七品目 アポトーシス
「帰ってきたよ」
一人の男が墓前で手を合わせる。
「君のお陰で、世界は平穏を取り戻したよ」
そっと、まるで慈しむように、誰かの頬に、愛しい者の頬に触れるように、男は「R.I.P」の文字をなぞった。
「フレッドさん……」
牧師が男に近づき、声をかけた。フレッドは徐に顔を上げ、目礼する。
「彼女の命日は、まだ少し先だと思いますが……?」
「うん、そうなんですけどね」
フレッドは唐突に笑みをこぼす。牧師は彼の反応を見て不思議そうに眉をひそめた。
「いや、失礼。今日は、結婚記念日なんですよ」
「あぁ、それはいい日だ。こちらこそ、失礼しました」
「いや、いいんだ。それと、他にも理由があるんだ」
男は牧師の顔を見たが、何も言わずに彼の眼を見返して先を促していたので、男は気にせず話を続けた。
「先日、所用で日本へ行ったんだ。そこで教えてもらったんだよ。この時期はちょうど、『オボン』というシュウカン(週間・習慣)なんだって」
フレッドは肩をすくめ、両手を広げてみせる。牧師はただ微笑み、彼の肩を軽く叩いた。
「なぁ、場所を移さないか?」
「えぇ、いいですよ」
フレッドは小高い丘の方を指し、牧師を誘う。牧師は優しく頷き、二人はゆっくりと丘に向かった。
歩きにくそうな牧師に肩を貸し、二人は一歩ずつ丘を登る。牧師の左目には、そこを隠すように包帯が巻かれていた。
「だいぶ良くなりました。あなたの奥様に、感謝します」
「僕じゃなく、彼女に……」
丘を登りきると、そこからは町や海が見渡せた。だが、そこから見える景色は、どこか寂しく、上手く言い表せない、違和感があった。
「いつ見てもいい眺めだ。……景色は」
「フレッドさん、それで……」
「あぁ、そうでした。どこまで話したかな……そう、それで、とにかく、一緒に過ごす時期なんだそうです。そう、一緒に」
何かを堪えるように、言いにくそうにするフレッドの背中に手を置き、牧師は言葉をつなぐ。
「日本らしいですね」
「あぁ、そう、そうだな。日本らしい」
――これはつい、数か月ほど前のこと。研究者だった妻は、見事、特効薬を作り上げた。世界中で蔓延する死のウイルスに対抗する、打ち勝つための唯一の鍵。彼女はそれを見つけ、形にしたのだ。喜ぶべきことだ。僕だってそれを大いに喜び、世界中の兄弟(ひとびと)と抱き合い、同じように手を叩き、彼女のことを称賛せねばならないのかもしれない。彼女に栄誉は与えられた。崇め、奉るが如く。けれど、彼女はそこにはいなかった。受け取るべき彼女が、手のひらを反すように、お祭り騒ぎをするように、世界が彼女をそういう目で見ることに憤ることも恥ずかしがることもなく。完成し、世界中にそれが行き渡る日を、彼女はその日の目を見ることなく、皮肉にも、死のウイルスによって——
「フレッドさん」
名前を呼ばれ、男は我に返った。牧師の手元を見て、真っ白なハンカチが目に留まった。すぐに理解することができなかったが、間もなく男は、自分が涙をこぼしていると気づいた。
「大丈夫」
振り絞るように、言葉を漏らして、男は自身の手で涙の筋を拭おうとした。そこで、手が止まった。
そばに立っていた木の、青々とした葉が乾いた音を鳴らしながら揺れ、それと同じくして、彼女の優しい手が彼の頬を撫でていった。
少なくとも、男はそう感じた。
「……えぇ、もう、大丈夫です」
男は眼下に広がる景色に背を向け、丘を下り始める。
「もう、よろしいんですか?」
牧師の言葉に、男は振り返って笑って見せた。そして、直接的には答えず、こう告げた。
「その目、時期によくなりますよ。ではこれで」
去っていく男の背中を、牧師は黙って見送ることしかできなかった。
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