夢見る自由人

天ノ川夢人

第1話

 一九九三年、冬。

 今日も仕事を終えた。通勤帰りの雑踏に交じる。最寄り駅のJR新橋駅へと向かう。吐く息は白い。黒い牛革のロング・コートのポケットに左手を入れる。使い捨て懐炉で手を温める。ぞくぞくする程寒い冬の夜空を前髪の間から見上げる。まだ五時だというのに、空はもうすっかり暗い。歩きながら薄荷入りのチューイング・ガムを包み紙から出し、口の中に入れる。甘味が全部搾り出されるまで機械的に早く噛む。舌を使い、噛んで丸めては膜のように口の中で広げる。甘味がなくなるまで何度もそれを繰り返す。噛み終えたチューイング・ガムを包み紙に入れる。さりげなく路上に落とす。背後にツァッと微かな乾いた音が聞こえる。歩きながら毛の手袋をした右手でワイト・シャツの胸ポケットの中の『ラーク』を一本パッケイジから抓み出す。『ラーク』を一本口に銜える。ロング・コートの左内側に緑色の百円ライターを持った右手を入れる。左掌で風除けをしながら、フィルターから空気を吸い込み、先端に火を点ける。

 駅周辺は人込みが頂点に達している。定期をコートの左内ポケットから出す。煙草を銜えたまま改札口を通る。真冬にスカートを穿いた女の脚など、男の俺としてはちっとも同情に値しない。女なんていっそ何も身に着けずに素っ裸で路上を歩いてくれりゃあ良いんだ。女の裸なんてどれだけ見ようと、もうこれで良いと満足する事はない。そもそも裸なんてものに満足に値するような内容など備わっていないのだ。

 蒲田駅方面行きのJR京浜東北線の乗り場へと階段を上っていく。忙しなく煙草を三服吸い込み、階段途中に煙草を捨てる。

 プラットフォームで数人のサラリーマンと一緒に電車を待つ。前にいる五〇代ぐらいの禿頭のサラリーマンが頻りに頷くように頭を動かしている。別にイヤフォンで音楽を聴いている訳ではない。癖なのだろう。

 蒲田駅方面行きのJR京浜東北線が轟音と共にプラットフォームに入ってくる。電車が停車する。電車の溜息みたいな音の後に自動扉が開く。一斉に人々が電車に乗り込む。

 入って直ぐ左手前の端に、ミニスカートを穿いた二〇代ぐらいの女が座っている。その左隣のシートが空いている。どうやらそのミニスカートの女は眠っているようだ。俺はその女の隣に腰を下ろす。

正面の窓ガラスで隣の女の顔を品定めする。なかなか良い女だ。俺は直接その女の方に顔を向け、寝顔を眺める。周囲の様子を窺い、「どんな夢見てるの?」と女の耳元に甘い声で囁く。「清とデートしてる・・・・」と女は可愛らしい声で寝言を言う。女は自分の寝言の声にはっとして目を覚ます。俺は前を向いて窓ガラスで女の様子を見ている。女はまた目を瞑って眠ろうとする。相当眠いのだろう。女が眠り込むのを正面の窓ガラスで確認し、俺はまた寝ている女に話しかける。

「セックス好き?」

 女は答えない。

「大きいの入れてあげようか?」

 そう言った途端、女は目を開け、きっと俺の顔を睨みつける。

「何ですか、そういうの!止めてくださいよ!」と女が周囲にまで聞こえるようなはっきりとした声で怒鳴りつける。何だ、起きてたのか・・・・。俺は少し動揺しながら前を向く。俺は恐ろしい現実から逸早く逃げるように目を瞑る。まだ睨んでるかな。凄く怖い顔してたよ。笑えば結構可愛い子だと思うんだけど・・・・。また寝てるかな。俺はそうっと目を開け、右隣を向く。女がまだ睨んでいる。俺はまた正面を向いて目を閉じる。眠っちゃおうかな。心臓がドキドキする。眠るか。


 品川駅で電車が停車する。扉が閉まる音で目を覚ます。右隣を見ると、先の女はもういない。

 俺は終点JR蒲田駅で下車して階段を上る。いつものように駅ビルを西口から出る。求人雑誌片手に屯する不法外国人労働者達の間を通り抜ける。二つあるアーケイドの内の一つを選んで通り抜ける。更に住宅街に向かう。

 俺の住むアパートメントの裏手には小さな公園がある。その公園の脇を通って先にある十字路を右折するか、公園に入って穴の開いた金網を潜るか、帰り方には二通りある。俺は勿論金網派だ。大人一人通れるぐらいの金網の穴を通り抜ける。白いタイル張りのアパートメントの一階には子供が日中遊んで放置したままの三輪車や玩具が散乱している。俺は所々錆びて塗装の剥げかかった黒い階段を上がる。一番奥の四つ目のドアーの前でブザーを押す。ドアーの向こうから明るい女の声が、「はああい!」と返事をする。俺は何も答えない。『二○五』と表示された部屋番号の下の表札には『』とある。まあ、何と言うか、俺の名前だ。一家の御主人様という訳だな。ぐわあ!はっ!はっ!はっ(笑)!

「どなたでしょう?」とドアーの向こうで女の声が訊く。俺は何も答えない。ドアーの前の策に凭れ、反対側の風景を見渡す。背後に

そっとドアーの鍵を開ける音が聞こえる。

「もう何よ!あなたじゃない!今、夕御飯の支度で忙しいのよ!鍵持ってるんだったら、自分で開けて入ってきたら良いじゃないの!」

 俺の女房だ。この女が俺のやる事を笑えない女なのだ。俺はキイキイ言ってくれる女をキイキイ言わせないでいるような宝の持ち腐れはしない。

「早く入ってよ」と女房の聡子が口調を和らげて言う。俺はゆっくりと振り返り、「母さん、僕、ずっとここで母さんが迎えに来るのを待ってたんですよ。僕、本当に寂しかったんです。僕、母さんは必ず帰ってくるって、ずっと信じて待っていたんです」と勝手に作った役を演じる。

「何が母さんよ!早く中に入って着替えて!忙しいんだから、あんまり手間かけさせないでよね」

 全く真面目な女だ。からかうには面白過ぎる程の真面目ぶりだ。俺がもう癖になるぐらい愛しているお気に入りの女房だ。俺は玄関に入り、ドアーを閉める。

「鍵かけておいてね!」と台所から女房が大声で言う。全く!そう言われたら、鍵なんて閉められないじゃないか!判ってない女だな。それじゃあ、言われた通りにしない方が面白過ぎるじゃないか!

 俺は鍵をかけずに家の中に入る。俺は玄関に入って直ぐ右にある六畳の寝室に入る。青い背広を脱ぐ。脱いだ背広をダブル・ベッドの上に脱ぎ捨てる。そうしておけば聡子が自分でハンガーにかける。青い絨毯を敷き詰めた寝室には趣味のレコードとCDとオーディオが置いてある。レコードは八〇〇枚一寸、CDは二〇〇〇枚以上ある。レコードとCDの主なジャンルは欧米のプログレッヴ・ロックやユーロ・ロックである。俺はこれだけの宝を持つ喜びでどうにか満足を得たい。現実的には物欲に満足というものはない。際限なく欲望が増大する。それでもロックに対する情熱が失われたり、ロックから素直に受ける感動や興奮が得られなくなるよりは良い。プログレやユーロ・ロックばかり聴いていると、不意に飽きた時にロックに対する情熱が失われそうな不安が募る。そういう不安を吹き飛ばすにはクラシックやジャズや現代音楽や母国語の音楽全般への回帰に加え、ハード・ロックやへヴィ・メタルやオールタナティヴ・ロックやイージー・リスニングやワールド・ミュージックを併用した音楽鑑賞が欠かせない。或種何でも聴く人になる訳だ。何でも聴く人としての積極的な穴埋めも行っている。何に関しても十枚やそこらはそのジャンルの代表的なアルバムや通好みのアルバムを必ず買って聴いている。因みにこの中のレコードの大半とCDの四分の一は高校時代に買い集めた物だ。

 高校時代、俺には三人の音楽仲間がいた。三人共個性を競うように未知なる音楽領域に足を踏み入れた。あらゆる新旧の音楽を貪るように聴き捲くっていた。俺は心密かに音楽ライターを目指した。学校が終わると独りコンビニエンス・ストアのアルバイトに向かった。その高校三年間続けたコンビニエンス・ストアでのアルバイトの収入で、プログレやユーロ・ロックの再発シリーズのレコードを新品揃いで買い集めた。プログレの中でもメジャーなアーティストやバンドのアルバムは片っ端らから中古レコードで買い集めた。その間、三人の友人達はほとんどアルバイトをせず、少ない小遣いでノロノロと脈絡なく中古レコードや中古CDを買い集めていた。彼らは次々と新しい音楽領域に足を踏み入れ、中途半端な物知りに留まるような聴き方をした。俺を含む高校時代の四人の音楽好きの中では唯一俺だけが音楽雑誌の編集の仕事に就いた。これを正確に成功と言えるのかどうかは判らない。三人の音楽仲間達は高校を卒業すると同時にバンド活動に入ったのだ。俺だってプログレのミュージシャンになれるなら、それが一番の夢の実現だ。俺はプロのミュージシャンになる事を夢見る程十分な音楽の勉強や努力を積んでいない。自分の好きな音楽家と出会う機会を得ても、直ぐにそのアーティストと音楽を共作するのではない人間関係程虚しいものはない。ギターを買い込んでも、単音やコードを綺麗に弾く事以上には全く進展しない。自分の演奏技術に不満を抱き、新しい音楽を作り出せない事への苦闘の日々を過ごしながら、未だに音楽家になる事への挫折を自分に許せずにいる。第一こんなに音楽好きな人間に音楽的な才能がない筈がない。

 小遣いなんて煙草代と昼食代以外は全て中古CD代に消える。今の収入ではそれ以上の出費は望めない。家に入れるお金に関しても、家族持ちらしく可能な限り家族を優先させている。まあ、会社の人間達が皆そうしているので彼らに合わせているだけなのだが・・・・。

 寝室の向かいに便所のドアーがある。その右隣に洗面所兼脱衣所のドアーがある。その洗面所兼脱衣所のドアーの向こうには風呂場がある。俺は廊下に出て、洗面所兼脱衣所の先の八畳のLDKに入る。台所と食卓を通り過ぎる。二十八インチの黒いTVが正面奥に置かれた茶色い合成革のソファー・セットの方に向かう。LDKの左隣にはもう一つ四畳半の部屋がある。我家はこんな二LDKの細やかな住まいだ。

 ソファー・セットに右から回り込む。窓の前にはTVがある。TVの手前にはソファー・セットがある。二歳になる娘の愛子が肩まで伸びた黒い髪に、爪先まで包み込んだ毛のふさふさとした茶色いツナギを着ている。愛子は小さなぬいぐるみのようにちょこんとソファーに座っている。俺は勢いよくソファーに腰を下ろし、ソファーの上ではしゃいで飛び跳ねる。ソファーの上で左隣にいる愛子の体が転がるように弾む。俺は愛子を喜ばせようと、何度もソファーの上で飛び跳ねる。愛子の小さな体がソファーの上で右に左に跳ねて転がる。それが面白くなってしまった俺は更にソファーの上で飛び跳ねる。

「一寸!あなた!ドタバタしないで!下に赤ちゃんがいるんだから静かにしててよね!」

 俺は飛び跳ねるのを止める。愛子は眉毛の薄い、黒く大きな真ん丸の眼を輝かせて俺を見上げる。愛子は小さな濡れた赤い唇を開けると、「お父さん!」と可愛らしい蚊の鳴いたような声で俺の帰宅を歓迎する。俺は愛子の右隣に座る。愛子が観ているTVの幼児番組を一緒に観る。愛子は落ち着けとばかりに俺の左腿の上に小さな手を載せる。

「はい、御飯にしますよう!」と聡子が俺を食卓に呼ぶ。愛子は素早く振り向き、背凭れの上に手をかけてソファーの上に立つと、聡子のいる食卓の方を見る。

「ああ、腹減ったよ」と俺は言いながら、ソファーの背後の食卓の席に座る。聡子は愛子を抱き抱え、愛子を俺の右斜め前の子供用の椅子に座らせる。

「今日は魚か」と俺は言いながら、魚の腹に箸で穴を開け、醤油を流し込む。俺は愛子を前屈みに見下ろし、「愛子?お魚のお腹にお醤油の池が出来てまちゅよう」と言い、自分の皿の上の魚を愛子に見せる。

「愛子に変な事教えないで!」と女房の聡子が生真面目な顔でぴしゃりと俺に注意する。愛子のテーブルの前には小皿と赤いプラスティックのフォークと水の入ったグラスしかない。

「はい、愛子、お魚よう」と聡子が愛子の小皿に焼き魚の身を箸で運ぶ。今日の夕食のメニューは焼き魚と肉じゃがと、若布とジャガイモの味噌汁と白米だ。愛子はフォークで魚の身を刺し、口に運ぼうとする。それが口許でほとんど零れてしまう。それを母親の聡子がいちいち拾い上げ、また皿に置いてやっている。

「一粒で二度美味しいどころじゃないな」と俺は焼き魚を解して醤油の池につけて食べながら言う。

「自分で食べられるようになるまでは根気よく拾ってあげないと、いつまで経っても、ああんなのよ」と聡子が言う。よくもそんな笑い抜きの言葉ばかりでその場その場の会話を仕立てられるな。

