チェック・シックス

島村

チェック・シックス



 まったく、驚いたな――。


 豪奢なシャンデリアが煌めく会場の一角で、勝馬かつまは感慨深く嘆息した。少し離れたところでは、酒や料理を手に若手たちが集まり、賑やかに談笑している。

 その一団の中心にいる人物を眺め、勝馬は更に唸った。


 女っていうのは、ちょっと見ないうちにずいぶんと変わるもんだ……。


 上空高く、コクピットから望む星空のように深い色合いのワンピースが、男たちの無難なスーツ姿の間に見え隠れしている。緩く癖の入ったショートヘアは感じよく整えられ、小粒のパールがすらりと伸びた首筋と耳元に上品な華やかさを添えている。


 「ちょっと」と感じた月日も、よくよく考えてみればもう5年近く過ぎていることに今更ながら驚く。


 あの頃はまだまだ小娘のようだったのに。今じゃすっかり大人っぽくなって――。


「よう、勝馬。久しぶりだな」


 聞きなじみのある声とともに姿を見せたのは、同期の矢部だった。矢部は思い思いの場所で歓談に興じる参加者たちをぐるりと見まわし、感心したように続けた。


「いやはや、空将ともなると退官パーティーも盛大だよな。こんなに広い宴会場がいっぱいになるくらい人が集まるんだから」


 まるで昨日も顔を合わせたかのような気負いのなさでそう言って、テーブルを彩る料理に手を伸ばす。久々の再会であっても、疎遠になっていた年月を感じないのは同期の間柄ゆえだ。


 今、この場では、航空自衛官として定年まで勤めあげ、まもなく勇退する将官の退官パーティーが催されていた。勝馬にとっては恩師にあたるような存在だった。そのため、わざわざ休暇を取って遠方からこのセレモニーに出向いたのだ。一方の矢部は、所属する航空団の司令官の退官ということで部隊一同揃っての参加だった。


「そういえば、聞いたぞ、勝馬。お前のところの飛行隊、この前の戦技競技会せんきょうのF-15部門で優勝したんだってな。若手がずいぶん善戦したっていうじゃないか」

「ああ」


 勝馬は大きく頷いた。


「本当によく頑張ってくれたと思うよ。徹底的に鍛えるために俺が強化特訓を担当したんだが、相当きつかっただろうに、毎日必死に食らいついてきてくれたからな」

「凄腕の飛行班長が専属で相手してくれるんじゃ、若いのは死に物狂いでやるしかないよな」

「俺だって余裕なんかなかったさ。連日3飛びだぞ? 一日に3回も空中格闘戦ACMをしてみろ、戦競前までに5キロ以上体重が減ったよ」

「そうは言っても、楽しくて仕方なかったんだろ?」


 ずばりと言い当てた同期は勝馬の返答を待つ間もなく、「相変わらずだよな」と呆れ顔で笑った。

 苦笑を返し、勝馬は自分と矢部のグラスにビールを注ぎ足しながら訊ねた。


「お前の方はどうだ? 前に、『うちの部隊にもいよいよ女の戦闘機乗りファイターが来ることになった』って慌ててたけど、うまくいってるか?」

「まあな」


 矢部はテーブルの上のカナッペをひとつ摘み上げると、口に放り込んでビールをあおった。


「隊長から話を聞いた時にはどう扱ったらいいもんか見当もつかなくて困ったけど、完全に取り越し苦労ってやつだった。大した奴だよ――ほら、あそこにいる」


 示されるまでもなく、勝馬は再び若手の集団に目を向けていた。ミッドナイトブルーのシンプルなワンピースを凛と着こなし、同僚たちと談笑している女性戦闘機パイロット。以前と変わらず意思の強さを窺わせる表情に、今は自信も加わり、輝くばかりに見えた。成長を実感する。


速水はやみなら、知ってる。浜松であいつのコースのアシコマだったから」


 速水奈央。勝馬が浜松基地で基本操縦課程の教官をしていた時の教え子だ。

 当時、勝馬は副主任教官アシコマとして、フライトコースの学生たちの教育を担当していた。その中のひとりが速水だった。


 女性にも戦闘機要員の門戸が開かれるようになって既に久しい。勝馬が所属するF-15の部隊にも、そこまで数は多くないとは言え女性パイロットがいる。最新鋭ステルス戦闘機であるF-35の部隊にも順次女性の配置は進み、数年前、矢部が飛行班長を務める部隊を最後に、すべての戦闘機部隊に充足されることとなったのだった。


