第2話
息子はあのアニメのここが面白かったとか、今描いている絵を塗るのに赤のクレヨンがあと2本必要だとか、石鹸でシャボン玉を作ってみせてくれなどと、お湯につかって奔放な思いを語ったあとで、おまけみたいに学校に行くのが嫌だと言い出した。
「学校へ行けばいやなことがあるのかい?」
そう尋ねると、学校は楽しい、と言う。
「じゃあ、行くのが嫌なの?」
「うん」
「学校までが遠いから?」
「うーん、それもあるけど」
「あるけど?」
「お支度がいやなの」
「あぁ、お支度か」
私は試運転のつもりで水鉄砲をお湯に向かって二回噴射した。
「で、どうしていやなんだい?」
「上手にできないから」
「そうか、上手にできないんだ」
「うん。疲れるし、悲しくなるの」
「なるほど。疲れるし悲しくなるときはパパにもあるよ。あれはなんだか、泣きたくなる」
そう言ったら、湯船のなかでコポコポ音を立てる水鉄砲を見ていた息子は、ゆっくり顔を上げ私を見た。
「ほんと?パパもそうなの?」
「そうだよ」
「泣きたくなるの?大人なのに?」
「大人だってにんげんだもの」
「へぇ、男で大人のひとなのに泣くんだね」
「そりゃ、泣くさ」
息子はひどく感心していた。
「パパは元々泣き虫なんだ。小さいときのあだ名はヨワムシ」
「そうなの?あまり、カッコよくはないね」
「うん、どちらかというとカッコわるいな」
私はできるだけ息子に嘘をつきたくないのだ。
「でも泣いたあとは、必ず泣き止む。それがパパのすごいところだ」
あと、父としての威厳もほんのり忘れたくはない。
「へぇ、パパってすごいなぁ」
「おまえも毎日頑張ってるじゃないか」
「そうかなぁ」
「頑張ってるから、疲れるし悲しくなるんだろう?」
「そうか。そうなのかぁ」
「ママがすきかい?」
「うん、だいすき」
「ママを喜ばせたいかい?」
「うん、なのにいつも怒らせちゃうんだ」
息子はまたうつむいてしまった。
おへそのあたりのうぶ毛についている小さな気泡をひとつずつ数えているみたいに黙りこんでしまった。だから私も一緒に、その数を数えることにした。
……………12、13、14。
「ぼく、ママを笑わせたいんだ。でも朝のお支度のなかに、ママを笑わせる、っていうのを入れたら遅刻しちゃうでしょう?」
言葉に詰まった。息子は水鉄砲にパンパン水を補充して、対面している私の肩を容赦なく撃った。
「バーン」
「いて!」
「へっへー。ほんとに痛かった?」
「ほんとに痛かった」
「ぼくにもやって!」
「いくぞ、バーン」
「いてっ!」
水鉄砲の先から直線の水が勢いよく放たれ、至近距離からの攻撃に私たちは仲良く痛がった。
「パパね、海を舞台にした小説を書こうと思ってるんだ」
それはたった今ひらめいたことだった。
「だから、一緒に海を探さないか?」
「えー?学校じゃなくて海に行っていいの?」
「行けるかどうかはわからないさ。だって二人でこれから探すんだもの」
「たどり着けなかったらどうするの?」
「たどり着けなくたっていいさ」
「どうして?」
「パパは海に行きたいんじゃないもの」
「そうなの?」
「頭と頭を寄せあって、海へたどり着くための相談をしようじゃないか。そのためには何をしたらいいと思う?」
「うーん、地図を広げるとか?」
「いいねぇ」
「電車の時刻表を調べる?」
「いいねぇ」
息子の目がたっぷり水をたたえた朝の湖のように輝いている。
「必要ならお握りを作ろうか。おまえは中身に何を入れたがるんだろう?」
「ママなら一発で好きな具を当てるよ!」
「パパも当てたいな」
「当ててみてよ」
「ママにヒントをもらっちゃおう」
「ズルはダメだよ!」
息子の声は厳しいが、表情はほころんでいる。
「ほら、想像してごらん。そのおにぎりをリュックに入れて歩くパパとおまえを。どうだい、見えるかい?」
「うん、見えるよ!」
「海鳥の声のするほうへ行ってみようか。森を抜けたらむせかえるような潮風の匂いがするだろう。浜辺が見えてきた! 黄色や青の花が咲いてる。おまえには何が見える?」
「足元にちいさなヤドカリがいる!」
「拾ってごらん」
「うん、そっとね」