「美味しい、愛子?」と聡子が愛子に訊く。

「おいしい」と愛子が虫の鳴くような小さなか弱い声で答える。俺は焼き魚を食べ終え、今度は肉じゃがに取りかかる。

「その食べ方じゃ、また御飯が最後に残るわね」と聡子が俺に言う。聡子は愛子の面倒を見ながら、自分もしっかりと食べている。聡子が俺の魚の皿の方から魚を食べている俺の顔の方に視線を移し、「今日はお魚上手く焼けたわね。美味しいでしょ?」と訊く。

「上手かった」と俺。

「あなた、好きよね」

「ふううん。俺、鯵が好きなのか。魚の事はほんとよく知らねえんだよ。子供の頃から上手い魚と不味い魚があるって事ぐらいしか判らなくてね」と俺。

「よくそれで二十三年も生きてこれたわね」と聡子は言い、味噌汁の具の若布を愛子の小皿に置いてやる。聡子は愛子が若布を食べるのを注意して見ながら、今度は肉じゃがのジャガイモを箸で半分に切り、半分を自分の口に入れ、もう半分を愛子の小皿に置いてやる。

「俺は最高の夫だぞ!」

「そうね。肉じゃがどうお?」

「美味しいよ」と俺。

「良かった」

「俺は最高の夫だぞ!」

「誰だって最高の夫よ。夫は一人しかいないもんなんだから」と聡子が味噌汁のお椀を口に近づけながら言う。

「ほう!よく判ってるじゃないか!言われてみればそうだなって、おい!何が夫は一人しかいないもんだからだ!お仕置きするぞ!」と俺が眉間に皺を寄せて聡子の眼の奥を覗き込むようにして言う。俺の眼を見る聡子の眼が笑っている。この女は多分何も俺に不満がないのだろう。恐らく冗談だって、こいつなりに呑み込めているのだ。

「良い男よ。もっと良い男になって欲しいけどね」と聡子が俺の眼を見て微笑みかけながら言う。

「そうだろう?お前もなかなか見る目があるな。それでこそ俺の妻だ。俺は見えてないふりをしているだけで、実はちゃんとお前の事が見えてるんだぞ」

「はいはい」と聡子は言って、鯵を食べると、愛子にも鯵を箸で解して小皿に運ぶ。俺は肉じゃがを食べ終え、今度は若布とジャガイモの味噌汁を食べる。

「そのお味噌汁を御飯にかけたら?」と聡子。

「猫飯か。猫飯は朝しかやらないんだ」

「御飯残さないでよね」

「俺は今、味噌汁を飲んでるんだぞ!他の話なんてしてたら味が判らなくなるだろ」

 聡子は何も言わずに飯を食べる。

「聡子、味噌汁も美味かったぞ。問題は米をどうやって食うかだ。そうだな、お茶漬けの素を全部出してくれ」

「はい」と聡子は言って、席を立つ。「やっぱりね」

「ふりかけもな」

「はい」と聡子は言って、食器棚の下の物入れからお茶漬けの素とふりかけを出す。

「はい!お好きなのをどうぞ!」と聡子が言い、お茶漬けの素とふりかけを俺のテーブルの前に並べておく。俺はふりかけと梅のお茶漬けの素を選んで御飯の上にかける。テーブルの端にあるポットから手つかずの御飯が盛られた茶碗に湯をかける。俺が楽しんでお茶漬けを食べる。

「お父さん!」と可愛らしい声で愛子が俺に声をかける。

「愛子も食べたいのか?」と俺。

「いいの!いいの!はい!愛子!ジャガイモよ!」と聡子が愛子の小皿に小さく切ったジャガイモを置く。俺は茶碗に醤油を少々かける。「もっと上手いお茶漬けはないもんかね」

「お茶漬けの素はどれもそんなものよ」と聡子。

「ううん。何を具にして緑茶をかけるんだったっけな・・・・」

「ああ、そういう本当のお茶漬けね」

「うん」

「食べたいの?」

「うん」

「今度やってあげるわ。鯛茶漬けとか、お魚の刺身に緑茶をかけるようなお茶漬けでしょ?」

「ああ!親父が食べてたのもそういうのだった!」

「はい。じゃあ、愛子はもう御馳走様ね」と聡子が愛子に言い、愛子を椅子から下ろす。愛子はまたTVの前のソファーに上って座る。

「御馳走様でした」と俺が言うと、「はい、どういたしまして」と聡子は返事をし、独り食事を続ける。ソファーの前のテーブルに置いていた煙草と緑色の百円ライターを右手に持ち、左手でTVの脇に置いている灰皿を持って、TVの後ろの窓を開ける。冷たい風が温かい部屋に入り込む。俺は窓際に腰掛けて寒さに震えながら、ゆっくりと食後の一服を楽しむ。

 今宵の月は美しい満月だ。この通りウチの夫婦は晩飯時も酒を飲まない。煙草は一箱買えば、二、三日は持つ。

「あなた、先にお風呂入ってくれる?」

 何だか頭がぼうっとしていて返事をしたくない。

「ねえ!」

「何だよ!」

「お風呂に先に入ってくれない?」と聡子。

「良いよ」

「直ぐ入ってよ?」

「うん」

 俺は風呂場に向かう。脱衣所で下着と靴下を脱ぐ。鏡で自分の裸を眺める。毎日、少しずつデイヴィッド・ボウイに似てくる。今日もまたそれを確認する。今のところ、それに気づいている者はこの俺しかいない。少なくとも俺だけはそれに気づいている。周りの人間が気づいた時には、俺はもう日本のデイヴィッド・ボウイと称されるぐらいの超有名人になっているだろう。風呂場のドアーを開ける。いつものようにポコチンとケツの穴と脇の下を石鹸で洗う。そこで一端さぶんと湯船に浸かる。腕を湯船から出す。バスタブの縁に腕を乗せる。再び腕を湯の中に入れる。ポコンと指が湯に当たる音がする。その音が気に入った俺は繰り返し同じ音を立てる。ポコンポコン、ポコン、ポコンポコンポコンってな。

「はっ!は(笑)!」

 不意に風呂場の静けさに緊張する。段々と恐怖が募る。

「あああ!」と俺は大声を出し、静寂を破る。また直ぐに静寂が戻る。俺は急いでバスタブから出る。髪と顔と体を手早く洗う。即座に風呂場から逃げ出る。もう脱衣所もダメだ!洗濯機の前のタオル掛けから素早くタオルを手に取る。手早く髪と体をタオルで拭く。俺は素っ裸で寝室へと駆け込む。ここもダメだ!俺は急いで寝巻きを着て、台所にいる筈の女房を探す。聡子は居間のソファーに座っている。俺は座っている聡子の股に顔を埋めて寝転がる。恐怖が収まるまで震えながらじっとしている。

「どうしたの?体、冷たいわよ。ちゃんとお風呂入ったの?」と穏やかな優しい声で聡子が訊く。俺は答えない。じっと体を固くして身を護らなければいけない。脳が死んだように頭の中が冷たい。

 落ち着きを取り戻し、ソファーに座り直す。聡子はまた台所の方に行く。TVが点いている。足元の絨毯の上で愛子が何時の間にか口を半開きにした可愛らしい顔で眠っている。可愛いなあ。俺はお前のために一生懸命働くよ。

「あら?愛子、何処かしら・・・・」

「ここにいるよ」

「何処?」

「ここ」

「あら愛子ちゃん、こんなところで寝んねしちゃってたのねえ」と聡子が猫撫で声で愛子の寝顔を見ながら言う。

「じゃあ、私も愛子とお風呂に入るわね。ああ、電話かかってきたら、今、お風呂に入ってるから後でかけますって言っといて」

 聡子と話してると、悪戯ばかり思いつく。勿論、全部は実行しない。俺は冴えない悪戯に関しては誰よりも自分に厳しい。

「愛子おお!お風呂入りましょうねえ」

 俺は聡子の尻に触れる。

「良い尻になってきたな」

 聡子は愛子を抱き上げ、風呂場に向かう。

「お風呂から出たら冷たい物でも食べましょ」

「うん」と俺。

 俺はソファーに横になる。テーブルの上に山積みされた聡子の本を眺める。隣の四畳半の部屋には聡子の本棚が三つもある。聡子は俺より二つ年上だ。聡子の読書量の多さには年齢差の二年では到底追いつけない。聡子の読書量は俺の七倍はある筈だ。俺は基本的に読書は嫌いだ。読みたい本を聡子の本棚の中から選んで読む事もしない。TVの前のテーブルに山積みされた本は全部で十一冊ある。文庫本と単行本が混ざっている。漫画本も二冊ある。漫画は萩尾望都と諸星大二郎の漫画だ。残り八冊は小説と随筆と詩集で、その中には官能小説もあれば、推理小説もある。純文学は入っていないようだ。聡子はもう名作なんかはほとんど読み終えてしまったのだろう。俺は二十三にもなって、相変わらず本を読む時は岩波や新潮の未知なる名作文庫を読み進める。それも度々中断するため、未だに一人の作家を読破した事がない。


 聡子との出会いは今から三年前になる。一九八九年当時、俺はまだ二十歳だった。高校卒業後、俺は某ロック系の音楽雑誌の編集部のアルバイトとして働き始めた。その一年後に漸く正式に正社員として採用された。輸入盤でしか発売されていない、ほとんど無名に近いアーティストのアルバムを中心に、一寸した紹介記事を雑誌の隅に書いていた。聡子と出会ったのは正社員になってまだ一年しか経っていない頃だった。その頃の俺は今よりももっと狭いアパートメントに住んでいた。

 或夏の日の夕方だった。俺は仕事帰りの下着姿でキング・クリムゾンの『太陽と戦慄』を大音量でかけながら、何時ものように趣味の鉛筆画を描いていた。玄関のブザーが鳴った。俺は玄関の方に歩いていき、ドアーを開けた。ドアーの向こうには下着とタオルを山程抱えた聡子が恥ずかしいそうに立っていた。

「一階の三沢と申します。洗濯物が沢山一階のお庭に落ちてたんですが、お宅のじゃありませんか?」と生真面目そうな顔をした聡子が改まった口調で言った。

「ああ、そうです。すみませんね。態々届けてくださって、ありがとうございます」と俺は初対面の聡子に丁寧に礼を言った。出勤中に窓外に干していた俺の洗濯物が一階の庭に落ちていたらしかった。それを一階に住んでいた聡子が二階の俺の部屋まで届けにきてくれたのだ。俺はその時の聡子を自分と同じ年か一つ下ぐらいに思っていた。聡子は一七〇センチメートル近い背丈で、肩まで真っ直ぐに伸びた黒い髪の、目鼻立ちのはっきりとした小顔の女だった。聡子は当時から太ってはいなかった。聡子ははちきれそうな程引き締まった本当に魅力的な体を有していた。聡子は落し物を俺に手渡すと、急いで俺の部屋の前から去っていった。俺はその聡子があんまり可愛く思えたものだから、どうにかして聡子に接近して親しくなりたかった。

 翌朝、俺は冬物も夏物も箪笥に入った衣類を全て出し、それを全部窓から階下の庭に放り投げて仕事に出かけた。

 帰宅すると、しばらくして、またブザーが鳴った。ドアーを開けると、聡子が俺の服を山程抱えて立っていた。

「どうしたんですか?下にこんなに一杯落ちてましたよ」と聡子が胸に抱えた服の山から眼を出して言う。俺はその服の山ごと聡子を抱き締め、「俺と結婚してください!」といきなりプロポーズをした。

「そんな、ちょっと待ってくださいよ!とりあえず、このお洋服の山を受け取ってください!結婚に関してはその後考えます!」

「僕はあなたが結婚してくださるまで二度とあなたを離すつもりはありません!僕はあなただけの物になりたいんです!」

「私、結婚するまでは絶対に男の人の手に触れられないように、ずっと気をつけて生きてきたんですよ!ずるいですよ、こんなの・・・・」

 服の山から聡子の眼が隠れ、聡子は黙った。俺は泣かしちゃったかなと思い、聡子を服の山ごと抱き抱えて部屋の中に運び入れた。俺が抱き締めた手を聡子から離すと、二人の間からどっさりと服の山が畳の上に零れ落ちた。聡子はその場を黙って立ち去ろうとした。俺は聡子の左手を掴み、背後から聡子を抱き締めた。

「俺は必ず君を幸せにする」

「まだお互い自己紹介もしてないです・・・・」

 やはり、聡子は泣いていた。俺は聡子の背に胸を押しつけるようにして、強く聡子を抱き締めた。

「清高守と申します。二十歳です。仕事は某ロック系の音楽雑誌の出版社の編集で、インポートのレコードやCDの紹介記事を書いています。趣味は音楽鑑賞と鉛筆画を描く事です。学生時代からの夢はロック系の音楽雑誌や国内盤のレコードやCDにライナーノーツを書く事です。その夢は現時点では音楽ライターに留まり、それを日々の仕事として働いています。両親は健在です。父も母も東京生まれ東京育ちです。貯金は今、四十二万円あります。家の墓は仏教の曹洞宗と日蓮宗に属しています。結婚式は何式でも構いません。兄弟は年の離れた弟が一人います。生年月日は一九六九年昭和四十四年五月六日生まれです。学歴は高卒です。血液型はA型です。星座は牡牛座。普通自動車免許証取得。車はありません。好きな映画は『ドクター・モローの島』と『スペース・サタン』と『銀河伝説クルール』と『血とバラ』と村川透監督松田優作主演の『野獣死すべし』です。好きな音楽家はピンク・フロイドとW・A・S・Pです。好きな小説家はヘッセとカフカです。モリエールの戯曲も好きです。好きな漫画家は楳図かずおと寺沢武一と丸尾末広です。好きな画家はサルヴァドール・ダリです。好きな食べ物は焼肉とカレーライスとカツ丼とお好み焼きとクリームシチューとビーフシチューです。お菓子は何でも好きです。好きな飲み物は牛乳です。それから・・・・、今日はこれくらいでいいかな?もっと君の事を知りたいんだよ」