「速水の技量はどうだ?」

「ずば抜けたセンスがあるという訳じゃないが、あいつはとにかく努力がすごい。絶対に弱音は吐かないし、根性が並じゃない。見上げたもんだよ。<アクア>なんてやんわりしたタックネームがついてるが、恐ろしいぞ。上の期のやつらでも容赦なくやっつけられてるからな」


 矢部の言葉に、フライトコース時代の速水の姿が浮かぶ。


 上空で生死にかかわるような危険な操作や判断を行った学生に対しては、ディブリーフィングで厳しく指導を行うが、教官からの容赦のない指摘に目を潤ませる学生は男女を問わず多かった。

 しかし、勝馬が速水のそんな姿を見たことは記憶の限り一度もない。どんな時も、次は絶対に失敗しない、この失敗を無駄にはしないという強靭な意思を目に燃え立たせ、ともすれば勝馬でさえ気圧されかねないほどの気迫で常に端然としていた。


 その教え子が、今や防空の最前線で活躍している――話を聞きながら、勝馬は頼もしい思いで以前の担当学生を顧みた。


 矢部が、速水を取り巻く若手パイロットたちを見やって苦々しく顔をしかめる。


「それにしても、あいつら急に色気づきやがって。初めて速水アクアのあんな洒落た姿見たからって、あからさますぎるだろ。上空うえじゃいつも圧倒されっぱなしでタジタジのくせによ」


 慣れないスーツが窮屈なのか無造作にネクタイをくつろげると、矢部は唐突に声を潜めた。


「それはそうと、お前、その後はどうした? 離婚してだいぶ経つだろ。付き合ってる相手とかいないのか?」


 相変わらず遠慮がない。勝馬は思わず苦笑した。


「いや、特には。そういう相手ができても、結局また同じ間違いを繰り返しそうでさ。どうしても俺は仕事優先になっちゃうんだよ。今だってフライト第一の毎日だ」


 幾分の自虐混じりにそう言うと、「まったく、変わらん奴だな」と言わんばかりの視線を向けられる。


 勝馬が妻の里佳子と離婚したのは、浜松基地に赴任中のことだった。


 戦闘機部隊から教育部隊に異動が決まった時、里佳子は手放しで喜んでいた。それまでは防空の第一線に臨む部隊ということもあって、平日は早朝に出勤し帰宅は夜遅く、休日もアラート勤務や待機要員で潰れ、代休さえまともに消化できない日常だった。そのため、これでやっと夫婦の時間が増えると期待していたのだ。


 ところが、勝馬は浜松に移ってからも、将来の戦闘機乗りを育てたいと土日も惜しまず学生教育に費やし、仕事にいそしむ日々を続けた。これまで忍耐強くサポートに徹していた妻の落胆と鬱屈に気づくことはなかった。里佳子なら分かってくれているはずという、都合のいい思い込みもあった。


 夫の気持ちの大半が仕事に向き、自分が顧みられることのない結婚生活に、里佳子の我慢は限界を迎えた。離婚届けとともに別れ話を切り出されて初めて、勝馬は事の深刻さを理解した――しかし、すべては手遅れだった。


 その頃の自分を顧みると、見下げ果てるほどに未熟で愚かで自分本位だったと思う。かつての妻に申し訳なくも思う。しかし、苦い経験から数年を経て精神的に幾ばくかでも成長できたかと問われれば、勝馬自身でも自信を持ってイエスと答えることができないのだった。


 気詰まりな過去に思いを巡らせていた勝馬を前に、矢部がふと口を開いた。


「そういえば、速水がなぁ――」


 言いかけたその時、どこからか矢部を呼ぶ声が聞こえた。見ると、ひとところで固まって話し込んでいる高級幹部のうちのひとりが、こちらに向かって手招きしている。


「おっと、何か知らんがお呼びがかかったぞ。殿の御元にせ参ぜねば」


 大げさな口調でそう言うと、矢部は「また話は改めてな! お互い頑張ろうぜ!」と急いで離れていった。


 あいつ、何を言いかけたんだか――上官の元へ駆けつける同期を何とはなしに見送っていると、不意に背後から名を呼ばれた。


「勝馬3佐」


 芯を感じさせる明朗な声に驚いて振り向く。そこには先ほどまで話題にしていたF-35のパイロット、速水が立っていた。手にしたシャンパンの繊細な泡の煌めきが、上品に仕立てられた夜空色のワンピースに映えている。


