第2話 先生、我慢ができませんでした。

 ──わかった。約束、だもんね。

 

 この言葉の意味を理解した時、一気に体温が上昇して、胸がどきんと高鳴った。

 おいおいおいおいおい、あんた大丈夫かよ! 家庭教師だろ、こんな調子乗った高校生叱らなきゃダメだろ! っていうか何でOKされてこっちが動揺してるんだよ、落ち着け俺!

 きっと俺をからかう為の冗談だよな、と思って先生を見てみると……顔を赤らめたまま、俯いている。そこからは全くからかう気配が伺えなかった。


「一回だけ、だよ?」


 確認するように、ちらっとだけ上目を遣ってこちらを見て、目が合うとまた顔を伏せられた。

 その仕草があまりに可愛くて、胸が早鐘のように打ち鳴らされた。

 あれ? これ、本当にしちゃう系? OKされちゃう系? 嘘でしょ?

 そんな疑問符で頭を満たされながらも、ごくりと唾を飲んで、頷く。


「じゃあ……目、瞑って。恥ずかしいから」


 もう一度頷いて、言われた通りに目を瞑る。

 きっと、実はこんにゃくを顔に押し付けられたり、ほっぺたを引っ張られて「調子に乗るな」って言われたりして結局がっかりさせられるシチュエーションだ。そうに違いない。むしろそうであってくれ。

 ここまでとんとん拍子に進むと思っていなくて、もはや一番冷静でなくなっているのが俺である。高鳴る心臓を押さえ付けながら、こんにゃくなりほっぺたの痛みなりを待つ。心臓が痛くて、待っている時間が辛かった。

 そして次の瞬間、服の擦れる音がしたかと思うと──おそらく椅子と先生の服が擦れている──ふわりと鼻腔が甘い香りで満たされた。いつもはうっすらと香る、先生の上品で優しい香り。授業が終わった後、この部屋の中で残り香を探している、あの香り。今の俺が一番好きな匂いが、いつもよりぐっと近くから香ってきている。目を瞑っているから、嗅覚がいつもより過敏になっているのかもしれない。

 それはとても甘美で、頭がどうにかしてしまいそうなほどに、愛しい香りだった。辛うじて理性を保ちながら、衝撃なり痛みなりに備える。


 すると──唇に、優しくて柔らかいものが一瞬だけ触れた。


 僅かに漏れた先生の吐息が唇に当たって、そっと目を開けると……そこには、湯たんぽのように顔をまっかっかにした先生。授業がない間は、ずっと想像で補っていた先生が目の前にいて、その先生が恥ずかしそうにしている。

 その瑞々しい唇がいつもより艶やかに見えて、凄く近い距離にあって──それで、はっきりと認識した。

 今触れたのは、きっと本当に先生の唇で──今俺は、先生とキスしてしまったんだ、と。人生で初めて、異性とキスをしてしまった事を自覚してしまったのである。

 先生の唇は、とても柔らかかった。あんな一瞬ではとてもではないが味わえないほど、柔らかくて気持ちのいい感触。もっと触れていたい、何度も重ねたい──そんな邪な欲求が、心の中を満たしていく。

 さっきは一回だけと言われたけど、とても一回だけで我慢できる代物ではなかった。


 ──これで終わりだなんて、嫌だよ。


 そう思った時には、俺から離れようとしていた先生の両肩を掴んでいた。


「え……?」

「ごめん、先生があんまりにも可愛いから……俺、もう我慢できないです」

「ちょっと、湊く──」


 先生の制止の声も聞かずに、その唇を、今度は自らのそれで覆っていく。

 先生の甘美で柔らかい感触が、唇を通じて脳に伝わってきた。さっきよりも心臓の高鳴りは増して、胸が痛い程高鳴っていた。

 先生は、どういうわけか──抵抗しなかった。驚いてはいたものの、俺の約束違反な口付けを、ただ受け入れてくれていた。

 きっと、抵抗されていたなら、冷静になって止めれたのだと思う。でも、先生は最初こそ驚いて反射的に俺の肩に手を置いていたけれど、その手で俺を突き飛ばす事はなかった。いや、その腕には全く力すら込められていなかった。

 重なった唇が離れてはくっつき、離れてはくっつきを何度か繰り返した。互いの吐息が混じりあって、互いの頬を暖かく撫でる。

 先生の潤んだ瞳には俺が映っていて、泣きそうなのにしっかりとこちらを見てくれている。頬を真っ赤にして、また瞳を閉じて、互いに顔を寄せ合う。

 その行為を繰り返すうちに、どちらともなく舌が唇を割って入った。そして互いの舌を受け入れ、絡め合う。

 やり方なんて、わからなかった。でも、ただ自然と体がそうしていた。人間の本能、いや、DNAというやつに組み込まれているのだろうか。最初こそ何度か歯が当たってしまったが、次第にそれも少なくなり、ずっと俺達は深い口付けをしていた。

 唾液の交じり合う音と時折苦しそうに吐かれる吐息の音だけが部屋を満たしていた。

 こっそりと目を開けてみると、先生は目を閉じたまま──目尻にうっすらと涙を浮かべながら──一生懸命口付けに応えてくれていた。


(凄い……夢じゃない)


 先生の薄くて柔らかい舌の感触を感じながら、一心不乱に彼女の存在を舌先から感じ取っていた。俺の両肩は先生の手でしっかりと掴まれていて、そして俺もまた両腕で彼女を抱え込んでいる。

 今起こっているこの現象が夢じゃない事を嬉しく思いつつも、夢で合った方が良かったのかもしれない、などと考えてしまうのだ。

 ──この口付けを終えたら、一体どんな顔をして先生と話せば良いのだろうか?

 甘い香りと柔らかい舌先に触れながら、俺はそんな事を考えていた。

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