「何だか知ってるもの全部言ってるような自己紹介ですね(笑)」

「人間って、そういう風に様々なものが影響して出来てるように思うんです」

「見苦しい体と同じで、もっと判り易い人間になるためには、贅肉を削ぎ落とさなくてはいけないわ。未消化な物事を整理せずに放っておくのは良くない事だと私は思います」

「将来、色々な音楽を幅広く網羅して、色々なジャンルの音楽の名盤を沢山紹介する本を出版したり、一つのジャンルの音楽に囚われる事なく、小説や漫画や映画や絵画など、あらゆる表現の世界での音楽との関わりを細かく紹介する本作りをしたいんです」

「その中身って化け物ね。形を与えたら、きっと醜いわ」

「なら、もっと、ようく俺の顔を見て」

 俺は後ろから聡子の顔を覗き込んだ。

 聡子は恥ずかしそうに首を竦めて、「そうゆう意味じゃないです(笑)」と照れ笑いしながら言って、俯いた。

「もっとようく君の顔を見せて」

 俺は聡子を抱いた手の力を緩めた。聡子はくるりと俺の方に振り向いた。聡子はキッと怖い程真剣な眼差しで俺の眼を見つめた。俺はその振り向いた彼女の眼の奥の心を見つめた。俺達は互いの眼を見つめ合った。俺は聡子の顔にゆっくりと顔を近づけ、そっと彼女の唇にキッスをした。俺達は唇を重ね、息を止めたまま静止した。俺はドキドキと高鳴る胸の鼓動を感じながら、長い長いキッスをした。息苦しさに負けた聡子が素早く俺の唇から自分の唇を離した。俺と聡子は足下を見下ろし、右利き同士同じ利き腕の方へ体の向きを変えた。俺達は乱れた呼吸の合い間にてんでばらばらに咳き込んだ。


 愛子が寝巻きを着て、一人で先に風呂場から走り出る。

「愛子、ここにおいで!」

 愛子は俺の近くに走り寄る。愛子はソファーに寝そべる俺の腹の上に上ってくる。俺は愛子を抱き締め、頬にチューをする。

「愛子、お父さんにもチューして」

 愛子は俺の口に濡れた唇でチューをする。愛子は俺の上から降り、絨毯の敷かれた床に腰を下ろし、絵本を観始める。愛子は気に入った絵を見つけると、絵本を俺の顔の前に近づけ、俺の感想を待つ。

「大きな象さんだねえ」

 俺の感想を聴くと、愛子はまたしばらく絵本を眺める。俺は寝そべったまま瞼を閉じると、心の中で『俺は幸せだなあ』と言葉にしては、しみじみと自らの幸せを実感する。間もなく聡子も風呂場から出てくる。聡子はなかなか真っ直ぐに居間に来ない。洋服箪笥と鏡台のある寝室にいるのだろう。

 聡子が冷凍庫から棒付きのラクトアイスを三つ持ってきて、一本俺に手渡す。愛子も同じのを一人前に貰って食べる。聡子はソファーに腰を下ろし、新聞を見ながらラクトアイスを食べる。聡子は俺が寝そべっているソファーの斜め左のソファーに腰を下ろしている。


 奇妙な月夜に怪しい女の後ろ姿を追っている。白い薄絹の和服を着た女のか細い体からめらめらと蒼い炎が揺らめいている。何処からともなく音のない怪しく魅力的な音楽が聴こえる。音の本質のような聴こえ方だ。女のか細い後ろ姿に悶々と欲情してくる。人気はなく、女をレイプしたい気持ちが募ってくる。レイプという行為自体俺には実現不可能な想像上の行為だ。風に乗って女の甘い花のような香気が鼻先を掠める。本当に良い女だ。二人目の妻を得るならば、こんな女が良い。

 ラクトアイスを食べた後、俺は少し寝ていたようだ。目を開けて起き上がると、聡子が左隣に来る。聡子が観る野球のニュースが始まる。俺も大した興味はないながらも、左隣に座った聡子の肩に手を回し、聡子の肩を撫ぜながら、何となくTVの野球を観ている。試合中のハプニングを取り上げた場面で、全身素っ裸の男がネットを攀じ登り、グラウンドを走り回る映像が流れる。元プロ野球選手のニュースキャスターが、「いやあ、とんでもない事になりましたねえ」と言って笑うと、女性のアシスタントが、「ネットに上るのが早かったですね。グラウンドに入ると、呆気なく捕まってしまいましたが」と言って笑う。次は野球選手のインタヴューに変わる。俺は相当なショックを受けて茫然とする。これだよ!世界中の人達を一斉に楽しませる芸は!俺はこの事を昔から誰よりも熟知している。俺は他人が裸を晒すのを待っている訳ではない。自分が自分の裸を人前に晒して駆け抜けて行く様を想い続けてきたのだ。誰もが思いつく自由の表現でありながら、この芸を披露する機会はそうそう巡ってこない。子供の頃なら頻繁にやれる機会もあろう。大人は社会的地位を守る事を考えると難しいところがある。この芸には年齢制限がない。この芸は段々と自分の中で抑圧されていく。少々の勢いを持つ解放された心と、絶好の機会を掴む事だけで実行出来る芸だ。

 寝る前に俺は便所に行く。小便をする。小便が便器を飛び越える。床の上に小豆を沢山零したような音がする。床が濡れる。何だか妙に愉快で、笑い声を上げる。

「はっ!はっ!はああ(笑)!」

 寝室から聡子が、「どうしたの?」と話しかける。

「はあ!ははっ!ははっ(笑)!」と俺は笑いながら、便器の中の水に弾ける音と床に当たる音とを交互に立てて小便をする。小便をし終わる。ちんぽこを出したまま風呂場の脱衣所に行く。雑巾を持ってきて便所の床を拭く。床を拭く手の動きに合わせてポコチンも揺れる。

「はっ!はっ!はああ(笑)!」

 俺は風呂場に行く。水道水で雑巾をよく洗う。俺は雑巾の水をよく絞る。タオル掛けの下の段に雑巾をかける。ちんぽこを出したまま、今度は脱衣所兼洗面所で歯を磨く。歯を磨く手の動きに合わせてポコチンも揺れる。態と不規則に磨く。ちんぽこの揺れに幾つかのヴァリエイションを加える。もっと激しく全身を揺らす。羞恥心から心を解き放つ。

「はああ!はっ!はっ!はっ(笑)!」

 俺はポコチンを出したまま寝室に入る。ベッドの上に飛び乗る。先にベッドに入ってスタンドの灯で詩集を読んでいた聡子がベッドの上で狂ったように飛び跳ねる俺に苛立つ。

「一寸!下の人に御迷惑よ!」

 揺れるベッドの上に横たわる聡子の体が弾む。聡子の顔の肉が揺れている。俺はそんな聡子の顔を指差し、大笑いする。

「はああ!はっ!はっ!はっ(笑)!」

 寝室のダブル・ベッドの隣の奥の角で、子供用の寝台に寝ていた愛子が目を覚まし、正座して俺を見ている。

「お父さん!」と愛子が可愛らしい声を元気よく発する。俺はポコチンを出してベッドの上で飛び跳ねる。それが堪らなく嬉しくて大笑いしている。

「はああ!はっ!はっ!はっ(笑)!」

 俺は勢いよくジャンプし、ベッドの上に俯せになる。

「さあ!寝ようか、諸君!」と俺は言って、掛け蒲団の上に横たわり、目を瞑る。ポコチンを出したまま・・・・。

「もう、あなた、ちゃんとお蒲団かけなさいよ」と聡子は言って、俺が下に敷いている蒲団を俺の体の下から引っ張り出し、俺の体にかける。

「もう!おちんちん出てますよ!」と聡子は言い、俺のポコチンを寝巻きと下着の中に仕舞う。聡子が寝室のスタンドの電気を消す。閉じた瞼の中がふと暗くなる。

 

 JR大井町駅で電車を降りる。大井町線に沿って建ち並ぶ商店街の坂を下る。下神明辺りで右折しようとしたら、自転車に乗った老人が急に曲がり角から飛び出してくる。俺は驚いてよろける。軽い眩暈がする。振り返ると、先の自転車に乗った老人が俺を見ている。

「すみません!」と老人は大きな声で俺に謝り、頭を下げる。老人は自転車に乗って立ち去る。俺は老人の後ろ姿を不思議な気持ちで見ている。俺は老人が飛び出してきた右の曲がり角を曲がる。線路下のガードを潜らず、左手前の脇道に入る。


 俺は横たわっている。一体何が起きたんだ。目は開いている。もう一回目を閉じる。再び目を開けてみる。

 暗いままだ。周囲を見回しても全く光のない闇。全くの闇だとしたら、仰向けで寝ているのも不安だ。動いても良いのだろうか。

 背中から伝わる地面の冷たさが気持ち良い。ここは暗闇だろうか。もしかして、目が見えなくなったのか。顔に手を当ててみる。何だか皮膚感が妙に懐かしい。もしかして、あの世にいるんじゃないだろうな。胸の方にゆっくりと手を滑らせてみる。体は温かい。腰や股間や脚の方にも手を滑らせてみる。最後に両足の指先を擦り合わせてみる。俺はどうやら全裸であるようだ。周囲には何があるのか。人の気配は全くない。地面に耳を付けてみても何の音もしない。耳は聞こえているのか。声を出して確認したい。声を出しても良いところだろうか。いや、止めておこう。もしも、これが夢ならば、夢の中で声を出したなら、起きている者には寝言に聞こえるだろう。それに夢の中では声を出したくとも、なかなか声が出ないものだ。変に夢の中で声を出す事に拘りだすと、却って苦しむ事にもなる。目が慣れれば、何かきっと見えてくるだろう。

 地面はつるつると滑らかな感触がする。掴めないところをみると、シートの上ではない。爪で刺してみようか。硬さが判らず、力を込めて刺す。一瞬爪が曲がって強烈な痛みを感じる。「痛っ!」と思わず声を出してしまう。痛あ・・・・。声出しちゃった。今の声で誰かが聞きつけてくれるかもしれない。まあ、声は出るという事だ。

 地面はかなり硬い。この地面はタイルのような物じゃないだろうか。もしも、自宅で見ている夢ならば、聡子や愛子にも声が聞こえた筈だ。もう一度地面に耳を付けてみる。やはり、音は聞こえない。自分の声を聞いたのだから、耳は聞こえている。ううん。まあ、聞こえている事にもなる。

 心臓の鼓動が聞こえる。俺の音だよな。うん。俺の音だ。夢の中で心臓の鼓動なんて聞こえたかな。そもそも心臓の鼓動って、音のように耳で聞こえたかな。俺は或公園のベンチに腰かけていた時の記憶を思い浮かべる。いや、心臓の鼓動は音としては聞こえない。

 なかなか目が慣れない。いや、もしも、少しも光が入らない部屋ならば、目が慣れるなんて事はないのかもしれない。猫だって、そうだったと思うが・・・・。

 俺の記憶ではJR大井町駅で電車を降り、大井町線の線路に沿って商店街の坂を下った。下神明辺りで右折しようとしたら、自転車に乗った老人が急に曲がり角から飛び出してきたんだ。その時、少し眩暈がした。老人が現われたところを振り返ると、自転車に乗ったままの老人がずっと俺を見ていた。「すみません!」と老人は大きな声で俺に謝り、頭を下げたんだ。

 あのお爺さん、何か懐かしいな。死んだお祖父ちゃんに似てる。俺はあの下神明の路地で貧血でも起こして倒れたのか。いつも寝足りない気分で会社に行くからな。後頭部を触っても瘤などないし、痛みもない。倒れた時の衝撃で失明する可能性はある。俺は今もあの路地に横たわっているのか。いやっ、それはないな。風は吹かないし、線路の近くだったら、電車の音がしても良い筈だ。地面を触ってもアスファルトの感触とは違う。一寸這ってみよう。ああ!そうか!起き上がれば良いのか!いやっ、待てよ。先ず手を頭上に上げてみないと、頭を打つかもしれない。何も手に触れる物がなければ、ゆっくりと立ち上がれば良いのだ。

 手を上げても、頭上に触れる物はない。少し上体を起こしてみようか。

 本当に風も音もない。空気はあるのだろうか。何か空気の事を考えたら、息苦しくなってきた。空気はある。空気はある!何か閉所恐怖症的な不安感が募ってきたな。俺は閉所恐怖症じゃない!それにそんな恐怖を生むような環境にあるとも限らない。暗闇で、音もなく、風もない。俺は恐らく室内にいるのだろう。東京には室外に暗闇なんてものはないからな。

 それにしても不安だ。目が慣れないところをみると、やはり暗闇にいるか、失明したに違いない。怖いなあ。不安だなあ。泣いてみようかなあ。もしも、これが夢ならば、夢見て泣いている姿を誰かに見られて笑われるかもしれない。まあ、いい。とりあえず、ゆっくりと立ってみよう。

 頭上に手を伸ばしながら、ゆっくりと立ち上がってみる。やはり何も触れる物はない。こんなところを誰かに見られていたら恥ずかしいな。少し歩いてみようか。俺は手を四方八方に振り回しながら、注意して歩く。何か手にぐんにゃりした物でも触れたら、失神するかもしれない。大体、素足で歩く事自体、何踏むか判らなくて不安なのだ。安全靴でもあれば良いな。ひたっひたっという自分の足音も怖い。足に何か触れたら、悲鳴だって上げ兼ねない。って、待てよ!足音がある!耳は聞こえてるんだ。自分に関する音は聞こえてるんだな。夢かな。

 あれええ?壁がないのかな。もう十歩は歩いたぞ。いや、体育館のようなところなら、一〇歩や二〇歩は余裕で歩ける。そう!歩けるんだ!