「ご無沙汰しています」

「久しぶりだな。元気そうで何よりだ」


 勝馬が多少まごついたのは、虚をかれたせいもある。だがそれ以上に、美しく変貌したかつての教え子を目の前にして気後れしたためだった――もっとも、勝馬自身はその感情を自覚することはなかったが。


 速水がまっすぐに勝馬を見て笑みを濃くする。


「アシコマも、全然お変わりないですね」

「待て待て、俺はもう教官じゃないし、アシコマでもないよ」

「私にとって勝馬3佐はアシコマです。でも、そうですね。もう操縦課程フライトコースの時とは違いますから――」


 懐かしむように微笑して目を細めると、速水は改めて強い眼差しで勝馬を捉える。


「――それなら、私も部隊では4機編隊長フライトリーダーとしてやっていますし、同じ戦闘機パイロットとしてタックネームで呼ばせていただいてもいいですか。ロデオさん」

「なんだ、俺のタックネームを知ってるのか」

「浜松の時に聞きましたから」

「そうだったかな」

「その時から、いつか同等の立場でアシコマをタックネームで呼べるようになりたいと、ずっと目標にしていたんです。アシコマからは本当に多くのことを学ばせていただきました。私にとって最も尊敬する戦闘機乗りファイターです」


 勝馬は驚いた。この教え子がそこまで自分の背中を見ていたとは思わなかった。

 学生たちに対しては、技術面だけでなく、戦闘操縦者としての矜持や気概についても身をもって示してきたつもりだった。だが同時に、そこまで感じ取れる学生はなかなかいないだろうとも思っていた。


 当時、飛行訓練に余裕なく追われる学生課程の中にあって、速水がそこまで見えていたことに驚く。そして同時に、実りを期待することなく自分が蒔いていた種がここまで立派に育ってくれたことに、勝馬は胸が熱くなる思いがした。


 今、速水は学生の時のように畏まった態度ではなく、余裕と自信さえ感じさせる落ち着いた物腰で勝馬に向き合っている。


「今度の合同演習でご一緒するのが楽しみです」

「ステルス機を仮想敵機側には回したくないな」

「味方ならしっかりサポートさせていただきますよ。対抗機側なら、こっそり近づいて気づかないうちに撃墜キルで」


 澄まし顔で豪胆なセリフを言ってのける速水に、勝馬は声を上げて気持ちよく笑った。


「意気込みは素晴らしいが、俺は教え子に負けるつもりはないぞ」

「私も、いつまでもヒヨッコでいるつもりはありませんから。戦うとなれば当然勝つつもりで行きます」


 にっこりと、しかし不敵さも感じさせる笑みで切り返された。

 頼もしくなったものだと改めて感心する勝馬を前に、速水がすっと真顔になる。


「ところで、実は以前から率直にお聞きしたいと思っていたのですが」

「何だ?」

「ロデオさんは、再婚はされたんですか」

「ああ、いや……まだひとりのままだよ」


 面食らいつつ苦笑いが漏れる――さっきの矢部といい速水といい、そんなに他人ひとの色恋事が気になるものなのか。


 シャンデリアの煌めきを瞳に映し、速水がじっと勝馬に目を当てている。艶やかに口紅を引いた唇が、不意に好戦的に微笑んだ。


「それなら、私ではどうですか」


 一瞬、勝馬は耳を疑った。元教え子が口にした言葉を頭の中で反芻し、その意味をどうにか咀嚼そしゃくし――そこで初めて勝馬は慌てた。


「それはつまり、俺の彼女にってことか? おいおい、からかうなよ!」

「からかっていません」

「……と言うかだな、いや、そういうもんじゃないだろう。俺は昔の教官で、今はお前の先輩で、お前は俺の後輩で、国防という任務のために日々訓練をこなし任務に勤しむ仲間だ。そう、同志みたいなもんだ。だから男だとか女だとか、彼女だとか恋人だとか、俺はお前に対してそういう意識は持ってない」


