第4話 慣れてません!

 部屋の中では、相変わらず舌と舌が絡み合う唾液音だけが響いていた。先生の柔らかい舌を味わいたくて、もっと先生と繋がっていたくて、やめられなかった。

 彼女の頬や首筋を撫でて、髪に触れて、後ろのベッドに押し倒したい衝動を必死で堪える。もっと、先生を味わい尽くしたい、彼女の全てを知りたい──そう思う度、家庭教師と生徒という言葉が頭でちらつく。

 俺達は、ただの家庭教師と生徒という関係でしかない。家庭教師でありながら、彼女はその大きな瞳を潤ませて、どういうわけか一生懸命に応えてくれている。だが実際のところ、どんな想いで彼女がこのキスに応えてくれているのか、俺には全く想像がつかなかった。

 本当は嫌々しているとか、清楚そうに見えてキスは慣れていて、何の感情も持ってないんじゃないかとか……憧れの人とキスをして幸せなはずなのに、気付けば俺の頭の中にはそんな不安が過ぎるようになっていて、これ以上進めなかった。

 ふと目を開けると、先生も目を開けていて、目が合った。相変わらず泣きそうな瞳をしていて、それがあまりに愛しくて胸が締め付けられる。彼女ともっと繋がりたくて抱き寄せた時、先生は「んっ」と少し呻いて、体をびくっと震わせた。ぎゅっと俺の肩を強く掴んで、何かに耐えているようだった。それから、彼女の熱い吐息が口付けの隙間から漏れてくる。

 先生が苦しいのであれば、もうやめたほうが良いのだろうかとも思う。しかし、それと同時に、キスを止めてしまったら、本気になっていたのは自分だけだと知るのが恐かった。笑い飛ばして「満足した?」だなんて言われた日には、一生立ち直れない。

 どうして先生がこんなに我が儘な俺に応えてくれているのか、知りたいけれど、知りたくなかった。もう一生このまま時間が止まればいいのに……そう思った時だった。

 ピピピッと電子音がなると同時にハッとして、同時に顔を離した。授業終了時刻を知らせるアラームが鳴ったのだ。


「あっ……」


 お互い、顔を上気させたまま見つめ合う。

 さっきまで繋がっていた唇が、もう離れてしまっていた。先生の熱がもう離れていて、さっきまで感じられていた存在が遠のいている。その寂寥感に胸を締め付けられて、泣きそうな気持ちになってしまった。

 もう……夢の時間は終わってしまったのだ。


「えっと……アラーム、止めるね?」


 先生が俺の両肩を掴んでいた手の力を緩めたので、腕の力を緩めて彼女を離す。それを以て、俺達の体は完全に離れてしまった。

 先生が自らのスマートフォンを取ってストップボタンをタップすると、電子音は止んだ。

 部屋に沈黙が訪れて、お互いに気まずくなって、顔を逸らす。

 なんて、言われるんだろうか。

 こうして冷静になってくると、完全にやらかしている。最悪の場合、もう今日限りで辞められてしまう可能性すらあるのだ。いきなりのキスでテンションでおかしくなって、俺はそういった最悪の事態すら想定できなくなってしまっていた。

 バクバクと心臓が高鳴る音──しかも嫌な意味で──だけがうるさく響いていた。

 すると先生がふぅ、と息を吐いて、スマホを自らの鞄の中に仕舞った。


「……一回だけって、言ったのに」


 そして、じぃっと俺を責めるように上目を遣い、むすっとして言う。

 本気で怒っているのかもしれないけれど、その表情があまりにも可愛くて、口元が緩みそうになった。それは、その口ぶりからして『もう今日で辞める』とも言われなさそうなので、安堵したというのもある。


「ごめんなさい……」


 素直に謝ると、先生は困ったように微笑んで、溜め息を吐いた。


「湊くん、キス慣れてるでしょ?」

「え!? どうして」

「だって……あんなに」


 言いかけて、先生はハッとして口を噤んだ。


「な、なんでもない……でも! あんな風にいきなりだれかれ問わずキスしちゃダメだよ? 高校生でも、許されない場合もあるんだから」


 先生はいつもの先生らしい表情を作って窘めるように言う。


「し、しませんって! それに、先生以外にした事ないし、したくもないから──って、あっ」


 何を言っているのだ、俺は。これでではまるで告白してるみたいだ。しかもファーストキスだって事もバラしてしまっているし。

 顔を上げると、先生はさっき作った『先生の顔』をいとも簡単に崩して顔を赤くし、あたふたとしている。


「えっと……それなら、いいけど」


 そして先生は、恥ずかしそうに視線を逸らした。

 もう何の事だかさっぱりわからない。彼女は自分の手で自らの唇にそっと触れると、また顔を赤くしていた。


「とりあえず……宿題、ちゃんとやってね。忘れたら、怒るから」

「……はい」


 そう言ってから先生は立ち上がって、ショルダーバックを肩に掛けた。


「湊くん」

「はい?」


 恐る恐る見上げると、そこにはにっこりと微笑んでいる先生がいた。恥ずかしそうだけれど、それは作った笑みではなくて……自然に浮かべている笑顔だというのはわかった。


「……これからも、勉強頑張ろうね」


 頬を染めてそう言うと、返答を待たずに部屋を出て行った。

 その後玄関まで母さんと一緒に見送ったけれど、そこにはいつもの先生がいて、ただ、じゃあね、と手を振ってくれただけだった。

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