【3】

 ルルを送って家に戻ると、母さんの煮るトマトシチューの匂いが僕を包み込んだ。

「おかえりなさい、セイラ」

 キッチンから顔を覗かせた母さんは、僕を見て少し顔を顰めた。

「また丘へ行ってたのね? 服に葉っぱをくっつけて。外でちゃんと払っていらっしゃい」

「ああ、――うん」

 僕はもう一度外に出て、全身を軽くはたいた。

 今頃、ルルも怒られているに違いない。

「ルルちゃんに会った?」

「うん、会ったよ。どうして?」

「ルルちゃんちのお手伝いさんが、うちに聞きに来たのよ。ルルちゃんが遊びに来ていないかって」

「まいったな、ルルが勉強しないことは全部、僕のせいになりそうだ」

 僕は流しで手を洗い、テーブルについた。

 籠に盛られたクラッカーをつまんで、口に放り込む。

「セイラ、……あんまり外に出ないでちょうだいね」

 母さんは精一杯のさりげなさを装って、言った。

「どうして?」

 僕も、何食わぬ顔で聞く。

「だって――、ほら、セイラだって勉強しなくちゃ駄目でしょう? せっかく、先生が目をかけてくださるんだから」

「……うん」

 わかってる。母さんは、僕を失う日を恐れているんだ。僕とは違う理由で。

 僕を失うことが確実であると知っていて、そしてそれを覚悟していて――その運命に抗うことなんて考えもせず。

 ただ、自分の目の届かないところで僕が失われてしまうことを、恐れている。

 『世界の仕組み』が、圧し掛かってくる。

 正しい、世界の、仕組み。

 一人目のこどもは失われる。それが、世界の常識。すべての大人は覚悟をしている。愛するヒトと結ばれたそのときに。

 だけれど、その覚悟も、悲しみを覆い尽くすことは出来ない。どんなに覚悟したって、愛おしんだものが失われるのは、身を引きちぎられるように悲しいはずだ。

 ……『神様』も『使徒』も、その悲しみを理解しない。

 『世界の仕組み』は、その、身を引きちぎられるような悲しみを経験したものにだけ、新しいこども――つまりは、正しく生まれたこどもを、授けてくれる。

 何故?

 その悲しみを経なければこどもを愛せないほど、ヒトは、愚かなのだろうか。

「母さん」

 僕は、母さんが差し出してくれる、木製の器に盛られたシチューの湯気を眺めながら、ぽつりと呟いた。

「僕は、いつ、どんなふうに死ぬんだろうね」

 それは、罪に問われる言葉に違いなかった。そのことが僕にはわかっていた。

 母さんは驚いた表情で僕を見て、それからぎゅっと抱きしめた。強い力で。僕はその腕の中で、声を殺して泣いた。

 『神様』も、『使徒』も、『世界の仕組み』も、くそくらえだ。

 どうして僕らが、そんなものに支配されねばならないんだ。

 どうして、失う悲しみを経験しなければ何かを、誰かを、大切にすることが出来ないなんて決め付けるんだ。

 僕は、父さんのことも、母さんのことも好きだ。離れたくない。ルルのことだって、好きだ。あの金色の巻き毛も、ばら色の頬も、ぺらぺらとどうでもいいことばかり滑り出してくるくちびるも。

 今の『僕』が、彼らのことを好きなんだ。

 僕が『正しく』生まれたとしても、僕のこの気持ちはどこかへいってしまっているんじゃないのか。

 『正しく生まれた僕』も、きっと父さんと母さんを愛するだろう。もしかしたら、ルルに淡い恋心なんか抱くのかもしれない。

 だけど、それは『僕』じゃない。

 『僕』はいったいなんなんだ。

 僕はその夜、父さんと母さんに長い、長い話をした。

 僕の知りうる、すべての。

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