 こんな暗闇でも人の目に触れる自分の裸体への羞恥心はある。やはり、TVに出てた全裸の男の行為は偉大だったな。彼には普通考えられるような羞恥心なんてきっとないに違いない。ナルシシストには違いないだろう。露出狂者は羞恥心を覚えながらも、裸を人前で見せる事で独自のエロティシズムを追求しているのだろう。ああいう露出狂者が毎回大衆の注目を集めるのは、皆、密かに憧れを抱いているからだろう。生まれ付きの盲人に羞恥心やナルシシズムなんてものがあるのか。自分の姿や動作に関する美意識や羞恥心なんて、一体盲人に何の関係がある。第一目に見えぬ裸体への羞恥心なんてものが盲人の心の中にどうやって養われるのか。自我が芽生えたら、周囲の人達の姿こそ見えなくとも、他者の存在を感じるようになる。その時に羞恥心や美意識が目の見える者との生活や発言を通じて、少しずつ盲人の心の中にも養われるのか。誰かに横ちんを見られて笑い者にされ、その事の何がおかしいのかが判れば、下着の中のポコチンのポジショニングにだって気を配るようになる。その上、ちんぽこネタで笑いが獲れるようになったら、それはもう立派なユーモリストではないか!盲人は服を着る事などを本当に望んでいるのか。寒ければ何か上に羽織るような智慧も、面倒を看てくれる者さえいれば、簡単に身につく。暑い時や胸が苦しい時はどうだ。他人の存在にどれだけ重点を置くかで、その人の心に身につく注意力に差が出てくる。周囲が突然騒ぐ瞬間に何が起きたのかと興味を示す事ぐらい盲人にだって出来る。もしも、ストリーキングが自分の前を横切ったなどと盲人が知ったなら、盲人の心の中に抑圧されていた願望がたちまち解放されてしまうだろう。少なくとも彼の長年の憧れが肯定される切っかけを得るに違いない。

 俺は今、自分が盲人になったのか、暗闇にいるのかさえ判らない。何も見えない事には変わりない。自分の肉体の小ささを全身で感じる。弥が上にも謙虚な気持ちにならざるを得ない。この状況が無性にもどかしい。視力を失った事で眼による暴力的な意思表示の手段が失われた。恰も存在のバランスが崩れたかのように、生きていく自信までもが失われてゆく。盲人は謙虚さなんてものを心から必要とするのか。彼らは障害という自分の弱みや不安を自覚して謙虚になるのか。何でも自分で出来る条件の揃った体があれば、人の手助けなど受けなくて済む。障害者だからと快く手助けをしてくれる周囲の健常者達に一方的に甘やかされていく裡に、彼らの心の中にも感謝の心が芽生えてくるのだろう。健常者でも障害者でも、皆が助け合う世界の実現を主張する人はきっと真の平和主義者として世界に貢献する事だろう。現実にそのような或種の理想世界がこの我々の住む世界に生じてきている。そういう理想世界は人間による愛の行為が瞬間瞬間に起こるために生じてきたものだ。その理想世界は神様の愛を実感する世界であろうと思う。

 優しい人で一杯の環境で育っても、反抗心は全部その逆を周囲に齎す。反抗的な人間は若い年齢層から次々と生まれてくる。その中の一部が理想世界に共鳴し、次世代を育てる資格を得る。世の中、自分の反抗心に気づかない人達が大勢いる。心の歪みとは、体つきのように、今の自分にたった一つしかない心の問題だ。その心の一部の歪みを早期発見するのは容易な事ではない。発想も言葉も行為も、心に歪みあれば、全てが歪んでしまう。人間の超越とは、宇宙・太陽・地球・人類と言う配列の中の単なる個でしかない意識で神という絶対者、唯一にして全てである者に融合し、一つになる事だ。ああ!ダメだ!一方向ですらこんなにも歩けるんだ。壁一面すら見つからない。とりあえず、ここで止まろう。

 音もなく、風もなく、臭いすらもないこの環境が止まる事を意思した途端に背筋がゾッとする程の不気味さで迫ってくる。自分の息、自分の立てる音、自分の臭いというものが全て自分の肉体と一体になっている。この当たり前の事が何故だか途轍もなく恐ろしい閉塞感を与える。声を張り上げ、壁を探してまっしぐらに走らないと、何れ俺はこの静寂に負け、この環境の不気味さへの恐怖と不安と孤独の裡に気が狂ってしまうだろう。

「うわあああ!」

 もう壁に激突して死んだって良い!俺はただ壁を求めて無心になって走る!

「うわあああ!」

 幾ら走っても壁に当たらない!俺は四方八方滅多矢鱈に手を振り回しながら走り回る。

「落ち着いて!」

「うわ!近付くな!触るな!消えてくれ!」

 女の声が聞こえたと同時に、俺は一瞬、全身の筋肉が凍りついたように硬くなる。走っていた勢いで少し宙を飛ぶ。俺は乾いた音を立てて地面に倒れる。足の先から背筋までが酷く痙攣している。このまま俯せ状態のままでいるしかない。声は右斜め後ろからだった。俺の鼓動は激しく脈打っている。平常心を取り戻すにはまだ時間がかかる。声は勿論、人の気配すら感じない。錯覚だったのか。

「錯覚じゃないわ」

 声が出ない!声は左斜め前からだ。近づかないでくれ!失神しそうなんだ!

「落ち着いて!近づかないから」

 今度は真後ろからだ。距離感が掴みにくい声だ。光線のような声とでも言おうか。何か実態のない声といった感じがする。俺はゆっくりと呼吸を整える。

「君は誰?」

 やっと声が出た!体も声も震えが止まらない。女は何も答えない。

「君には僕の姿が見えるの?」

「見えるわ」

 今度は前方からだ。俺の体はまだ痙攣していて動かせない。

「近づかないでね」

「臆病ね」

 声の方角は先と同じ前方からだ。声の方角は変わっても、女が移動する時の足音が聞こえない。それが恐怖心を増幅させる。実体がないのか。

「じゃあ、判るように移動するわ」

「いい!いいよ!動かないで!」

「ふふ、気難しい人ね」

「僕は盲目になったのかな?それとも暗闇にいるのかな?」

 女は答えない。まるで静寂程恐ろしいものはないのだと教えられているようだ。

「君は僕の心が判るの?」

「判るわ」

「本当に僕が見える?」

「見えるわ」

「じゃあ、見ないでよ。僕、裸だし、体が痙攣していて動けないんだ」

 女は何も言わない。女は俺の体に魅入っているに違いない。きっとそうだ!

「自惚れ屋さんね」

「卑怯だぞ!他人の心の中まで覗くなんて!卑劣だよ!」

「卑劣じゃないわ。全て口に出しているもの」

「君だって、考えながら話しているじゃないか!」

 女は答えない。こっちが何も見えない事に付け込んで、黙る事で恐怖を与えようとしてやがるんだ!

「ねえ!」と俺は女の沈黙を破ろうとして話しかける。

 糞っ垂れめ!無視してやがる!何時の間にか体の痙攣が止まっている。少しずつ上体を起こしてみる。

「痙攣、止まったみたいね」

 糞っ!生意気な事言いやがって!やっぱり魅入ってやがったか!

「ふふ」

 足音で女が前方から近づいてくるのが判る。

「近づかないでくれよ。怖いんだ」

「どうして?」

 女は止まろうとしない。

「御願いだから止まってください!」

 足音が消える。止まったのか?どんな神様でも良いですから私をお守りください!

「・・・・、さんか」

 女の声は左斜め後ろからだ。

「何なんだ、君は!そんな、そんな・・・・」

 やはり、幽霊なんだ!起き上がるべきか。それとも・・・・、どうしよう・・・・、逃げられない!俺に少しでも触れようものなら、ぶん殴ってやるぞ。

「違う?」と女が親しげな口調で俺に訊く。声は真後ろからだ。俺は女の方に振り返り、「何が?」と突っ慳貪な言い方で問い返す。

「名前よ」

「そうだよ。清高守だよ。何故判った?やっぱり幽霊なんだな!きっとそうだ!やっぱり、幽霊だ!」

「ふふ」

 声は右の方からだ。俺は右を向く。気が狂いそうだ!

「ねえ!・・・・ねえ!」

 女は答えない。待てよ。俺は本当に盲人になったのか。

「ふふ」と女が俺の左の耳元で微笑む。

「うわっ!近づくな!近づくな!近づかないでくれ!近づかないでください!」

 女の右手が俺の口を押さえる。真後ろからだ!女の右肘の辺りが俺の右肩に触れている。俺は恐怖のあまり必死にもがき暴れる。女の力はそれを上回り、びくともしない!俺の口を押さえた女の右手の感触は柔らかく、特別大きくもない。全く女性の手だ。俺は女の右手の甲を爪で引っ掻く。この女の肌には引っかかりがない。どう説明したら良いのか。マヨネーズの容器の上から爪で中のマヨネーズを引っ掻こうとする時のように、まるで引っかかりがないのだ!柔らかくて滑らか過ぎるとしか言い様がない。右腕の肘で後ろにいる女の体を思い切り突く。女の左腕が俺の胸の上を回って、俺の右腕を掴む。俺の両腕は完全に腋に固定されてしまう。俺は起き上がって女を前に振り落とす事を考える。その途端、女の体が岩のように重たくなる。俺は脚をバタバタさせてもがく。女の両手から冷たい体温が伝わってくる。所謂、凍りつくような冷たい手ではない。俺はほっとして一瞬抵抗力を弱める。直ぐにまた抵抗しなければいけないと自己防衛本能が働き、再度全力でもがく。女は俺の力の働きとは無関係に包容力のようなしなやかさで俺の頭を右手で抱き寄せる。余りの無力さに怒りと悲しみが心を埋め尽くす。俺は女の力に屈する。俺は泣きながら、力なくもがく。肌に触れる女の体の感触で女が全裸であるのが判る。俺の精神状態は徐々に安定していく。女は無言で俺を抱き締める。俺は極度の疲労により、女に抱き締められたまま全てを諦める。俺は自分が今まで積み上げてきた地道な努力の成果や自信が何の抵抗も出来ずに力尽きてゆくのを全身で感じる。

 何となく目が覚めると、膀胱に小便が一杯溜まっている。窓の外はまだ暗い。右隣で俺の体に抱き付くように寝ている聡子の存在を確認する。俺はベッドからそっと抜け出る。俺はよろける足取りで何とか便所に入る。俺は自分と入れ替わりにあの夢の中に入ったもう一人の自分のような存在を想う。俺は小便をしながら、寝る前の悪ふざけを思い出す。あれは少し反省しなければいけないな。うとうととした眠気が強く眼に残っている。長い小便の間、意識を保つので精一杯だ。何とか小便をし終わる。水を流す。俺は寝室のベッドに上がる。再び蒲団に横になる。


 俺は肩から胸にかけて、滑るように動く柔らかな感触によって目覚める。とても安らかな深い眠りに落ちていたように思う。どれくらい眠っていたのだろう。目を開けても何も見えない。女は俺の髪を撫ぜている。俺は左の頬を下にし、女の太股を枕にして横になっている。

「こんなに汗掻いて・・・・」と女の透き通るように優しい声が滑らかに俺の耳に入ってくる。もう何も恐れてはいない。俺は永遠の安らぎをこの暗闇の中の女との生活に求めている。今の俺の安らぎはこの地面と女の肌の感触に守られている。女はゆっくりと俺の頭を地面に移動させ、俺の性器の上に跨る。俺は女の腰の括れに両手を置き、ゆっくりと太股まで手を滑らせる。女の脂肪と筋肉の比率を手で確かめる。健康的で豊満な肉体だ。もう一度女の腰に両手を置く。女の腋の下へと手を上に滑らせていく。右手で女の左の胸を持ち上げるように包み込む。柔らかな女の乳房を女の体盤に押しつける。形が残らなくなる程強く胸を揉み解す。女は何の反応もしない。俺は女の両腋を掴む。ゆっくりと抱き寄せる。針金の通った柔らかいゴム人形のような僅かな抵抗感があるだけだ。俺は右腕で女を抱き締める。女の体を強く密着させる。左手を女の背中から尻の方に滑らせる。女の息が乱れるクリトリスを指で刺激する。女は甘く短い声を漏らす。女の声と体の感触に刺激される。勃起した硬い性器を女の性器に挿入する。女よ!感じるだけ感じて壊れてしまえ!正気を失ったような女の喘ぎ声がとても耳に心地好い。俺はその心地好い声をこの暗闇の中の新たな安らぎとして受け止める。俺達がどんなに動いても、どんなに声を張り上げても、暗闇はその動き、その声を決して空間には振動させず、俺達の裸出した小さな肉体に絡ませる。暗闇の中に揺れる二つの肉体の動きは獣の戯れにも似ているだろう。俺達は時間の経過さえ忘れて愛し合う。セックスをしている限り、恐怖心も起こらない。俺達はスローなダンスに陶酔する恋人達のように激しく愛し合う。

 俺は満足気に仰向けになる。じっと冷たい地面に横になる。俺達は火照る体を冷ます。女も俺の右腕を枕にし、左の頬を下に横になる。

 不思議に思う事がある。喉の渇きや空腹を感じないのだ。先程俺はこの暗闇の中でどれくらい眠っていたのか。俺は平日、一日六、七時間しか睡眠を取らない。どちらかと言うと、いつも寝足りなさが付き纏っている。目覚めてから女と愛し合った時間を入れると、そろそろ空腹を感じても良い頃だ。まあ、空腹なんて頭で考えるものではない。

 俺は静寂に満ちた闇への不安から、「君、年幾つ?」と無意識的に女に質問をする。女は答えない。

「しかしさあ、暗闇って、こんなにも不安なものだとは知らなかったよ」

 もう恰好つけてなんていられない!とにかく、何でも良いから話さなくては!

