1.箱の中身と追う触手
男は走っていた。
長い手足を振り回し、だらしなく開いた口から懸命に空気を取り込みながら逃げていた。
硬質な床に裸の足裏が叩きつけられ、その度に腰にくくりつけた箱がガタガタと音を立てる。
鋲が錆び付き、端の朽ちた巨大な箱はまるで棺桶のようであった。
こめかみの辺りからにじみ出た汗は激しい運動のせいか、それとも男の内側から吹き出る感情によるものか。
終わりの見えぬ灰色の床にぴしゃりと垂れた。
やがて男の表情に光明が差した。
無機質なコンクリートで囲まれた閉塞的な通路の先に、人影が見えたのだ。
近づくにつれそれは自分よりふた回りも小さな少女であると分かったが、助けを求めることに躊躇はなかった。
「た、たすけて!」
逃走に疲れ果てた男は矜持も何もかもをかなぐり捨てて、魔族である自分などよりよほど弱そうな人間に向かって声を張り上げた。
機械の駆動により開放された扉をくぐり抜けたばかりの少女は眼を丸くしたが、取り乱すことなく平静を取り戻したようだった。
片手を持ち上げる。
少女はつるりとした革手袋の、その人差し指を男に向ける。
「ひょっとして追われているのは」
指先が男ではなく、その背後を指差していると察した時、男の顔に浮かんだのは絶望であった。
「貴方が背負っている彼女にですか」
ひゅ、と息が止まる。
眼を見開き、ガタガタと身体を震わせることしかできない男の頬に、貼り付くものがあった。
にちゃりと不快な音をたてて這い寄るそれは、おぞましい形状の触手だ。
壊れかけの人形のようなぎこちなさで、男は振りかえる。
息の吹きかかるような距離に、女がいた。
一瞬たりとも離すものかと、濡れ髪の間から瞬きをしない目がこちらを見ている。
べちゃりと粘つく液体が肩に触れた時、止まっていた恐怖をようやく自覚する。
絹を裂くような悲鳴が響き渡る中、救助どころかとどめを刺した少女はうるさいな、と冷静に耳を塞いでいたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます