに起きがけに洗濯機回して、洗面と歯磨きと髭剃りと飯食い終わったら、洗濯物を干せばいいか。ああ、牛乳、染みにはなんなかったな。良かった良かった。

『神様仏様、聡子が早く帰ってきますように!今度は必ず聡子を幸せにしてみせます!愛子のための善き父親になります!アーメン。南無釈迦牟尼仏』

 JR蒲田駅のプラットフォームに停車している蒲田駅発東京駅方面行きのJR京浜東北線に乗車する。座席に腰かけたいつかの高校時代の同級生が俺を見ている。今度は俺も手なんて振らない。案の定奴は自分からは近づきも話しかける事も出来ない。昨日買った本の中の自費出版らしき詩集を鞄の中から出す。満員電車の中で立って詩集を読む。俺は小説でも詩でも随筆でも平仮名が俳句のようにふやけた感じのする文章が大の苦手だ。この詩集にはそれがない。はっきりとした判りやすい表現で、真理に適った宗教的な思想を悠々閑々と詠っている。彼の詩を読むと信仰生活者の幸せが何となく窺える。とても読み易い詩集で、作品世界に読み手を深く引き込む力がある。

 JR新橋駅までに詩集の三分の一を読む。本を読んでいる間に、何時の間にか奴は下車していた。確か品川駅で降りる奴だったな。ああいう男に興味を以て付き合うと、将来自分のためになるのかな。毛嫌いする事なく、誰とでも付き合うのが結婚前、就職前の俺の長所だった。あいつは誰に似ているだろう。誰に似て何が気に喰わないのか。正直、俺はあんなに人間付き合いや話の運びの下手な人間を他に知らない。人間には相性というものがある。付き合えば、疲れるだけの人間もいる。奴は俺一人友となれば、大いに満足するに違いない。いや、満足しないのかな。奴は相手との話の食い違いが一切我慢ならない。話の食い違う人間を許せない。奴はきっと友を探し求めているのだろう。どれもこれも気に喰わないとしても、彼はきっと心の底から友を欲しがっている筈だ。閉じかけたような小さな小さな心で、彼は人に合わせるという事を全く知らずに生きてきた。そうか!彼は仮に俺が友となろうとも、何れはたった一人の友であるこの俺さえも嫌い、疎遠になっていくのか。きっと人付き合いが余り重要でない人生なのだろう。

 俺は会社の建物の中に気を引き締めて入っていく。何とお詫びしたら良いのか判らない。社長が今日も一足先に会社に来ている。社長は今、机に座って書類に目を通している。

「おはようごさいます!」

「おお!清高君!もう会社に出てきたか!」

「御迷惑おかけして済みません。また会社に復帰させて戴けないでしょうか?自分のやった事は大いに反省しています。女房にも出ていかれました。どうか、もう一度私にチャンスをください!」

「警察沙汰になって、何日か拘留させられたんだってな。何やらかしたんだい?」

「あの、それを話せば長くなりますが、良いでしょうか?」

「良いよ良いよ。話してみなさい」

「家の真ん前で主婦三人、幼児三人が撲殺された事件があった朝、私は酔い潰れて素っ裸で殺人現場付近の公園で寝ていたんです。寝て起きたら霧が立ち込めていまして、何となく楽しそうな子供の声がする方へとふらふらあと近づいていったんです。その時、その霧の中に犯人も一緒にいたらしく、霧の中で撲殺事件が起こったんです。私は撲殺された被害者の返り血を体に浴びて、要するに、それ程近くに犯人もいた訳です。私は霧の中で撲殺された死体を見て気が動転し、霧が晴れた後もずっと殺人現場付近をうろうろと行ったり来たりしていたんです。その件で警察に連行されて、警察で尋問を受けたんですけど、その結果、警察は私が無罪だと判り、私を釈放したんです。私は無実でしたからね。その後、私は自分は殺人を犯すような人間じゃないんだと酷い屈辱感に苛まれ、翌日、本当の自分を表現するためにJR東京駅から新橋駅までを素っ裸で走り抜ける事にしたんです。結局、JR新橋駅に辿りつく前に警察に捕まってしまったんですけれど、再び警察に連行され、今度は公然わいせつ罪で拘留されてしまったんです。そればっかりは本当に済みませんでした!二度と同じ過ちは繰り返しませんから、どうかもう一度会社に復帰させてください!」