「いやね、子供の時に悪さをした時には必ず罰として押入れの中に閉じ込められたんだよ。あの時は流石に怖かったな」

 当然だ。大人になってもこんなに闇が怖いのだ。女の右手が俺の胸の上で動いている。

「君だって暗闇は怖いだろ?」

 女の右手の動きが止まる。

「いや、あの、ほらっ!子供の時だよ!」「ふふ。本当に臆病ね。ここに永遠の安らぎを求めようとしてたんじゃなかったの?」

 女の右手が俺の首に触れ、左の頬へと滑ってくる。

「俺、あんまり心の中を覗かれるの好きじゃないんだ」

 やばい。また体が震えてきた。どうもいけない。美女と一緒にいるんだぞ!美女とな!

「ねえ!キスして!」

「え?ああ!勿論するよ!キッスは大好きなんだ」

 光がここに射しませんように!女は俺の体を抱き寄せる。俺は女に簡単に吸い寄せられるように抱き寄せられる。俺の体重が女の力で軽々と引き寄せられるのだ。それが堪らなく怖い。

「あのさあ、男がそんなに簡単に抱き寄せられるのって・・・・」

「先、恰好なんてどうだって良いって言ったじゃない」

「言ってないよ!思ったんだよ!こっ、心の中で!」と俺は怒りを顕わにして怒鳴る。女の動きが止まる。

「御免。怒鳴ったりして。ほらっ、その、心の中でさ、よく物事を整理して、よく相手の気持ちを考えてから話しをするものだろ?」

 何故だか女の顔を想像するのが怖い。いやっ、そんな事は考えてはいけない。

「ねえ、早くう」と女が甘い声で愛を誘う。

 もう俺の顔は女の息を感じるところまで近づいている。女の顔との距離は一〇センチもあれば良い方だ。どうにも体の震えが止まらない。

「ねえ、そんなに私の」

 俺は女が言い終える前に素早く女の口をキッスで塞ぐ。震えが益々激しくなる。俺の歯が女の歯にガチガチ当たる。女は堪えられなくなったのか、俺の頭を両手で押さえつけ、力づくで俺の震えを止める。女は生暖かい舌を俺の口の中に押し込んでくる。俺の口は両頬を押さえつけられていて閉じる事が出来ない。俺の舌が女の舌に触れる。女は一瞬両手の力を弛める。その瞬間、俺は背後に思い切り飛び退く!

 しまった!何故こんな事をしてしまったんだ!俺は再び女と距離を作ってしまった!こんな恐ろしい距離を置こうとは何たる軽はずみな行動だったろう。女が動く気配はない。俺は半ば腰の抜けた状態で背後に手を突く。震えながら後退りする。女の生暖かい舌の感触がまだ口の中に残っている。どうしよう!どうしたら良いんだ!女は何をしているんだろう。こんな屈辱を受けて怒らない筈はない。いやっ、待てよ。あの女が怒った事なんてあったか。あの女の顔が鬼のように怖い顔だなんて考えたのは一体何故だ。ああ!どうしよう!あの女は今、俺の心の中を覗いているだろう。

「ふふ」

 声は前方からだ。女は動いていない。

「さあ、詰まらない事考えてないで戻ってらっしゃい」

「本当に許してくれる?戻ったら許してくれる?」

「さあ!ここに来て私にキスして!」

 女の声が近付いてくる!ああ!暗闇は嫌だ!

「怖いんだよ!拘ってしまうんだよ。本当にここは俺のためにあるのかって事に」

「あなたは存在を捨てたかったんじゃないの?両親や妻子や友人達や社会との関係すらも忘れたかったんじゃないの?」

「出来ると思ったんだ!」

「そうね。出来るわよ。ずっとここにいればね」

「でも!ここは違うんだ!俺が望んでいるのは」

「あなたは生きているっていう事に過剰に興奮しているようだけれど、実は自分の本当の気持ちをずっと偽り続けているのよ」

 女は俺に近づいてくる!俺は後退りする。

「俺は自由に生きたいんだ!俺は生きてる事に興奮してるんだ!こんな暗闇は嫌なんだよ!」

 女の動きが止まったようだ。女に後ろに回られたら、それで終わりだ。ここで止まるか。

「あなたのは自由なんてものじゃないわ。何かと理屈をつけては、現実から逃避してるだけなのよ」

 女は動いていない。

「逃避だと!」

「そうよ。あなたは自分から逃げてるの。あなたが心から望むものなんて何もないのよ。あなたはそれに気づいているわ」

「今はない!だからこそ探し続けているんだ!」

「無理ね。あなたには絶対、絶対、絶対に無理!」

「何だと、この!」

 俺は女に飛びかかる!不意を衝かれた女が地面に倒れる。俺は透かさず女の上に飛び乗る。俺は女の首に手をかける。俺は女の首を強く絞める。女は抵抗しない。

「今なら取り返しが付くわよ・・・・」

 俺は構わず女の首を絞める。もうどうにでもなれだ!女は俺の両手首を掴む。女は力づくで俺の手を自分の首から引き離そうとする。凄い力だ!女の声が低い男の声で、「今なら取り返しがつくのよ・・・・」と言う。俺は恐怖で全身に鳥肌が立つ。俺は死に物狂いで女の首を絞める。

「死にやがれ!」と俺が女に向かって叫ぶと、一瞬にして闇が想像を絶する程の強い光で満ちていく。俺はその失明する程強い光から咄嗟に眼を護ろうと、素早く右手で光を遮る。「うわっ!」


 やはり夢か。激しい長い夢だった。朝日が射し込んできている。あの爺さんの事からして夢だったんだな。聡子はもう隣にはいない。台所から物音がする。聡子が朝食を作っているのだろう。今、何時だ?六時半か。七時までいつも通り寝ていようか。まあ、起きて一服でもするか。あの女、聡子だな。何で気づかなかったんだろう。

 俺が台所の脇を通ると、「おはよう」と聡子が挨拶をする。

「おはよう」

「今朝は早いわね。また寝るの?」

「いや、もう起きる。一服しよっかなあって思ってさ」

「窓開けると寒いから玄関の外の共用廊下で吸ってよね」

「直ぐ吸い終わるから家の中で良いだろ」

「もう!」

 俺は灰皿と煙草と緑色の百円ライターを持って、居間の窓を開ける。俺は窓際に腰かける。

「うわあ!寒い!早く吸ってよね!」と台所から聡子が大騒ぎして言う。

「寒くなったら温めてやるよ。体が熱く燃え上がるような抱擁であなたを愛そう」

「本当、それ?」

「私が何時あなたに嘘をついたと言うのですか。私があなたに嘘をついた事がありますか。私はあなたに対して絶対に秘密を持たないと、結婚する時に誓ったではありませんか。私はあなたに悲しみの涙を流させる事もしません。あなたが寂しい時には仕事を休み、あなたの傍から決して離れる事はありません。たとえ、あなたが私より先に死ぬ事があろうとも、私は決して他の女性と再婚するような事はしません。私はそうあなたに永遠の愛を誓ったではありませんか。あなたはそれを忘れてしまったのですか?」

「良いから、早く吸っちゃってよ!風が寒いのよ!」

「風も寒がりな君にはすっかり嫌われてしまったようですね」

「もう吸った?」

「まだ」

「もう!」

 眠くなってきたな。小鳥の囀りが耳障りだ。どんなに寒くったって仕事には行くんだから、我ながら関心な事だ。煙草を吹かし終えたので窓を閉める。窓から離れ、便所に向かおうとしてる俺に、「もう!部屋ん中折角温かくなってたのにすっかり冷え切っちゃってるじゃない!」と聡子が不満を言う。

 俺は聡子がテーブルに朝食を置いている背後から聡子の胸を鷲摑みにし、モノを聡子の尻に当てて、「どうだ、朝立ちしたモノの感触は?」と聡子の性欲を刺激する。

「愛子が起きるまで抱いて」

「良いよ」

 俺は浮気など全くする気がない。聡子が満足する愛し方を沢山してあげたい。考えてみると、昨日は抜いてないんだなあ。乳首の立った聡子の豊満な胸を揉む。スカートの中に左手を入れ、下着の上から割れ目を擦る。聡子は気持ちの良さそうな色っぽい声を出している。何度聞いても良い声だ。綺麗で品の良い妻を貰ったものだ。もっともっと全身で感じさせてやりたい。俺は聡子が気持ち良さそうにしてる顔や声を見聞きしている時が一番幸せなのだ。聡子のクリトリスを指先で弄り回し、スカートを捲り上げて、聡子の濡れた温かい穴の中にモノを挿入する。ゆっくりとしたピストン運動で聡子を瞑想的な官能の世界に遊ばせる。このもの静かな優しい妻は俺が奉仕的な性愛に専念していると、本当に幸せそうな顔を見せてくれる。この唯一人の妻を最高に幸せな気持ちにさせる事が俺にとっての最高の喜びなのだ。妻の全身の肉体美を褒め称えるべく大切に愛撫する。俺はセックスを一通りの段取りを経ていくような形式には進めない。十分に愛していない部位に気づくと、そこに優しく手で触れ、聡子の顔が満足するまで何度もやり直して、じっくりと温めてやる。何より聡子が女として自分の膣の中に俺のモノを受け入れてくれる事に関しては十分な満足を以て感謝し、安らぎを与えたい。変態性欲の中でもアナル・セックスに関しては太い便をなかなか肛門から排泄出来ない時の異様な不快感を想像する。自分のモノを汚物に塗れさせる事でモノの価値が下げる事はしたくない。その不快感に心と体を穢される妻の事を何よりも気遣う。そういう理由から聡子のアナルには指先で肛門の入口を刺激する以上の事はしない。妻の心身の疲労を想い、全身マッサージ的な疲労回復の過程を優しく盛り込む。俺は妻の心と体に気持ち良いという感覚的な喜びが長く持続するように思い遣る。

「何処が気持ち良いの?」

「オマンコ」

「どういう風にして欲しいの?」

「奥の方をもっと激しく突いて」

「判った。愛してるよ」

「あたしも愛してる」

 妻の胸や尻や背中や太腿や脹脛が自分の好みにぴったり合っている事を念入りな長い愛撫で精一杯伝える。口づけをする時にも妻の唇や舌や歯の美しさを讃えるべく、優しく品良く唇や舌を這わせる。聡子への恋しい気持ちを丁寧に体で表現する。

 男の射精の感度というのは非常に低いものだ。俺は痛みというものに関してはほとんど快楽を覚えない。我々も僅かな夫婦生活を通じて、はっきりと言葉で痛いとか、特別気持ちの良い事ではない事は率直に伝え合ってきた。それをなかなか相手の本心とは理解されないような、本当に下手で鈍感なセックスも経験してきた。スポーツのように息の合ったセックスだけを好み、言葉のエロティシズムがとことんマンネリ化する時期も経験した。夫婦の性愛は夫婦関係における心身のコミュニケイションでもある。

「良かった?」

「うん、気持ち良かった」

 聡子はテーブルから降りて、俺に脱がされた下着を着ける。俺は便所に行き、小便をする。洗面所で洗面し、歯を磨き、電気剃刀で髭を剃る。

 居間に戻る。テーブルの俺の席の前に朝食が置いてある。席に腰を下ろし、「いただきます!」と言って、牛丼とコーラの朝食を食べる。聡子が作る食事の中でも、朝食は普通の家庭よりヴォリュームがあるのではないだろうか。食の細い人にしてみれば、牛丼とコーラの朝食なんて間違っても気が利いているとは思わないだろう。聡子の朝食は普通にトーストと目玉焼きとコーヒーだ。俺も朝食はトーストとハムエッグとカフェ・オ・レぐらいが丁度良いのだ。和食は結婚前は苦手だった。そんな俺も一人暮らしを少々経験して結婚したら、妻の作る和食が好きになった。

「来年は愛子も幼稚園に入るのよ。早いわよねえ。愛子が幼稚園に入ったら、あたしも少し子育てから解放されると思うわ」

「子育てはお前に何もかも任せきりだもんな。気持ち良い事はアソコが熱くなるまで幾らでもしてやるからな。子育ては頑張ってくれよ。一人で大変な時はお袋に愛子を預けても良いんだぞ。お袋の方もそれが楽しいんだから、遠慮はいらないぞ」

「うん」

「子供の面倒を看ながら、よくあれ程の読書をこなせるな」

「その辺は本好きの自分が本当にしたい事だから出来ちゃうのよね。牛丼美味しい?」

「うん。美味しい」

「今度、愛子と三人で映画観に行こうよ」

「ああ、良いねえ。お前を何か良いコンサートに連れていきたいんだよな。ストレスとかぶっ飛ぶようなのが良いだろう。お前は理性的な女だけど、自然に体が揺れるような音楽に出会えば、きっと無類の音楽好きになると思うんだよ」

