第37話 幼馴染の親友からのお願い

 日立さんが図書室を飛び出して以降、彼女はとうとう朝に僕を起こすこともやめてしまった。……まあ、物心両面からしても厳しいそう、とは思った。

 言ってみれば、日立さんにとって僕は、もはや無声映画の登場人物でしかない。小木津さんや、光右といった活動弁士がいなければ、僕が何を言っているのかすらわからないんだから。


 ……心理的には、相当きついだろうし。


 彼女の穏やかで、のほほんとした声音すらなくなってしまった、夏休みまであと少しという日の朝は、明るいはずなのにまだ夜明けが来ていないのではないか、と錯覚してしまうほど。カーテンを開けて、ようやく、ああ、朝なんだって、感じられる。


 カーテンの先、しばしばベランダに出て視線の先の捉えていた日立さんの部屋は、もう既に出かけているのか、薄暗いまま。

「…………」

 確認の意もこめて、僕は部屋のすみっこにある専用の呼び鈴を鳴らしてみるけど、やはり音沙汰がない。


「……出るわけないか」

 出られたとしても、会話なんて、できないのだから。


「廻―、起きてるー? そろそろ朝ご飯食べないと遅刻するわよー」

「うん、今行くー」

 一階からする母親の声に返事をして、僕は一度リビングに降りようとする。その間際、未練がましく窓際に垂れているタコ糸を眺めるも、それを振り払って僕は階段をゆっくりと下った。


 ほつれかけている糸の先端が、寂しげな様子を見せていたのは、僕の気のせいなのだろうか。


「今日、茉優ちゃん来なかったけど、どうかしたの?」

 リビングで朝ご飯を食べていると、ちょっと不安そうな顔をした母親がそう聞いてきた。

「……えっと、風邪気味らしくて、それで」

 かじった食パンが喉奥に引っかかりそうになるなか、とりあえず僕はそう誤魔化しておく。どうせ家が隣で、親同士でも交流があるから、こんな嘘すぐにバレてしまうのだろうけど。


「……そっか。廻も気をつけるのよ」

 僕の答えにひとまずは満足したのか、母はまた僕の側から離れ、台所で洗い物を再開させた。


「夏風邪は拗れやすいってよく言うから」

「う、うん……」

 いや、もしかしたらもう嘘だって気づかれているのかもしれない。

 でも、どっちにしろ、今の日立さんのことを、両親に話せる気にも、僕はなれない。


 日立さんがどうなろうと、それ以外の日常は変わらず日常として流れていくもので、今日も同じように時間は過ぎていった。多少浮ついた空気はあるものの、取り立てて大きな変化はない。


 光右も基本的にはさほど態度を変えることはせず、いつも通り僕と接していた。佐和君も混じって昼休みには札幌に遊びに行く計画も立てていたし。

 ただまあ、僕は上の空でそれを聞いていたけど。

 気づいたときには、弁当箱の中身は空っぽになっていて、食後にペットボトルのお茶を飲んでいた。


 そうしたなか、教室のドア近くから、ひとりの女子生徒が顔を覗きこませて、キョロキョロと誰かを探す姿が目に入った。

 小木津さんだ……。

 僕と目が合った瞬間、軽く会釈をした彼女を見て、

「……ごめん、ちょっと飲み物買ってくる」

 夏休みの計画を立てている佐和君と光右にそう断りをいれた。


「……おう、そっか」

 光右は多少怪訝そうな目をしたけど、止めることはせず、僕はそのまま廊下へと出た。


「すみません……昼休みに」

 そこで待っていた小木津さんは、再度頭を下げる。


「ここだと……人が多いから、ちょっと場所変えようか」

「は、はい」

 そう言って僕と小木津さんが向かったのは、一階隅の使われなくなった自販機のスペース。図書室は、他の当番の人がいるとのことだったから、ここにした。


 飲み物を買ってくる、と言って出た手前、何か買わないと不自然なので、僕はミニサイズのお茶をポチっと押して、ペットボトルのふたを開ける。

「……それで、何か話があるから、来たんだよね? どうかしたの?」


 一口軽くお茶を含んで、小木津さんに話を振る。近くの柱に背中を預け、視線を下向かせる彼女は、

「……あの日から、完全に茉優が塞ぎこんじゃっていて……」


 やっぱり、そうなるか。

「周りには、いつも通りであろうとしているんですけど……明らかに無理しているの見え見えですし、ひとりになったときの落ち込みかたが……酷くて……」

 普段から周囲にマイナスイオン振りまいているような日立さんがそうなってしまえば、小木津さんの表情が険しくなってしまうのにも無理はない。


「……あんな茉優、私は見ていて耐えられない……。でも、どうしようもないっていうのも、わかってはいて……」

 どうすればいいのか、わからない、と。


 ……僕が日立さんとの接点を失いかけている今、恐らく一番日立さんと近いのは小木津さんだ。いつもの日立さんに癒しを与えられてきていた彼女が、悩んでしまうのも理解できる。


「……僕も、わからないよ。そもそも、前提として日立さんが、僕のこと好きだったんだってことも驚いているし、でも、それ以上に、……触れないし聞けないし、最後は見えなくなるっていうので……全部ひっくり返っているし」


 そう、冷静になれば、日立さんが僕のことを好きっていう前提があるから、この問題が起きているわけで。ただ、その問題のインパクトが強すぎて、前提が霞んでしまっているのもまた事実。


「……茉優が、高浜さんのこと好きなのは、本当だと思いますよ。……今年の春から、あなたの話題が出なかった日なんて一日もなかった。嫉妬する気も起きないくらい、あの子の中身は、高浜さんでいっぱいだった」


「……そんなに、慕われていて、仲が良い幼馴染だったんだね。僕と日立さん」

「みたいですね。……私が茉優と仲良くなったときには、もう高浜さん、東京に転校されていたので、私は見ていないんですけど」


 夏の暑さから逃れるために、そこまで話すと小木津さんは、近くの窓を開け放った。少しでも、風通しを良くするために。クーラーなんて気の利いた設備、北海道の高校であるところは少ないし、この高校もそう。

 もわっとしていた空気が流れ込んできた風によって一掃されて、僕らのポロシャツの裾をぱたぱたとはためかせる。


「……いつだって、私は茉優の味方でいたい。あの子の明るさのおかげで、暗い私が救われたこと、何度だってあった。それなのに……それなのに」


 ……確かに、日立さんと比べると、小木津さんは落ち着いている、という印象が先行しやすい。それが強くなりすぎると、どうしても暗いってイメージになってもおかしくはない。昔、小木津さんに何があったかは知らないけど、きっと彼女の言う通り、日立さんの持ち前の雰囲気で、解決してしまったことがあったんだろう。


「……今、茉優が一番苦しんでいるときに、指をくわえて見ていることしかできないのが、もどかしくて……」

「…………」


「……茉優を、助けてあげてくれないですか……?」

 その懇願が漏れたのは、ほんの一瞬だった。


「……もう、見ることしかできないのはわかってます。でも……。やっぱり、高浜さんで開いた穴は高浜さんでしか埋まらないんです。……私じゃ……無理なんです……」

「……そ、それは……」

「……もう昼休み終わっちゃうので行きます。……けど、お願いします、高浜さん……」


 最後にもう一度、今まで見たなかで、一番深いお辞儀をして、小木津さんは教室へと戻っていった。

 ……力なく持ったお茶を片手に、僕が開けた窓を閉めてその後を追ったのは、五時間目の予鈴が鳴ってからのことだった。

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