「おいおいおい!そんなのいいよ。君の代わりは家にはいないんだよ。まあ、家はこれでも地味ながらロックの雑誌を扱う出版社なんだ。ロック・スピリットを感じさせる行為であれば何でもありなんだよ。家はそれしきの事では大切な社員を首にするような事はしないんだ」

「ありがとうございます!」

「良し!良いよ!君は君らしい行動を取ったんだ。君はカッコいいんだぞ!」

「ありがとうございます!」「良し!良いぞ!」

 俺はまた音楽ライターとして同じ音楽雑誌の出版社で働く事になった。いざ会社に来て社長を目にしたら、てっきり会社から首にされるものと気持ちが落ち込んでしまった。それが継続採用と聞いた途端、ロック系の会社ってこれだから良いなあと、改めて自分の勤める会社を見直した。他のライター達も大いに俺の話にウケてくれた。


 今日も仕事を終えた。プラットフォームで数人のサラリーマンと一緒に電車を待つ。前にいる五〇代ぐらいの禿頭のサラリーマンがまた頻りに頷くように頭を動かしている。

 蒲田駅方面行きのJR京浜東北線が轟音と共にプラットフォームに入ってくる。入って直ぐ左手前端のシートが空いている。俺はそこに腰を下ろす。向かいに学生のカップルが座っている。赤いミニスカートを穿いた女の方が真向かいに座っている。女は彼氏の方を向いて楽しそうに話をしている。その女が笑う瞬間、合わせた両膝頭の隙間が少し開く。俺は目を瞑る。寝ているふりをしながら、少しずつ腰をずる。向かいの女のパンツを見ようと、ふいに何かを思い出したように目を開ける。女の両膝頭はぴったりと合わさっている。視線を上に上げると、カップルが揃って俺の顔を見ている。俺は何食わぬ顔で再び目を瞑る。俺はパンツを見る事を諦めて眠る事にする。


 俺は終点JR蒲田駅で下車して階段を上る。駅ビルを西口から出る。二つあるアーケイドの内の一つを選んで通り抜ける。更に住宅街に向かう。今夜も外食にしないと夕食にありつけないのか。俺はアーケイドに引き返す。食べたい物が見つからない。蒲田の駅ビルまで戻って中華料理屋に入る。若い女の店員に、「満席なので少しお待ちください」と言われる。俺は中華料理を諦め、洋食屋に入る。丁度俺独り座れる二人掛けのテーブルが空いている。俺はそこに腰を下ろす。若い女の店員が直ぐに俺の注文を取りに来る。

「カツカレーください」

「はい。カツカレーですね。ご注文は以上で宜しいでしょうか?」

「はい」

 店員が去る。俺は鞄から読みかけの詩集を出して読む。地味な生活だな。何かやらないといけない。何をすれば良いのか。考えても何も思いつかない。ずっと聡子と愛子のためだけに生きてきた。それが息抜きで遊びでもあった。女遊び・・・・。女は聡子一人で十分満足している。その聡子が離婚の話を持ち出したのだ。俺一人生きる事自体は何て事ない。独身の頃から一人暮らしはしていた。料理だって、洗濯だって、買い物だって、何でも自分で出来る。栄養管理だって、健康管理だって、全部自分で出来る。