「あなた程音楽好きじゃないだけで、あたしも普通に音楽は好きよ」

「ふうう。御馳走様でした」

「あなた、こっちに来て、チュッてして!」

「うん。良いよ」

 俺は聡子の方にテーブルを回り込み、聡子の唇に口付けをする。

「これでいい?」

「うん」 俺は聡子を従えて寝室に向かう。寝室で聡子の手からハンカチーフと使い捨て懐炉を受け取り、スラックスの右のポケットに入れる。

「じゃあ、行ってくる」と俺は玄関まで見送りにきた聡子に言うと、聡子の唇にキッスをして家を出る。最近越してきたらしいアパートメントの隣人がごみ袋を持ってドアーを開ける。大学生だろう。チラッと見えた家の中は暗く、初めて見る隣人の顔はとても陰気だ。隣人は挨拶らしき事は何も言わず、会釈だけして先に共用廊下を階段の方へと歩いていく。俺も隣人の後ろから共用廊下を階段の方へと歩いていく。階段を下り、アパートメントの裏手の公園の金網の穴を潜り抜け、公園に入る。公園を通り抜けて徒歩でJR蒲田駅に向かう。

 定期を見せ、JR蒲田駅の改札口を通る。階段を下り、プラットフォームに停車している蒲田駅発東京駅方面行きのJR京浜東北線に乗車する。満員電車の車内に立っていると、見た事のある顔を座席に座った人の中に見つける。ラッシュ・アワーの満員電車で見かけたその顔は高校時代のクラスメイトだ。彼は勤め人の着る背広姿ではなく、私服姿の軽装だ。まだ学生なのだろうか。何となく俺が彼の方を見ていると、そのクラスメイトが不意に俺を見る。俺は彼の方に軽く手を上げてみせる。名前は何だったか、よく憶えていない。学生の頃の彼は余り目立つタイプではなかった。彼には自分がどういう人間かを一言で言い表わせるような特技や個性もなかったように思う。彼は俺に気づくと、座席を立って近づいてくる。

「清高君だよね?久しぶり!立派に背広なんか着て見間違えたよ」とよく知らないクラスメイトが懐かしそうに言う。誰だったっけな、こいつ。名前が思い出せない。久々に遇った彼は背も俺より頭半分高くなっている。

「君、まだ学生?」

「うん、そう。清高君、すっかり社会人してるじゃん!」

「いやあ、そうでもないよ」と俺が謙遜して言うと、彼は険しい目付きで、「社会人してるよ」と少し威圧的に言う。何だ、こいつ・・・・。

「まだ学生の人多いのかな?」と何気なく彼に訊くと、「小沢に此間遇ったけど、やっぱりもう背広着てたよ」と彼が笑顔で言う。

「小沢って、誰?」

「あの、一年の時に一緒のクラスだった背の小さい奴」

「いやあ、全然憶えてない。親しかったの、君?」

「一回消しゴム借りた時に話しかけた事がある」

 一回、消しゴム借りた時に、話しかけた事がある、か・・・・。

「君、誰と仲良かったの?」

「あの学校ではあんまり親しい友達はいなかった」

 今はどうなんだろう・・・・。

「君、何処で降りるの?」

「品川駅」

「今、大学生?」

「大学院生」

「おお、凄いねえ」と俺が言うと、彼は真顔になり、「凄くないよ」と不機嫌そうな顔付きで怒ったように言う。彼とは多分話した事はないな。

「学生ん時、俺達話してないよね?」

「話したよ。確か一年の一学期の時に、清高君が『今日、プールあんのかなあ』って訊いてきて、『雨の日はないそうだよ』って話した事がある」

 話した事あるって、そんな事・・・・。

「清高君、彼女いるの?」

「彼女?俺、もう結婚して子供もいるよ」と答えると、彼は険しい目付きで、「だから・・・・、彼女とかいるのかって」と酷く悔しそうに口籠る。

「ああ、奥さんだけど、彼女には違いないね」

「奥さん、綺麗?」と彼が機嫌を取り直して、笑顔で尋ねる。

「まあ、ブスではないと思うよ」と俺は努めて愛想よく答える。何だ、こいつ!全く会話に柔軟性がないぞ。彼は学生の頃より体格はがっちりとしてきている。こいつ、俺がもうこれ以上話さなければ、品川駅まで何も話さずに黙ってるんじゃないか。俺は心を落ち着け、完全に黙り込む態勢に入る。俺が黙っていると、彼は俺の前で何も話さず、ただ微笑んでいる。やっぱりこいつ、もう自分からは話せないな。品川駅で降りるって言ってたな。じゃあって、お別れを言うのも止めよう。今度遇っても、もう絶対に手なんて振らないぞ。そうすればこいつ、多分近づきも話しかける事も出来ないだろう。

 品川駅に着き、彼がちらっとこちらを見る。彼は別れを言おうかと考えているようだ。俺が何も言わずにいると、案の定彼は何も言わずに下車していく。座席が丁度空く。俺はそこに腰を下ろす。座席に腰を下ろすと、目を瞑ってピンク・フロイドの『アニマルズ』を頭の中で再生する。俺は頭の中で正確な歌詞と正確な声で歌いながら、正確に演奏も再現する。学生の頃は通学時に必ずポータブル・カセット・テープ・プレイヤーを持って出かけた。毎日音楽を聴きながら電車に乗って通学していた。社会人になってからは仕事前に趣味の音楽など聴いていたら、その日の仕事を忘れると困るので聴かなくなった。

 JR新橋駅で下車し、会社に向かう。会社は先に述べたように、某出版社のロック系の音楽雑誌の編集部だ。

 会社に出勤する。編集長が先に出勤して仕事を始めている。

「おはようございます」

「おお、清高君、おはよう」と編集長が段ボール箱を積みながら挨拶する。年齢はまだ三十一歳の若い編集長だ。

「清高君!一寸これ手伝ってよ!全部これ、ここに積んでってくれないかな?」と編集長がフェルト・ペンで発送先の宛名をアルファベットの頭文字だけで記した段ボール箱を指差して言う。この編集部での一番の働き者は他でもないこの編集長御本人だ。

「編集長、これ何の箱ですか?」

「ううん、倉庫に入れるCDが間違ってこっちに届いちゃったんだよ」

 俺の担当の仕事は一応音楽ライターである。俺の会社の机の上には常にレコードやCDが山積みされている。一枚のレコードやCDに関する記事を書くのに、関連するアルバムを何枚も聴き直すからだ。一枚のアルバムの記事の執筆を一仕事終えると、その資料の山を全部片付け、次の仕事に取りかかる。このように会社でレコードやCDを入念に聴き込むため、通勤途中ではほとんど音楽を聴かないのだ。因みに今の俺が書く音楽記事のほとんどはプログレから派生してきたと思われる日本未発売の欧米の音楽全般である。この視点は全く自分独自の視点ながら、現時点ではこの視点を公に紙面で明かす事は避けている。現時点からも俺の将来的なオリジナルの体系付けが一般化されるだろう事は先ず間違いないと確信している。俺はそんな見通しを考えに入れ、緻密な構想を基に全ての記事を書いている。自分の世代的な夢は六十年代から八十年代までにデビューしたプログレのアーティストやバンドのライナー・ノーツを書く事だ。実際に自分が会って話したいと思うアーティストやバンドも、やはり、六十年代から八十年代にデビューしたプログレのアーティストが多い。近い将来、実際に好きな音楽家と会って話す機会を得た時に、自分の職業がミュージシャンではなく、音楽ライターである事がきっと悔やまれるだろう。一人の音楽好きとして、好きな音楽家と直に会って話す機会を得ていながら、意気投合した時点で即一緒に音楽をやるのではない人間関係程虚しいものはない。


 会社の仲間と一緒に、いつものように昼飯を食べに行く。『楽々屋』と言う近くの食堂だ。

 いつもの四人席に上原さんが奥に座り、その向いに俺が座り、後輩の岩下が俺の右隣に腰を下ろす。店内には紺や灰色のスーツを着たOL達が沢山いる。如何にもお嬢様という感じの綺麗な女が一人いる。俺は離れたところからじっとその女の顔を見ている。

「いらっしゃいませ!御注文はお決まりですか?」と赤いエプロンを着た一〇代後半ぐらいの細っこい地味な女の子が注文を取りにくる。

「ああ、とんかつ定食をお願いします」と上原さんが早速注文する。

「僕もとんかつ定食をお願いします」と岩下が続いて注文する。

「僕は盛り蕎麦をお願いします」と最後に俺が注文する。

「とんかつ定食御二つと盛り蕎麦御一つで宜しいですね?」

「ああ、はい」と上原さんが少し強張ったような笑顔で返事をする。

 四歳年上の先輩である上原さんは既婚者である。一つ年下の後輩である岩下は独身で親元から通勤している。三人共スーツ姿である。上原さんは黒みがかったグレイの背広、岩下は黒い縦縞の入った茶の背広、俺は明るい青の背広を着ている。

「昨日、俺、久々に『イージー・ライダー』観ましたよ」と岩下が話し始める。岩下は四角い気の弱そうな顔に短い針鼠のような髪型をした男である。少し腹が出ていて、体付きや手足の印象は何処かずんぐりむっくりとしている。

「あの映画は色んな微妙な感性を教えてくれるよな」と俺は懐かしさに浸るような距離感でぼんやりと受け答えする。

「『イージー・ライダー』から教わる事って、ヒッピー文化とアメリカの音楽の新しい感性ですよね」と岩下が自分が切り出した話を生真面目に纏める。

「お前もフリー・セックスしたいのか?」

「フリー・セックスに関しては余り興味ないですね」

「セックスには興味津々なのか?」

「好きな人とずっと愛あるセックスをしていたいだけですよ」

「ほう!愛あるセックスか!」と俺は興奮したような声で叫ぶと、人の頭を勢い良く蓋するように、岩下の頭に右掌を重々しく落とす。

「セックスが中毒になるのが嫌なんですよ。いつまでも少年の頃のように、セックスのいらない生活を普通に維持していたいんです」

「ほう!男が一度セックスを経験すると、それはそれは大変な事になるんだな」

 注文した盛り蕎麦はまだこない。俺は腹を空かして盛り蕎麦を食う事より、向こうの席にいるような美人を何時までも無遠慮に眺めていたい。


 今日も仕事を終えた。駅周辺は人込みが頂点に達している。蒲田駅方面行きのJR京浜東北線の乗り場へと階段を上っていく。忙しなく煙草を三服吸い込み、階段途中に煙草を捨てる。

 プラットフォームで数人のサラリーマンと一緒に電車を待つ。前にはいつもの五〇代ぐらいの禿頭のサラリーマンが頻りに頷くように頭を動かしている。

 蒲田駅方面行きのJR京浜東北線が轟音と共にプラットフォームに入ってくる。電車の溜息みたいな音の後に自動扉が開く。一斉に人々が電車に乗り込む。

 入って手前左のシートが空いている。俺はそこに腰を下ろす。前には昨日の女が座っている。女はじっと怖い眼で俺の顔を睨みつけている。俺は終点まで眠る事にする。


 俺は終点JR蒲田駅で下車する。今日はプラットフォームを少し引き返し、別の階段を上る。駅ビルに出ると、昨日とは反対側の東口から外に出る。学生の頃のように東口から出て、中古レコード屋に寄り、中古レコードを見にいくのだ。

 中古レコード屋の店内で中古レコードを見ていると、同じ中学校時代の顔見知りがいる。彼は確か高校時代もここで見かけた。図書館などでも何度か出くわす事があった。いつも一人で行動しているような、友達の少なそうな印象がある。今では背も小柄で、作業服のような服装をしている。態々声をかける程親しくもない。思えば、色々な共通の知人が彼の事を俺に話した。ロックを聴かない友人達が必ず自分の代わりに彼を紹介するのだ。彼とは縁があるようでいて、距離感は学生時代もその後も一向に縮まらない。第一彼とは毎回目が合わない。向こうも俺を見て積極的に話しかけようとはしない。

「よう!君、昔からよくこことか図書館で見かけるよね」と俺は思い切って彼に話しかける。木幡と言うその男はちらっと俺を見て、「ああ、君はよく見かけるよ」と言う。木幡はまた中古CDの方に視線を戻す。

「大田と友達なんだよね?」と俺が共通の友人の事を確認する。

「大田?大田知ってんの?」と木幡が話に乗ってくる。

「うん、知ってるよ。何年かに一回は必ず会って話す。俺の名前知ってる?」

「いや、知らない」

「木幡君って、俺はちゃんと君の名前知ってるよ」

 木幡は頷きながら、また中古CDを見始める。

「プログレ聴く人だよね?」

「うん、まあね」と木幡があっさりとした口調で答える。

「俺もプログレ聴くんだよ」

「誰が好き?」

「ノヴァリスとか、ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレイター辺りが好きだね。俺、音楽雑誌のライターの仕事やってて、プログレ系の輸入盤CDを専門に記事を書いてるんだ」

「へえ、良いなあ、その仕事」

「仕事何してるの?」

「平和島の方で倉庫作業してる」

「アルバイト?」

「いや、一様正社員ではあるんだけどね」

「音楽自分でもやるの?」

「時々ね」

「楽器は何弾くの?」

「まあ、何でも。ロック・バンドがよく使うような楽器なら全部」

「最近、大田どうしてる?」

「元気にしてるよ。相変わらずだけどね。一緒に飲みに行こうか?」と突然、木幡が俺を飲みに誘う。

「俺、酒飲めないんだけど、居酒屋とかは雰囲気が好きでね」

「じゃあ!行こう!一寸、これ直ぐ買ってくるから、外で待ってて!」

 悪い奴じゃない。感じの良い奴だとも思わない。人間としては先ず本物だ。彼は等身大の自分で堂々と生きている。寧ろ、俺の方が自分を偽っているように思う。

 木幡が店から出てきて、俺と一緒に繁華街の方に向かう。

「大田も呼ぼうよ!」と俺が言ったら、「ああ、じゃあ、俺が電話番号知ってるから、電話かけてみるよ」と木幡は言って、コンビニに電話をかけに走っていく。俺はその場に立ち止まり、木幡が戻ってくるのを待つ。

