第2話「漢字が分からない」

「とまぁこんな感じ。重たい話でごめんね。」

 完全に氷の溶けたアイスティーに口を付けながら、美樹に話の終了を告げた。

 美樹は真剣な表情でモニタに映っているであろう私の顔をじっと見詰めていた。

 恐らく、何を言えばいいのか言葉を選べずに居たのだろう。

 あまりに難しそうな表情だったので、つい「ぷっ」と吹き出してしまった。

『人が真剣に話を聞いてあげてるのに何で笑うかな!?』

「いやホントごめん(笑)美樹の難しそうな顔を見てたらつい(笑)」

『もう、笑えるくらいには落ち着いてるのならいいけど…。』

 落ち着くも何も、もうそれこそ何年も前の話なので普通に話せるようにはなっている。

「お気遣い感謝する。」

『うむ苦しゅうないぞ。』

 いつも通りのお道化た美樹がモニタの向こうに戻って来たので次の話へ移るとしよう。


「では続いて4人目の幼馴染の話をしようか。さっきの話とは時間軸が少し重なるんだけど…」


 私は半分程減ったアイスティーを一口含み、ゆっくり飲み込んでから話し始めた。


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 私の父が転職する前に在籍していた企業は、誰もが知っているような大企業で全国に支店を持ち、営業職である父は当然の事ながら転勤族だった。

 私が生まれて物心つくまでの間でも数度の転勤があり、明確な記憶が形成されたのは今回お話する4人目の幼馴染に出会った頃だ。


 関西のとある街にある小さなアパートに引っ越してきた私の家族を迎えてくれたお隣さん宅に、私より3つ程年上の女の子が居た。

 名前は「ようこ」。

 何故平仮名なのかと言うのは、当然その頃の私は漢字など知らず、どういう漢字の「ようこ」なのかを全く知らないからである。

 勿論、書き物の中なので「洋子」「陽子」「容子」等何らかの漢字を当てても良いのだが、当時の私の記憶のまま平仮名の「ようこ」で話そうと思う。


 まだ私が幼稚園に入るか入らないかの頃、"ようこ"はもう小学生だったと記憶している。

 赤いランドセルを背負って元気に通学していく"ようこ"を、自身の母や"ようこ"の母と共に見送った覚えもある。

 小学校から帰宅した"ようこ"はよく私の所へ遊びに来ていた。

 小学校での出来事や勉強の話をしてくれたり、時には文字の書き方や数の数え方等も得意げに教えようとしてくれていた。


 実は"ようこ"に関しては明確と言えるかどうかは別にして、"ようこ"に関わる記憶が前述の馴れ初めとは別に3つだけ有る。


 1つ目は、いきなりだが"ようこ"の家族が引っ越してしまったこと。

 毎日のように遊んでいた"ようこ"が突然、

「うち来週引っ越すねん。だからまぁくんとはもう遊べんようになるんや。」

 と流れる涙を拭おうともせず教えてくれた。

 子供の感受性は、相手の言っている意味が分からなくとも、目に入る相手の表情や耳に届く相手の声色から、それがとても悲しい事なのだと把握出来る事がある。

 気が付けば私は"ようこ"と抱き合って泣いていた。

 幼い私の断片的な記憶は、この"ようこ"と抱き合って大泣きしたシーンが妙に鮮明に残っているが、実はその前後についてはっきりとは覚えていない。

「来週引っ越す」と言っていたのだから、抱き合って泣いた翌週に"ようこ"は引っ越して居なくなっていた筈である。

 だが私には「いつの間にか"ようこ"が居なくなったけどそう言えばそんな経緯だったな」という記憶として残っている。


 2つ目は、その引っ越した"ようこ"に4年ぶりに会った時のこと。

 実は"ようこ"が引っ越した後も母親同士は交流があったらしく、私が幼稚園や小学校に行っている時間に割と頻繁に行き来していたらしい。

 "ようこ"の母親を見たら私が"ようこ"の事を思い出して泣き出してもいけないと思い、母も"ようこ"の母も出来るだけ私の居ない時間を見計らって井戸端会議を繰り返していたようだ。