 『ラーク』を一本パッケイジから抓み出して口に銜え、火を点ける。テーブルの端の銀色の灰皿を手前に引き寄せる。窓際の席なので、左側にある窓から何気なく蒲田の街を見下ろす。右斜め前の四人掛けのテーブルに、五十嵐沙織という高校時代のクラスメイトが両親らしき夫婦と兄弟らしき男一人と一緒に夕食を食べている。学生の頃から可愛いとは思っていた。彼女には一回も話しかけた事がない。彼女は蒲田辺りでは一番よく見かける女の子の知り合いだ。見かける度に家族と一緒にいる。学校の外で何度彼女を見かけたかしれない。俺は彼女から窓の外に視線を逸らし、煙草を吹かす。指に煙草を挟み、再び詩集を読み始める。ああ、五十嵐さん、ミニスカート穿いてるよ。机で影になってる。斜めからだからパンツは見えない。まあ、見えない訳だ。五十嵐さん、脚細いなあ。あっ!五十嵐さん、俺の方見た!俺の事憶えてるだろうか。あっ、また見た。軽く会釈する。彼女も微笑んで会釈する。やっぱり、五十嵐さんは可愛いよ。エビフライ食べてんのか。五十嵐さんの舌、真っ赤だな。あんなに綺麗な赤い舌は見た事ない。聡子の舌の色は普通の赤なんだよな。あっ、五十嵐さんが席を立って何処かに行くぞ。ああ、トイレか。ちょっと失礼、レストルームに行ってまいりますかな。トイレでするのって、女はどう思うんだろう。聡子とはトイレでした事はない。ホーリー・セックス、ホーリー・セックスって、結婚した当時、俺、よく繰り返し言ってたな。女の人がおしっこしてるところって可愛いだろうな。俺は聡子に対しては、なるべく紳士でいようとしてきた。俺は元々親の前でもオナラ一つしない根っからのカッコつけタイプなのだ。聡子の前となると、最初の頃はもっと距離感を保っていた。俺は聡子が女心で可愛いと思えないような事は一切しないようにしてきた。それがその内、段々と子供みたいに甘えるようになっていくんだよな。五十嵐さんは昔から白穿いてそうな感じがするんだよ。日本人女性の白の下着は独特な色気がある。元々下着を穿かない民族が選んだ下着の色だけあって、日本人女性の下着の白には特別な清潔感がある。ああ、五十嵐さんって処女かもしれないなあ。他に知り合いは来てねえよな。周りを見回しても、知った顔はない。ああ、煙草止めてえなあ。水でも飲むか。テーブルに置かれたグラスを手に取り、氷の入った冷水を口に含む。煙草より水の方が美味えよ。煙草の火を灰皿で揉み消す。食事をする席に吸殻の入った灰皿があるのって嫌なもんだな。俺、今、一日四、五本は吹かすかな。喫煙は肺や胃の癌の原因になる。俺は肺や胃は疎か、喉にも煙を通さない。煙草は別に肺や胃や喉で味わえるものではない。口の中にニコチンを補給して味わうものだ。

 働いても働いても自分のためには大した物は買えない。俺は本もレコードも買いたきゃ一生中古品で良い。他に欲しいものなんてない。家族が幸せに暮らせる事が何よりも大切なのだ。愛子を良い学校に入れるためにはお金がいる。俺達夫婦は子供ためには何でもしてやれる。俺達はそんな家族愛で繋がっているのだ。俺は再び詩集を読み始める。この人、修行する人なのか。詩聖って事か。俺もお釈迦様のように精神修行の成果を収めたい。ずっと先延ばしにしてきた事だ。どうやって修行を始めるんだろう。現代にも修行の仕方を本当に教えられる聖者がいるのか。

「お待たせしました。カツカレーで宜しいですね?」

「はい。どうも」

 やっと注文の品がきた。五十嵐さんも席に戻ってきた。あっ、もう五十嵐さん達帰るのか。五十嵐さんが俺を見て笑顔で会釈する。俺も五十嵐さんに軽く頭を下げる。五十嵐さん、可愛いよ!家に帰ったら、また音楽を聴こう。学生の時みたいに通勤の行き帰りに音楽を聴こうかな。結婚してからレコード・コレクションは一枚も増えていない。八〇〇枚あれば、趣味で聴く音楽としては十分に満足出来る。学生の時に余り聴き込まなかったアルバムが沢山ある。もうCDの時代なんだな。イングランドの勢力があるからレコードがなくなる心配はない。確かソニーがレコードを発売しなくなって、土屋昌巳のニュー・アルバム欲しさにCDを買い始めたんだ。歴史ある文化を簡単に滅ぼすと、何時か必ず罰が当たるぞ!ううん、美味いじゃん。不味いカレーなんて鍋の中で焦がしたカレー以外食った事ないか。このカツカレーは美味い!