「大田来るって!三〇分ぐらいしたら駅に迎えに行く事になった。まあ、今日は土曜だし、ゆっくりと三人で朝まで飲もうや!」と木幡が機嫌良く言う。

 こういう感じの男だったのか。俺は初めて木幡の素顔を知った。どうりで昔から友人達が俺との会話にこの男の名を出す筈だ。何だか誰にとっても親友みたいな男だ。

 木幡は初めて話す俺と居酒屋に入る。俺達は細身の女の店員に案内されたテーブル席に向かい合って座る。木幡は早速店員に、「生ビールの中ジョッキと焼き鳥と肉じゃがと冷奴をお願いします」と注文する。「君は何にする?」

「ああ、俺はコーラとフライドポテトとサイコロステーキと梅のお握りをお願いします」

「はい、畏まりました。繰り返します。生ビールの中ジョッキお一つと焼き鳥お一つと肉じゃがお一つと冷奴お一つとコーラお一つとフライドポテトお一つとサイコロステーキお一つと梅のお握りお一つ。以上で宜しいでしょうか?」と店員が俺と木幡の顔を交互に見て言う。

「はい。お願いします」と木幡が店員の顔を見上げ、生真面目な口調で言う。

「それでは少々お待ちください」と店員は言って、俺達のテーブルから足早に厨房の方へと去っていく。

「居酒屋よく来るの?」

「土曜に時々ね」と木幡がメニューを見ながら答える。

「どの辺のプログレが好きなの?」

「ううん、やっぱり、イングランドのバンドかな。ピンク・フロイドとか、キング・クリムゾンとか」

 やっぱり!こいつは全く自分を飾らずに答えてきたぞ!

「狂気の世界だね」

「ああ、まあ、そうだね」と木幡が口より眼の方が多くを語るような独特な眼付きで、まじまじと俺の眼を見て答える。

「俺も好きだよ。ピンク・フロイドとかキング・クリムゾン辺りは独身の頃によく聴いてた」と俺はメニューを見下ろす木幡の短く清潔感のある黒い髪を見て言う。

「どの辺が好きだった?」と木幡がメニューから顔を上げた瞬間に俺の顔を一瞥して訊く。

「ピンク・フロイドなら、やっぱり、『原子心母』かな」と俺は腕組みをして首を傾げながら答える。

「ああ、良いよねえ」と木幡がニヤニヤとした眼でメニューを眺めながら言う。

「ピンク・フロイドはメンバーのソロ・アルバムなんかも好んで聴いてたよ」と俺は笑顔で言う。

 よし!心を落ち着けて話すぞ!誇張はなしだ!愛だろ?語るべきところは心得てるんだ!一寸久々だけどね。なあに、まだそれ程擦れちゃいないよ。愛だけでは負けると思うけどね。俺は長く木幡の反応を待っている。木幡は何の受け答えもしない。俺は仕方なく話題を変える。「プログレ以外にも音楽は聴くんでしょ?」

「聴くよ。ニール・ヤングとか、クリス・レアとか、ニック・ケイヴとか、U2とかね」と木幡がメニューを真顔で見下ろしながら答える。

「ほう!俺はグラム・ロックとかアヴァンギャルドをよく聴くよ」

 ここでまたバチッと来るな!

「ああ!俺、その辺はダメだ。ヘタウマはダメなんだよ」と木幡が顔を上げ、本当に申し訳無さそうに困ったような顔で言う。

「なるほど」

 こいつは一寸他の人とは違うな。グラム・ロックやアヴァンギャルドがヘタウマって解釈か。俺は何も気にしてない風を装って、再び話題を変える。

「で、さあ、先、何買ってたの?」

「ううん、見る?」と木幡が渋々と俺に買い物袋を手渡す。何で俺は競って音楽を聴く仕方しか知らないんだろう。もっと落ち着いて、じっくりと好きな音楽を語り合いたい。

「四人囃子に、カルメン・マキに、小坂忠・・・・。日本のも聴くんだね」

「まあ、たまには言葉が直接胸に響く音楽も聴きたいじゃん」と木幡が椅子の背凭れにそっくり返り、当然の事のように言う。

「なるほどね」と俺は相手の反応を狙ったような自分の発言が度々的外れになる事に少々疲れを感じながら言う。「俺も仕事柄日本の素人バンドのデモテープをよく聴くんだよ。日本のロック・バンドがメロディーの上に乗せる日本語の歌詞が今一つ綺麗じゃない時に日本語の硬さを感じるんだけど、それが外国では逆に面白がられるんじゃないかって思う時があるんだよね。何か、いやあ、そのう、俺がドイツ語を全く判んないからかもしれないけれど、何かその、ドイツ語で歌われる音楽をドイツ語が全く判らない人間が聴く時の面白さみたいなさあ、そういう面白さが日本語の歌詞にもあると思うんだよね」

「うんうん」と木幡が大真面目に頷きながら、相槌を打つ。

 先の女の店員が俺達のテーブル席に注文の品を運んでくる。

「生ビールの中ジョッキと焼き鳥と肉じゃがと冷奴はこちらで宜しいでしょうか?」

「ああ、僕です」と木幡が畏まった口調で優しく答える。

「畏まりました」

「コーラとフライドポテトとサイコロステーキと梅のお握りはこちらですね」

「はい」

 店員は俺達に注文を確認しながら、二人が注文したものをそれぞれの席の前に置く。その間、俺達は音楽の話を中断する。

「ご注文は以上で宜しいですか?」と店員が俺達の顔を交互に見ながら訊く。

「はい。ありがとうございます」と木幡が立っている店員の顔を見上げて言う。店員は木幡にこくりと小さく頷くように会釈する。

「それではごゆっくりどうぞ」と女の店員は言って、俺達のテーブルから遠ざかっていく。木幡は直ぐに俺の方に顔を近づけ、「そのさあ、日本語の判らない西洋人のリスナーに日本語の歌の面白さって、本当にあるのかなあ?」とかなり真剣な眼で俺に訊く。「例えば、クラフトワークの曲の中で日本語が使われたよね?」と木幡が真剣な顔で話す。俺もこの辺になると本気で話してみたかった事なので、思わず木幡の方に前のめりになる。

「ああ、うん。なるほどね。カンのダモ鈴木は英語で歌ってたよね。何でホルガー・チューカイとか他のメンバーはダモ鈴木が日本語で歌う事を面白がらなかったのかな」

「その辺の事は当時のカンの記事とか読まないと判らないんだけれど、世界を相手にバンドをやるとなると、当時としては日本人のヴォーカリストをメンバーに入れるって事だけで十分に新しかったし、あの時点ではドイツのバンドで日本人のヴォーカリストのダモ鈴木に日本語で歌わせるって発想は西洋人の感覚としてまだなかったんじゃないかな。俺はあの当時に日本人のダモ鈴木がドイツのバンドに入って英語で歌ってみせたって事が物凄くカッコイイ事だと思うんだよね」

「ううん、そうか。そうだよね。カッコ良いよね。確かに初期のカンの音楽を今の時代感覚で論じるのは意味がないね」

 木幡はよく冷えたビールを中ジョッキで飲み、俺はコーラを飲む。木幡と俺はそれぞれ腹の足しになる物を黙々と食べる。

「あれ!大田迎えに行かなくて良いの?」と俺が漸く思い出して木幡に訊く。

「あっ!ヤバッ!一寸駅に行ってくるわ」と木幡は言って、居酒屋を駆け足で出ていく。

 木幡は直ぐに俺が待つ居酒屋に戻ってくる。

「よう!大田!」と俺は店内を見回す大田に声をかける。

「おお!清高!」と大田は言って、俺のいる席の方に歩いてくる。大田は一八〇センチ近い長身の美男子で、昔から勉強もスポーツも出来る万能ぶりを発揮していた。

「木幡と知り合いなの?」と大田が立ったまま上着を脱ぎなから、俺に訊く。

「いやっ、今日初めて話したんだよ。まあ、座れよ」

「おお」と大田は言って、木幡の左隣、俺の右斜め前の席に腰を下ろす。

「大田、今日、会社は?」

「ああ、仕事はしてきたよ。帰ってきて、家で本読んでたよ」

「大田もよく図書館で偶然遇う奴なんだよな。小説とか読んでるの?」

「まあ、小説も読むよ。小説ばっかりじゃないけどな。最近の作家は全く読まない」

「ノーベル賞受賞作家とか、芥川賞受賞作家なんかでも、最近の作家の本は読まないの?」

「そういうのはあんまり関係ないな。ノーベル賞なんて政治的な思惑が絡んで贈られるものだし」

「ノーベル賞作家の書く小説がどう政治に反映するんだよ。川端康成にノーベル賞贈って、何か政治が変わったり、世界に影響を及ぼす訳?」

「まあ、例えるならオリンピックなんかと同じようなもんだよ」

「まあ、政治の話なんか聞いても、俺にはさっぱり判んないんだけどさ(笑)」

「三島由紀夫とかボブ・ディランなんかは何度もノーベル賞にノミネイトされては落ちてたもんな」と木幡が肉じゃがを食いながら、ぽつりと言う。

「お前も折角居酒屋に来てんだから酒飲めよ」と大田が俺に酒を勧める。

「じゃあ、一寸日本酒でも飲むかな」

「飲みなよ。居酒屋に一緒に来てて酒飲まないなんて詰まんないよ」と木幡が真っ赤な顔をして、見開いた眼で俺を見て言う。

「すみませえん!」と俺は右手を上げて、大声で店員を呼ぶ。

「はあい!」と二〇代らしき女の店員が答える。店員は途中で呼び止める客に何か言いながら頭を下げると、俺達の席の方に早足に近づく。

「あのう、日本酒を熱燗で二本お願いします」と俺はぽっちゃり型のそこそこ美人の女の店員の眼をまじまじと見つめて言う。

「ああ、俺はビールを大ジョッキ一つと、カルビー・ビビンバと枝豆ください」と大田が立っている女の店員の顔をほんの少し顎を上げるぐらいの座高で注文する。

「はい。繰り返します。日本酒を熱燗で二本、ビールを大ジョッキでお一つ、カルビービビンバお一つ、枝豆お一つ、以上で宜しいですね?」と店員が笑顔で注文を確認する。

「はい。お願いします」と俺は丁寧に店員に答え、右目で店員にウィンクする。ウィンクされた店員の顔からたちまち笑顔が消える。『時をかける少女』の頃の原田知世を思わせるショートカットがとても爽やかで似合っている。店員は伏し目がちに頭を下げると、俺達のテーブルから足早に厨房の方へと去っていく。木幡と大田は俺が店員にウィンクしたのを知らない。俺はその店員の後姿をずっと眼で追っている。顔は原田知世というより、ハーフっぽい色白な美形だ。大きくて薄い唇に真っ赤な口紅を付けている。上半身は細身で、少し下半身デブのようにお尻が大きくて脚が太い。女子高生体型とでも呼ぶべきか、顔がモデル並みに綺麗な割りには何となく気軽に話しかけ易い。美人美人したところのない、普通の子っぽい温かみを感じさせる。

「クラッシックは指揮者によって音楽が全然違うものになるからな」と大田が木幡と熱く音楽を語り合っている。俺がこの二人の付き合いの間に入ったのは今日が初めてだ。

「クラッシックはベートーヴェンの交響曲とか、ショパンの『ノクターン』とか、ドビュッシー、サティー辺りは聴くよ」と木幡が生真面目な顔つきで大田の眼を見上げ、食い入るように大田の眼を見つめて言う。

「ああ、それはこれからどんどんクラッシックに入り込む可能性があるな」とこの中では身長も座高も一番高い大田が左隣に座った小柄な木幡を見下ろして言う。

「有名どころの作曲家のアルバムは大概持ってるけど、一人の作曲家のCDが全部揃ってるのはないなあ」と木幡は言うと、テーブルの方に視線を移す。木幡は冷奴の皿を手に持ち、口許に近づけると、冷奴を割り箸で掻き込むようにしてペロリと平らげる。更に中ジョッキに三分一残っていたビールを喉仏を上下させて飲み干す。木幡は空になった中ジョッキをテーブルに置くと、店内を見回す。そこに先程の店員が俺達のテーブルに注文の品を運びに来る。

「日本酒の熱燗二本は?」と女の店員が白い眼で俺を見下ろして言う。何だよ、先、俺にウィンクされた事で怒ってるのか。

「ああ、俺です」と俺は小さくなって、怖ず怖ずとした口調でペコペコと頭を下げながら答える。店員は丁寧に俺の席の前に熱燗二本とお猪口を置くと、「ビールの大ジョッキは?」と気を取り直したような笑顔で俺に訊く。

「俺です」と大田が右手を軽く上げて答える。店員は笑顔で大田の方を向く。店員は大田の席の前にビールの大ジョッキを丁寧に置き、「カルビービビンバは?」と続け様に大田に訊く。

「それも俺です」と大田が男らしい落ち着いた口調で答える。店員は大田の席の前に丁寧にカルビービビンバの丼とスプーンを置くと、大田に向かって再び笑顔で、「枝豆は?」と訊く。