 そんなある日、次は私の家が引っ越す事が決まり、県外に出る事と、再びここに戻って来る可能性が低いという事もあり、最後に挨拶をと言う事で母に連れられて"ようこ"の住む街へ立ち寄った。

 その街へ着くまでに母から「久し振りに"ようこ"ちゃんに会えるね。4年ぶりかなぁ。」と懐かしそうに言われていたのだが、実際はそれほど心躍るような楽しみでも無く、寧ろ"ようこ"が引っ越す前に抱き合って泣いた記憶と3つ目の記憶が脳内に蘇り、気恥ずかしさだけに支配されていた。

 小高い丘の上の閑静な住宅街に"ようこ"の住んでいる家はあった。

 母の後ろをてくてくとついて行くと「井上」と表札の付いた家の前で止まる。

「ここよ」という明るい母の言葉と同時に玄関のドアが開けられ、中から少し大人びた雰囲気を漂わせた"ようこ"が「いらっしゃい!」と大きな声と共に飛び出してきた。

 以前と変わらない明るい笑顔は私を安心もさせたし、同時に久し振りに会う"ようこ"とどんな話をすれば良いのだろうかと不安にもなった。

 しかし、実はこの記憶もここまで。

 その後どんな話をしたのかとか、どれくらい"ようこ"の家に居たのかとかは覚えていない。

「ただ"ようこ"の引っ越し先に行って"ようこ"に会った」という記憶だけだ。


 3つ目の記憶は"ようこ"の呼び方についての不可解なやり取り。

 私は"ようこ"の事を「ようこちゃん」と呼んでいたと記憶しているが、それを「ようこ『さん』」と呼んだ事もあった。

 いや、「呼ばされていた」と言った方が正解かもしれない。

 ある日、私は"ようこ"の部屋で"ようこ"の前に座り、"ようこ"に両手を握られた状態で目をじっと見つめられていた。

 "ようこ"は多少厳しい表情を見せているが、その口調はどこで覚えてきたのか、いかにも「お姉さま」という雰囲気を醸し出しており、笑ってはいけない雰囲気ではあったが自然と私の頬は緩んでいた。

「もっかい聞くな。まぁくんはうちの事『ようこちゃん』て呼ぶん?それとも『ようこさん』て呼ぶん?どっち?」

 そんな事を聞かれるまではずっと「ようこちゃん」だったのでそう答えるのが自然な筈なのだが、何故かその時は「ようこちゃん」と答えてはいけないような雰囲気を感じていた。

 それでも、

「どっちって…ずっと『ようこちゃん』って呼んでたから『ようこちゃん』ではあかんの?」

 と返すと"ようこ"は少し考えてから私の質問を無視してこう続けた。

「そしたら『ようこちゃん』て呼ぶならもうまぁくんとは遊ばん、『ようこさん』て呼ぶならまぁくんが大きいなったらうちがまぁくんのお嫁さんになる、て言うたらどっち?」

 と今思えば何とも合点の行かない可笑しい選択肢ではあるが、当時の私にとっては"ようこ"の行った「遊ばん」という言葉が余程衝撃的だったのか、「大きくなったらお嫁さんになる」という"ようこ"の提案を綺麗に聞き流し、

「ようこ『さん』!」

 と即答していた。

 私の目の前でいかにも嬉しそうににこにこする"ようこ"の顔を見た私も何故か嬉しくなって、手を取り合いながら笑っていた。

 ところが私が"ようこ"と戯れている記憶で「ようこ『さん』」と呼んだのはこの場面だけで、後は全て「ようこ『ちゃん』」と呼んだ記憶しか無いので、ひょっとしたら夢だったのかもしれない。

 或いは、私が強制ではなく自発的に「ようこ『さん』」と呼ぶ事に期待をし、待っていたのだろうか。


 今となっては確かめる術もなく、薄れた記憶を手繰り、そうだった「かもしれない」と想像するしか無い。

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