 結婚前は袋菓子を毎日一袋食べていた。結婚してからは聡子に合わせた間食を少しするだけだ。袋菓子を二袋ずつ食べるようになると、ぶくぶくっと太るんだよな。嗜好品は煙草だけで十分だ。食い物に金をかけるぐらいなら、中古レコードでも買った方がずっと良い。帰りにまた中古レコード屋に寄ってみるか。木幡とまた遇うかもしれない。コーヒー飲みたい気分だけど、コンヴィエンス・ストアに着くまで我慢して、大好きなコーヒー牛乳を飲もう。一人で食う飯って寂しいなあ。恋人なんて欲しくないけれど、妻や娘には何としても帰ってきてもらいたい。俺の一番大切な者は家族なんだ。人間関係を深める事が一番楽しいじゃないか。音楽鑑賞や読書なんて単なる話題集めだよ。たこ焼き食いてえなあ。家に帰れば、たこ焼きぐらい自分で作れるか。何でも出来合いのもんで済ませたり、外食ばっかりしてちゃダメだ。仕事が終わったら、これからは自由に時間を使えるんだ。料理でもしようかな。何でも多めに作っておくのが一人暮らしのコツだ。

 会計を済ませて店を出る。また中古レコード屋に行く。

 中古レコード屋に入る。また木幡が来てるよ!

「よう!」

「ああ、何だっけ、名前?」と木幡がまた俺の名前を思い出せず、大して困りもせずに訊く。

「清高」

「ああ、そうそう清高君だ」

「木幡君、毎日ここに来てるの?」

「毎日じゃない。他の店にも方々行くからね」

「木幡君はサンプル盤も買うの?」

「買うよ」

「どうりでそんなに買う物がある訳だ。サンプル盤買う事にするだけで中古レコード屋での収穫は全然違ってくるからね」

「うん。そうそう」

 あっさりとした人だ。木幡には混乱したところがない。

「俺はサンプル盤はダメなんだよ」

 木幡からの返事はない。木幡には大田なんかよりずっと冷ややかな面がある。人って、この人には余り関係ないのかな。

「木幡君、九〇年代の音楽はよく聴くの?」

「聴くよ」

 そうだろうな。

「新しい音楽はリアル・タイムを経験出来るから良いよね。思い出は大切だからね」

 木幡は答えない。

「木幡君はどうやら相当レコード買ってる人みたいだね。何枚ぐらいアルバム持ってるの?」

「レコードとCD合わせて七〇〇〇枚ぐらいかな」

「どうりで!物凄い情報量だな」

「持ってる人はもっと持ってるよ」

「うん、そうだろうね」

「でも、清高君も仕事ではよく聴くんでしょ?」

「うん。でも、仕事は仕事。プライヴェイトで買い集めたレコードは八〇〇枚一寸だよ」

「たった?」

「うん、たった八〇〇枚一寸」

「CDは何枚ぐらい持ってるの?」

「CDは二〇〇〇枚以上あるよ」

「音楽の聴き方は俺より深いかもね。枚数聴けば良いってもんでもないし、決まったアーティストのアルバムを全部揃えたら、それでお終いってもんでもない」

 やっぱり、この人、ちゃんと俺の好きな事も言ってくれるな。物凄く嬉しい。

「今日はもう飯食ったの?」

「ああ、食ったよ。飯、まだなの?」

「駅ビルでカツカレー食ってきた」

「俺は反対っかわで掛蕎麦食ったよ。じゃあ、一寸これ買ってくるわ」

 そうそう。飯は掛蕎麦に抑え、中古レコードやCDに有り金を費やす。これがやはり基本なんだな。ほう!木幡君もCDを買ってるな。もう、やっぱり、CDの時代なんだな。SPもこうやって消えていったのかな。何とも複雑な気持ちがする。聡子、どうしてるかな。俺はもう聡子や愛子なしでは生きていけないよ。音楽鑑賞や読書だけで過ごす生活なんて寂し過ぎるよ。生身の人間ととことん付き合う事なしに人生の深みになんて到底達するものではない。と言いながら、俺の頭の中には中古レコードを買う事しかないんだよな。CDの方が圧倒的に品揃えが良いな。世の中の変化って、ただ傍観してると強引に感じるな。時代の波に乗らないといけないんだ。CDで再発されたアルバムの中古価格の安い事ったらない。確かに中古CDには魅力がある。