「ああ、それも俺です」と大田が軽く右手を上げて答える。店員は大田の席の前に丁寧に枝豆の皿を置く。

「以上で宜しいですね?」と店員は直立姿勢で俺達の顔を見回して訊く。

「ああ、あのう、ビール中ジョッキで一つお願いします」と木幡が生真面目な顔で追加注文する。

「ビールの中ジョッキをお一つですね。ご注文以上で宜しいでしょうか?」と店員が俺に背を向け、二人を斜めに見て訊く。木幡がこくりと小さく頷くような会釈をし、「はい」と生真面目な口調で答える。店員はちらりと俺の方に振り向き、にやりと俺に笑顔を見せる。店員は俺達のテーブルから遠ざかっていく。俺は心の中で、あんな

もんが知世ちゃんになれるもんかと呟き、お猪口に熱燗を注ぐ。俺は熱燗を口に含み、口の中全体をしっとりと酒で浸す。ゆっくりと酒独特の嫌な辛さを味わい、喉に流す。何でこれを美味いと自分に言い聞かせるんだろう。俺は箸でサイコロステーキの最期の一塊を口に入れて噛み砕く。サイコロステーキを味わって食べると、続け様に残りのフライドポテト数本をケチャップに付けて平らげ、梅のお握りの食べかけを口に頬張る。

「最近、ロックは聴いてるの?」と木幡が生真面目な顔で大田を見上げ、食い入るように大田の眼を見つめて訊く。

「イエスとかELP関連とかは相変わらず聴いてるよ。後はインヴェイとかディープ・パープルとか、ハード・ロックだな」と大田がカルビービビンバをスプーンで食べながら、冷静な態度で答える。「今日は何で清高と二人でいたんだよ?」

「中古レコード屋で偶然遇ったんだよ。大田の事知ってるみたいだったから、一緒に飲もうかって誘ったんだよ」

「ふううん」と大田が大して興味もなさそうに言うと、カルビービビンバの丼を抱え込み、掻き込むようにして平らげる。

 二人が話している様子を傍で見ていても、俺の知らない二人だけの顔を覗かせる様子はない。恐らく大田と木幡の二人が揃った三人での付き合いとはこういう二人の人間との付き合いなのだろう。俺達が卒業した公立の中学校の同級生にはこの三人以外のプログレ・ファンは恐らく卒業前も卒業後もいないだろう。大田とは深くプログレについて語り合った事はない。大田は基本的には文学とクラシックを愛する人間だ。俺は熱燗を一本空け、二本目の熱燗をお猪口に注ぐ。

「清高」

 俺は熱燗をまたお猪口で飲み干す。

「清高!」と大田が俺の顔を見て大声で呼ぶ。

「ああ、何?」と俺は完全に酔っ払って、目が回るような不安定な意識で大田の呼び声に返事をする。

「お前(笑)!顔、真っ赤だぞ!」と大田が何とも可笑しそうな笑顔で言う。

「何だか眠くなってきたよ」と俺は目を瞑り、舌のよく回らない口調で言う。

「眠いなら、寝てろ。帰る時にはちゃんと起こしてやるよ」と大田が言う。「座敷の方が良かったかもな」

 テーブルの上に腕を置き、その腕の上に重い頭を載せる。何か瀬戸物が床に落ちて割れる音がする。余りに眠気が酷く、それを確認するだけの注意力も残っていない。


 色彩豊かな幾何学模様でデザインされた何処かの学校の廊下の向こうで、紺の背広姿の職員らしき若い男が手を振っている。廊下の右側は校庭に面した窓で、眩しい陽が廊下に射し込んでいる。俺は暗いロビーに突っ立ち、手を振る職員に会釈する。俺が立っている暗いロビーの床にも動物の輪郭模様のデザインが一面に施されている。照明が暗いため、床の色はモノクローム用の色覚で区別している。廊下の方に向かって一歩踏み出すと、デザインされた床の塗料が乾いていないため、足下が滑る。俺は一瞬の判断で絶対に倒れて服を汚すまいと、滑り易い床の上で踊るようにバランスを取る。床の上のデザインが俺のせいで滅茶苦茶になっていく。

「すみません!どうしましょう?床の絵が!」

「絵の事は気にしないで、頑張ってこちらに来て戴けますか!」と職員が遠く離れた廊下の向こうから大声で言う。その職員の大声には内心嘲笑っているような声質が混ざっている。その職員は小学生の時の同級生で、内藤康と言う小中と俺専用の苛められっ子だった男だ。講演を依頼したゲストに対して、あの嘲笑うような声はどんな理由があろうと絶対に赦さん!ガキの頃と同じように、向こうに着いたらシコタマ拳骨で頭を殴ってやる!クソ!これじゃあ、転んで服が汚れるかもしれないな。ふざけんじゃねえぞ!前面ペンキが乾いてねえじゃねえか!内藤が遠くで俺の様子を見て笑い、「清高さん、頑張って!」と大声で叫ぶ。俺は足を右に左に滑らせては巧みに体の重心を保って倒れないようにしている。この動きが人目には間抜けな踊りに見えるかもしれないのだ!よおし!俺は体の重心の取り方にコツを得てきた。俺にもアイス・スケート場のアイス・スケーティング・リンクの上で直立姿勢を維持するぐらいの安定感はある。

「おお、清高さん、やりましたねえ!」と内藤が遠くから気の弛んだような声で誉めそやす。

「どうだ!大したもんだろ?」

「ええ、流石は清高さん。それではこちらの方までゆっくりと転ばないように来てください!」

「馬鹿野郎!そこまでどれだけ距離があるか判ってんのか!」

「すみませえん。ほんとに申し訳ありません」と内藤が気の弛んだような声で気のない謝り方をする。アイツとはもう大人同士の付き合いになるんだなあ。俺はもう細かい事は一切気にせず、アイス・スケートでもするように、全く滑りながら廊下の方へと進む。暗いロビーの空間から明るい廊下を滑り、漸く内藤の横に来る。

「それでは体育館の方に清高さんの講演を待っている子供達が大勢いるので、これからそちらに御案内致します」と紺の背広姿の内藤が右手を前方斜め上に差し出し、少し体をこちらに傾けた前傾姿勢で校内を案内する。

 段々と体育館のざわめきが近づいてくる。

「おい!清高!起きろ!」

 何だかやけに騒がしいなあ。ああ、そうか・・・・。腕の上に載せた頭が重く、俺はゆっくりと目を開ける。ああ、なるほど。居酒屋にいたんだった。夢見てたのか。

「あああ、よく寝たなあ。今、何時?」と俺はゆっくりと上半身を起こし、涎が垂れた顔を見られないようにと、俯いたまま手早く口元を右掌で拭う。涎は出ていない。内藤は小学校の教師なんかじゃない!あいつは近所の駅ビルの本屋に就職したんだよ!

「そろそろ始発の電車が出るから、会計済ませて店出るぞ」と大田が上着を着ながら言う。

 酒が入ったら、全身が燃えるように熱くなり、目が回ってきたんだよなあ。飲み始めたら、まだまだいけると思って飲んでいる裡に段々と眠くなってきて、ああ、何か落として割っちゃったんじゃなかったかな。俺はテーブルの左下を見る。何も落ちていない。仮に何か落として割っちゃってても、もう掃除してくれてるんだろう。

 ここからは家も近いし、今日はもう日曜日で仕事もない。ああ、頭がガンガンする。俺にはやっぱり酒が合わねえんだなあ。

「清高、立てるか?」と大田は言って、俺の左脇に腕を通して俺の体を支える。大田は俺の体を右腕片方の力だけで引き上げ、立ち上がるのを手伝う。

「ああ、大丈夫大丈夫、ありがとありがと」と俺は大田に礼を言う。俺は立ち上がった前傾姿勢でテーブルの上に両手を突く。あああ、気持ち!吐きそう。俺は吐き気を何度も飲み込む。

 朝方、三人で居酒屋を出る。雪が降り頻っている。三人で酒を飲んでいる間に何時の間にか辺り一面雪景色に変わっている。

 俺はJR蒲田駅で二人と別れ、何時も通り徒歩で家に帰る。頭が熱くて眠たくて、その上歩行も儘ならない。何とかアパートメントの手前の公園に入る。家は直ぐそこだと言うのに、何だか脳から気持ちの良いものが出てくる。段々と眠気に抵抗する意味が失われていく。人間って気持ちの良い事に逆らい続けるには限界があるんだなあ・・・・。あああ、雪って冷たくて気持ちが良い・・・・。


 機械の仕掛けが至る所にある。その仕掛けと仕掛けが関係し合い、際限なく小さな機能と大きな機能とが相互に繋がり、独自の働きをなしている。この外界は果たして我々人間の人体の模倣なのだろうか。何処がどう機能しているのか。個々の部位を作った専門家達に説明されても、恐らく、俺は総体的には把握出来ないだろう。全てが揃っている。それは容易に理解出来る。より高度な技術により、古い物の一部が一つずつ新しい物に交換される。全ての古い物が一遍に交換されて一新される事はない。古い物にはとてもスウィートな感性が行き届いている。廃棄処分された部位ですら何らかの機能を残し、活かされている。全ては生きている。俺がこうして今生きているのと同じような意味合いで生きている。必ずしも小さな機能が大きな機能とされる物に劣っている訳ではない。結局のところ、機械の開発や発展には何一つ破壊される機能がないのだ。人間は自然界の一部として機能する。その時に自然界との調和が問題視される。調和の問題は人間一人の一点解釈で計れるようなものではない。寧ろ全ては調和している。あらゆる事物や物事が調和力によって向上している。あらゆる事物や物事が調和力によって機能している。色彩には一見黒く一面を蔽っているように見える物の中にもあらゆる色が混ざっている。一見白く一面を蔽っているように見える物の中にもあらゆる色が混ざっている。それは青にしても赤にしても黄にしても同じだ。一つの波が消滅するように見えるところから別の波が生まれる。跳ね返るとか、反作用と呼ばれる力の働きも、それ自体を一つの運動として捉える事が出来る。それは部位の集合体からなる一つの総体的な機械の働きを意味する。セックスも男性のピストン運動の一方だけで説明する事は出来ない。同じように部位の正確な概念を把握するには科学認識や言語的な意味の一部を書き換える必要性が生じてくる。例えば、卓球と言うスポーツは二人乃至四人で行うスポーツ競技と認識されている。卓球の競技自体を一つの機械の働きと考えるならば、二人乃至四人が一つずつの部位であるとも考えられる。卓球の競技の部位としての機能は二つ乃至四つの人体だけで成立するのではない。テーブル、ボール、ラケット等には人体の機械的な働きを利用する人体同様の大きな機能が卓球の運動機能においてある。もう一つ例えるならば、ゴミだとか腐敗物と称する言語認識はゴミや腐敗物が潜む総体的な宇宙の機能や実態を見えなくしている。そのように部位の機能に認識の限界をおくと、それ以上の機能が見えなくなる。正確な意味で保存されているものとは不可視の調和のみなのである。全ての存在や機能を振動や音や熱や電気的な働きとして説明するならば、人間の感情や痛みや苦しみも同等の働きとして説明する必要性が生じてくる。そういった存在や機能の宇宙的なエナジーの根源とは、他ならぬ欲望である。その不可視のエナジーとしての欲望に不可視の調和が関係すると、その欲望の総体は愛である事が判ってくる。従って、この宇宙にある全ての部位の存在と機能は愛の法則に根差すと考えられる。宇宙の部位である人間の言動の一つ一つにおいても、その総体としての働きは愛なのである。その愛または欲望と称される宇宙のエナジーは絶えず無数の小さな働きや変化を起こしている。一方、個々の存在や機能が循環するための不可視の宇宙が存在する。その不可視の宇宙と可視の宇宙との間には、一方では消失したと認識された生が同時に他方では発生している。そのように総体的には減る事も増える事もない生の循環が働いている。そのような生の正確な循環認識においては、死というものは全く存在しない。

 人間一人一人がそれぞれ別々の時間にこの世の可視の物質を数え始めるとする。或者はブランコで一、砂場で二と数える。別の或者は一つのブランコが三人用だからと一、二、三と数え、次に砂場に行って、砂を一粒ずつ数え始めたならば、何時まで経っても正確な数が定まらない。同じように、この世界の人間それぞれが自分の関心のある現象をそれぞれの散漫な集中力と様々な価値観で、あっちを見、こっちを聞きして数えていたならば、一つの物事を体系的に捉える事など永久に実現され得ない。音楽なら音楽で、大きく分類された一つのジャンルの中に更なる幾つかのジャンルを設け、その中の一つの小さなムーヴメントを選択し、それを専門に研究しない事には音楽の手引きや研究書など何時まで経っても完成されない。それは歴史という観点による研究についても同じ事が言える。特出した人間の完成形として第一に研究されるべき者とは聖者である。歴史上の聖者の記録を纏め上げる事なく、世の奇跡を数えていったならば、奇跡と認識されるような物事はこの宇宙の至る所で起きている。奇跡を記録するならば、唯一人、自分の帰依する聖者の奇跡だけを記録すれば良いのだ。

 例えば、私がここで爆発するとしたら、・・・ああ、寒いなあ。これは夢の中なのか。今、話した事をざあっとメモしておかないとな。

蒲団は何処に行った?この手の届く範囲内にはないのか。蒲団一つについて思索するだけでも、この宇宙の全てを語り尽くせる程の自信がある。ああ、寒い。寒いな。ああ、目覚めに近づいているのかなあ。また何時かこの夢に帰ってこれるかなあ。はは(笑)!そう!俺ならまた帰ってこれる!必ずね。この頭脳がこの夢を作り出したのだからな。しかし、寒いなあ。

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