 柄にもなく狼狽する勝馬の、そんな反応さえ楽しむような笑みを浮かべたまま、速水は言葉を重ねる。


「浜松の時に、仕事の話ができる相手がいいとおっしゃっていましたよね」

「ま、まあ、言っていたかもしれないが……」


 勝馬自身に記憶はないが、おそらく担当学生たちとの宴席で、酔いも手伝ってつい愚痴をこぼしたことがあったのだろう――だがどうしてそんな些細な呟きを覚えているのか。


「いや、しかしな、そもそも俺はお前より10歳近くも年上だ」

「私は気にしません」

「それにだな、不測事態や有事にでもなったとして、自分の恋人がられるのを見たくはない」

「だったら――」


 速水の瞳に硬質な光が閃いた。微動だにせず勝馬を見据える。


「私がロデオさんより強かったらいいわけですよね。誰にも負けないほど強くなったら、とされることもないんですから」


 そうじゃない、あくまでものの例えだ――そう言おうとしたが、速水の眼差しに射すくめられたように言葉が継げない。

 疑いようもなく守勢ディフェンスだった。勝馬は喘ぐようにしてようやく呻いた。


「……お前、だいぶ酔ってるな?」

「酔っているとは思います。でも、真剣です」


 妖しい輝きを帯びた目が、照準を定めるように勝馬にじっと注がれる。

 対抗機を狙い撃つ時はこんな目をしているのではないかと、勝馬は我知らずぞくりとした。


「いつからだ。その……いつから俺のことを」

「学生の時からです」

「全然気づかなかったぞ。背後から撃たれた気分だ――いや、さすがステルス機乗りと言うべきかな」


 空笑そらわらいして場を繕ってみるものの、動揺のあまりくだらないことを口走っているという自覚はあった。アルコールのせいだけではない不可解な熱が、背筋に汗を滲ませる。


「チェック・シックス」


 そう呟き、速水が艶然えんぜんと微笑む。


「『背後には気をつけろ』――戦闘機乗りの心得の第一として、教えてくださったのはアシコマですよ」


 完全に気を呑まれて立ち尽くす勝馬に「合同演習、楽しみにしています」と言い置くと、速水は優雅に踵を返して歓談のさざめきの中に戻っていった。

 その、凛と背筋の伸びたしなやかな後ろ姿を、勝馬はただ茫然と見送る。


 負けた……。


 応戦のいとますらなく、気づいた時には戦闘終了。勝負ははるか以前に決していた。

 いままで経験したことのないたぐいの敗北感に笑いさえ込み上げてくる。


 勝馬より強ければいいのだろうと、剛毅に言ってのけた美しい戦闘機乗りファイター。自信を滲ませた強い眼差しが蘇る。


 と同時に、かつて課程を卒業する速水たちのコースから贈られた色紙を思い出した。寄せ書きの一隅に、角ばった力強い筆跡でしたためられていた言葉――。


『一人前のファイターとして、幹部自衛官として、そして女性として、アシコマに認めていただけるよう、これからも精一杯努力していきます』


 『速水奈央』と記されたその一文に、一本気なあいつらしいと当時の勝馬は微笑ましく感じたものだった。


 だが、今にしてようやく理解する――あれは、速水の本心そのままの決意表明だったのだ。


 想定外の告白に頭の中は激しく脈打ち、ほてりは収まる気配もない。

 テーブルに並ぶ小洒落た料理もよそに、勝馬は握りしめていた酒のグラスを一息にあおった。気の抜けかかったぬるいビールが胃の腑へと落ちてゆく。

 図らずもそれが一服の気つけとなった。


 ――それなら、受けて立ってやろうじゃないか。


 戦闘機乗りとして本来持ち合わせた意地と負けん気が、闘志とともに湧きたってくる。


 高性能のステルス機相手ではかなり分が悪いが、持てる力を尽くして迎え撃ってやる。俺が勝てばお前はまだまだ、負ければ潔くお前の実力を認めよう。その結果どうなるのか――想像もできないが。


 不意に現れ一閃の雷光のように勝馬の目を眩ませていった、鮮烈な戦闘機パイロット。


 繊細に煌めくシャンデリアの光の中で、遠く人の背に見え隠れするその姿を、勝馬は気魄が満ちる思いで挑むように見つめ続けた。




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チェック・シックス 島村 @MikekoShimamura

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