「それじゃあ、清高君!」

「ああ、もう帰るの?じゃあね!」

 木幡が去ってゆく。今更、買いたい中古レコードなんてないよ。俺の中古レコードに対する想いは八〇年代に置き去りにしてしまったんだ。CDなら難なく欲しいアルバムが揃う。聡子は音楽の話が出来ない。俺は本の話が出来ない。どちらかが歩み寄れば、話題の幅も広がるのに、どちらもそれをしてこなかった。自分の時間をしっかりと確保していたのは聡子の方だ。俺は家族との事だけに重点を置き、家に帰ると音楽すら聴かない日もあった。人間的な魅力。それはやはり、男ならば仕事だよ。生きるとは何をして働くかだ。生きるとは働く事なんだ。いやあ、それなら俺も勤め人など早く辞めて、さっさと自分の音楽作りに時間を費やすべきだ。

 俺はユーロ・ロック・シリーズの日本盤CDを三枚あるだけ買う。俺は店を出る。駅ビルを通って反対側の西口に出る。住宅街に向かう。途中、コーヒー牛乳を買いにコンヴィエンス・ストアに寄る。コンヴィエンス・ストアの前でコーヒー牛乳をストローで飲み干す。。

 アパートメントの二階の一番奥の二○五号室の前に来て、ブザーを押す。玄関前の柵に寄りかかる。幾ら待っても誰一人出てきやしない。俺は玄関のドアーのノブを乱暴に回す。ドアーを叩きながら、「おおおい!おおおい!うえおわおおお!うりゃあああ!うおおお!うおおお!」と喚く。

 今日もまた自分で家の鍵を開ける。玄関に入って直ぐ右に在る寝室の電気を点ける。背広を脱ぐ。オーディオの電源を点ける。またリチャード・トンプソンのライヴ・アルバムをかける。ああ、リチャード・トンプソンが演奏しに来るパブに行って、外人とふざけながら、酒でも飲んで、生の音楽を聴きてえなあ。このアルバムの良さが本当に判るまでは他のは聴けない。俺は音楽を流したまま風呂に入る用意をする。全然集中してアルバムを聴けない。シャワーで軽くバスタブを洗い流す。湯加減を確認してバスタブに湯を溜める。一端風呂場を出て母親に電話をする。

「ああ、お母さん?何か用あんの?昨日、留守電入ってたからかけたんだけど」

『あんたねえ、聡子さん、別れるって言ってたわよ!あんた!何してるの!警察沙汰なんか起こして!その前の日の事は可哀想だってお母さんも思ったけど、何よ!裸で銀座なんか走り回ったりして!お母さん、もう情けないわよ(涙)』

「前の日の事に関係してやった事なんだよ。本当の自分を知って欲しくてさ。俺、人殺しなんかするような人間じゃないんだよ」

『そんなの判ってるわよ。お母さんだって気の毒に思ったわよ。聡子さんとは別れちゃダメよ!でも、少しそっとしておいてあげなさいね』

「うん。判った。それじゃあ、切るよ!」

『会社には行ったの?』

「行ったよ。社長も皆ウケてた。首にはなってない」

『良い会社じゃない。社長さんにちゃんとお詫びしたの?』

「したよ」

『ほんとにもう、それじゃあね!あなた、自分の事は自分で出来るわよね?』

「うん。出来る。じゃあ、切るよ!」

『しつこく電話なんかしないで、焦らず、ゆっくり、聡子さんが帰ってくるのを待ちなさいよ!良いわね!それじゃあね!』

 母は電話を切る。俺もゆっくりと受話器を置く。親のところに帰ろうか。いや、家にいないといけない。ここで聡子を待つんだ。寝室のベッドに腰かける。リチャード・トンプソンのライヴ・アルバムを聴く。