「ほら。ヤドカリが手のひらを歩くときの感触を、おまえとパパはもう分かち合っているだろう?」
「ほんとうだねぇパパ。海を探すってこういうことかぁ」
息子の澄んだ瞳に熱がこもった。
「明日行こうか」
「学校はどうするの?」
「休むのさ、体がふたつあれば別だけどね」
「ママは行かないの?」
「男同士。二人だけじゃ不満かい?」
「いいよ。なんかそれいいね!」
私は息子をしみじみと眺めた。
まだ少し産毛の残るおでこも、気弱そうに下がった眉も、新しい発見をしたがっている目も、グミみたいな鼻も、抜けたまままだ生えてこない前歯も、上気した丸い頬も、頼りない肩も腕も、子供らしいぽっこりおなかも、少しデベソなのも、飾りのように付いているおちんちんも、息子の何もかもが私には神がかりに見えた。
その神々しさを目の当たりにすると、妻には感謝しかない。私の神様とその聖母が、疲れているのなら休ませなければならない。とても自然な答だ。
互いを愛するがゆえに苦しむ者たちのお話は、小説や映画や戯曲や漫画のなかだけで充分。
愛ゆえに互いが疲れているのなら、少し離れてみるという選択肢があってもよいのではないだろうか。
「じゃあ決定。旅に出よう」
「出よう出よう」
「その前に風呂を出よう、のぼせちゃうぞ」
「そうだね」
「パパアイス食べたいな」
「ぼくも!」
風呂を出るとアイスは残り一個だった。
チョコのとこばかり食べるなとか、パパの一口はでっかすぎるとか、仲良く口ゲンカをしながら我々はアイスをはんぶんこした。
人前でうまく話せないのはいけないことだろうか。オシッコに異物が混じっていたら親は大慌てしなければならないだろうか。
私が見る限り息子は健やかで美しく、このうえなく眩しい。親のおごりだと言われればそれまでだ。しかしそんなふうにおごることすら、私には尊い。
「そろそろ寝るお支度をしなくっちゃ」
「寝るのに支度なんかいらないよ」
「そうなの?」
息子はまばらな睫毛をぱちぱちさせて、小さな鼻孔をぷっくらと膨らませていた。
「こうすればいいのさ」
私は布団に寝転がってみせた。
清潔なシーツのうえに一日の疲れが心地よく広がっていくようだった。
柔軟剤の優しい匂いと息子の子どもらしい無垢な体臭が、私の周りの空間に満ちているのを感じることができる。
「おいで」
「うん」
息子も布団に転がって、私たちは向き合った。
「おまえのお手手を握っていいかい?」
寝転んだまま、声をかけた。
「もちろんいいよ」
息子の両手を握った。
それは小さくて柔らかく恐ろしく無防備で、この世界の善にも悪にも届く無限の可能性を秘めているのだと思った。
「いいけどさ、でもさ」
息子は少し困ったような顔をした。
「これじゃあ、歯磨きができないよ」
「なるほど、確かに歯磨きはできないね」
私はうっかり感心してしまった。
「どうしよう」
「どうしようか」
「お手手を離してはくれないの?」
「うん、申し訳ないけれどまだ離したくないんだよね」
息子は必死に考え、私はのんびりとした気持ちで彼のふわふわの手の感触を味わっていた。
「ママ!歯磨きしてくれない?」
息子の大きな声を聞き付けて、妻は黙ってこちらにやってきた。手には彼の歯ブラシをもっている。
トムとジェリーの絵がついた、ブルーの小児用だ。
私は息子がそんな歯ブラシを使っていることすら知らなかった。今ちゃんと覚えたからねと、心のなかで呟いてみた。
「甘えん坊はパパのほうみたいね」
息子の手の匂いを嗅いで、頬でその感触を味わおうとしている私を見て妻が呆れて苦笑していた。
「こんな素敵なものがすぐそばにあるなんて信じられないよ」
大袈裟かもしれないが、寄せるばかりで引いていくことを知らない波を集めるように、私のこころは喜びに満ち満ちていた。
妻は膝の上に彼の小さな頭を乗せた。
息子の満ち足りた顔を、妻の微笑する頬の曲線を、眺めることは幸福だった。
さぁ、明日は息子と出掛けよう。海が私たちをきっと待っているはずだ。
おわり。
海を探す 友大ナビ @navi22
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