 風呂に湯が溜まる。俺はラジカセを脱衣所兼洗面所に置く。ラジカセで音を絶やさないようにして風呂に入るのだ。これで大丈夫だ。静まり返る心配はもうない。いつものようにポコチンとケツの穴と腋の下を石鹸で洗ってから、ざぶんと湯船に入る。FMに合わせたラジカセから音楽が流れている。九〇年代の音楽だろう。俺は目を瞑る。湯にじっくりと浸かって温まる。聡子・・・・。何だか泣けてくるなあ。バスタブを出て、髪と顔と体を洗う。やっぱりダメだ!俺は急いで髪と顔を洗い、糸瓜手拭いに石鹸水をつけて手早く体を洗う。慌しく風呂場を出る。手早く髪と体を拭く。素っ裸で脱衣所を出る。

 寝室に駆け込む。レコードは止まっている。脱衣所から音楽が聴こえるから静けさは防いでいる。下着とパジャマを着る。綿入れを羽織る。

 流石に一日に何度も同じアルバムを繰り返し聴くのは過ぎた贅沢だ。もっと有効に時間を使って、色んな音楽を楽しまなければいけない。リチャード・トンプソンのライヴ・アルバムをザ・キュアーの『ヘッド・オン・ザ・ドアー』に換える。全然音楽的統一感のない流れだ。聴き方が全く昔から変わっていない。この八〇〇枚ちょいのレコード・コレクションはこんな風にして聴かれてきたのだ。

 ロックというのは多様な音楽である。レコードやCDを聴いていくと様々な音楽との出会いがある。ロックにはクラシック、ブルーズ、カントリー・アンド・ウェスターン、ジャズ、フュージョン、環境音楽、ワールド・ミュージックと様々な音楽と融合してきた歴史がある。実験的なロックもあれば、文学的で詩的な歌詞に依る芸術的なロックもある。煩いだけのサウンドと乱暴な発声で歌われるロックにも、ロックの歴史においては非常に重要な価値がある。ロックは深い。新しい音楽を聴き続けていれば、より深く音楽の歴史が判ってくる。よく言われるのは、ロックは何処に行き着くのかという事だ。ロックは次世代のロック・ミュージシャンさえ現われれば、この世の終わりまでも続く終わりなき芸術である。そんな事はロックに限った事ではない。現実にはどんな音楽にも後継者は現われる。音楽をもうこれで良いと思ったり、詰まらないと言い出す人達は必ず音楽を再び聴くようになる。未来において一〇年先二〇年先を行っていたと称される音楽は常に出てくる。そういう音楽は音楽愛好家以外には難解な音楽として受け止められる。音楽の中には文学がある。歌詞の有無に関わらず、器楽にでさえ文学はある。俺は本来文学にはほとんど通じていない。読書好きな妻とでさえ文学に関しては全く話が出来ない。俺は仕事柄音楽の中の文学という特殊な文学領域に関係してきた。そのため音楽の中の文学というものがとても大切な位置を占めている。

 洗面所で歯磨きをする。鏡に映った自分の顔を見る。俺の顔は更にデイヴィッド・ボウイに似てきている。まだ誰も俺の顔がデイヴィッド・ボウイに似てくるのを口にした者はない。居間や台所の電気を消す。寝室の電気を消す。ベッドに入る。目を閉じる。聡子は今夜も俺の隣にはいない。


 夕焼けの陽射しが遠くの曲がり角から差し込む古い病院か学校の廊下に蒲団を敷いて寝ている。陽に焼けた顔の女子中学生が現われ、俺の蒲団の近くの壁際にしゃがみ込む。パンツが見えそうで見えない。俺は女の子の膝に手を伸ばし、「丈夫そうな膝だね」と言って女の子の膝に触る。女の子は明るい声で、「嫌だあ!ヤラシイ!」と言って、自分の膝から俺の手を払う。俺は寝そべった体勢で飛びつくように女の子の両足を掴み、女の子の両脚を広げて壁に倒す。少女らしい白い綿のパンティーを穿いている。可愛いなあ。俺は女の子の両脚を自分の方に引っ張り、蒲団の中に女の子を引き摺り込む。俺は手早く女の子のパンティーを脱がす。女の子は必死に抵抗する。俺は右手で女の子のクリトリスに触れ、女の子の膣の中に左手の指を入れる。女の子は蒲団から出ようともがいている。激しく指を出し入れし、女の子を快感に引き込む。俺は背を向けた女の子の胸を揉み、自分の上に載せると、女の子の股の中にモノを挿入する。この女の子の力は男に抵抗するには余りに弱過ぎる。こっちのしたい放題に自分の体を弄ばれるだけだ。女の子の喘ぎ声が可愛らしい。たっぷりと女の子の体に大人の奉仕的な愛の気持ちよさを覚えさせる。一度体で覚えたら、その後は何度も俺としたがるだろう。体を雁字搦めにして、ゆっくりとピストン運動を繰り返す。

「いやっ、止めて!」と女の子がもがきながら色っぽい声で言う。

「気持ちの良い事は良い事だろ」

 女の子の抵抗力の弱さが可愛らしい。

「ちゃんと女に目覚めさせてやるからな」

 目覚まし時計の音がする。夢か。目覚めると、目覚ましを消さないで、先ずベッドから起きる。この習慣が崩れたなら、どんな人間でも時刻通りの通勤通学が出来なくなる。これは或意味恐ろしい程に人間の怠惰と勤勉さとの境に自分の決め事として定められている。

 玄関の郵便受けから『朝日新聞』を取り出す。新聞をダイニングルームの食卓の上に置く。脱衣所に戻って洗濯機をセットする。

 ダイニングルームに入って食器棚から皿を出す。皿の上に六枚切りの食パンを一枚用意する。食パンにマーガリンを塗り、ハムを乗せ、溶けるチーズを乗せてトースターに入れる。三分にセットして食パンを焼く。洗面所で洗面と歯磨きと髭剃りをする。

 焼き上がったトーストを皿に載せる。皿をダイニングテーブルの上に運ぶ。冷蔵庫から冷たい一リットル入りの紙のパックの牛乳を出す。犬の絵のついた白いマグに牛乳を入れる。食卓の席に座ると新聞にざっと目を通しながら、トーストを食べ、大好きな牛乳を味わって飲む。

 食器を台所の流しに置く。洗面所の洗濯機から洗濯物を出す。居間の窓を開けて洗濯物を干す。食器を洗剤をつけたスポンジで手早く洗う。水切り籠に洗った食器を伏せて置く。寝室で出勤服に着替える。洗面所に入る。クリーニング屋に持っていくワイト・シャツの入った紙袋を手に取る。寝室で洗い立てのハンカチーフと使い捨て懐炉をスラックスの右のポケットに入れる。玄関のドアーを開けて共用廊下に出る。玄関のドアーを閉めて鍵をする。いざ出勤!

公園を通って徒歩でJR蒲田駅に向かう。途中、クリーニング屋に寄って洗濯物を預ける。

 JR蒲田駅のプラットフォームに停車している蒲田駅発東京駅方面行きのJR京浜東北線に乗車する。座席に腰かけたいつかの高校時代の同級生がまた俺を見ている。あんなのは二度と相手にしない。


 いつものように出勤し、自分に任された仕事を始める。それが昨日の続きであろうと、新しく手を付け始めた仕事であろうと、いつもと変わりなく仕事を始められれば、それで良い。勤め人として仕事をこなすのにそれ以上の条件はいらない。

「清高君」と社長が俺を呼ぶ。

「はい」

「一寸良いかな?」

「はい」

「一寸非常階段の方に行って、煙草でも吸いながら話そう」

「はい・・・・」

 何か嫌な予感がする。何の話だろう。頭の中で妄想が渦巻く。オフィス内は禁煙で、喫煙は必ずこの非常階段のところでする。この勤務中の喫煙の規則に関しては社長さえも例外ではない。

 廊下の突き当たりで非常階段へのドアーを開ける。風が吹く冷たい外気に触れる。社長が黙って煙草に火を点ける。俺も同じように緊張しながら、『ラーク』を一本口に銜え、煙草の先端に火を点ける。

「あのね、今度家の会社からプログレの案内本を出そうと思ってるんだよ。ごめんな。何の話かと思ったろ」

「はい。何か、ヤバイ事したかなって(笑)」

「清高君の仕事の集大成にもなる記念本だよ」

「ああ!はい。嬉しいです」

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