海を探す

友大ナビ

第1話

 ことの始まりは小学生になったばかりの息子の異変だった。


 異変などといったら大袈裟かもしれない、それは初めはちょっとした違和感のようなものにすぎなかったから。彼は登校前、朝の支度でグズグズと泣くようになった。


「いつまで食べてるの?」


「時間割りは前の日にしなさいって言ったでしょう?」


「着替えるのに何分かかってるのよ!」


「歯磨きすんだら日焼け止め塗るのも忘れないのよ?」


 息子のそばでは常に妻の金切り声が響いている。ヒステリックな母親だと言われればそれまでだが、すべて息子を想ってのことなのだ。


 だから手伝うということはするまい、と心に課している。自立した子になってほしいと彼女なりに願っているのだ。


 息子は妻に似て色白で、日に焼けるとすぐに肌が赤くなり炎症を起こすものだから日焼け止めは彼女の親心であろう。そう考えると、この金切り声は愛の咆哮と捉えてよい。


 しかしそんな朝が続くうちに、息子の様子がだんだんと変わってきた。彼はもともとおっとりした性格で、知的好奇心が豊かな男の子だ。


 どちらかというと、おっとりのんびり。とても大人しい。彼は今、7歳にしか知り得ない自分の世界を生きている。そこに時間の概念はないように思う。


 時計の読み方を学校で習っているようなので試しに「今何時かな?」と聞いてみると「うーん、えーと、7時62分」という答が返ってきた。


 私はそれを、微笑ましく思う。

 彼だけにしか潜れない時空をのんびりたゆたっている息子を夢想することは、何にも代えがたい楽しみだ。感性豊かな男の子、彼は私の自慢。


 しかし人によっては愚図に見えるだろう。ノロマに見えるだろう。思慮深い眼差しが、不気味に見えるかもしれない。その上彼は真面目だ。他人の期待に応えようとするいじらしさも持ち合わせている。


 もしかしたらだけれども。

 食べるのが遅いのは一口を30回咀嚼しましょうという幼稚園の教えをいまだ忠実に守ろうとしているからかもしれない。


 時間割りは、忘れ物をしないためにあえて出かける間際にするのが主義なのかもしれない。


 苦手な制服の第一ボタンだけ、本当はママに手伝って欲しいのかもしれない。


 登校途中に目に留まる道端の花は、摘みたいし、眺めたいし、嗅ぎたいしちぎりたい。


 雨の日は側溝の水の流れを飽きるまで観察したいし、水溜まりのなかに三角座りをしてみたい衝動と日々戦っているんじゃないだろうか。


 日焼け止めを塗らなければならないことに理由があるなんて、きっと思ってもみないのだろう。


 でも彼は遅刻しないよう学校に行かなければならないことをちゃんとわかっている。やりたいことと、やらなくてはならないことのせめぎあいに苦しむのは大人も一緒だ。


 そういうものを題材にして小説を書くことを生業にしている自分にはなんとなく息子の戸惑いがわかる。五月病のようなものだろうとたかをくくって、しばらくは様子を見守ろうと妻と話した。


 しかしそんな悠長なことを言っていられないほど状況は深刻だっだ。


 ある日担任の先生から連絡が来た。


「言葉の発達が未熟なようです。はっきりと発音できない音があり、人前での発表も言葉に詰まって出来たことがありません」


 確かにしゃべり方はたどたどしいが、発達の遅れを指摘されるほどだとは思わなかった。これだけでも親にとっては充分なショックだ。しかしもうひとつの報告が、私達夫婦に追い討ちをかけた。


「尿検査で微量の潜血が出ましたので、念のため病院で再検査を受けてください」


 そう言われたとき、大袈裟かもしれないが、七歳の小さな身体と心に何か得体の知れない魔物が忍び寄り、おぞましい触手を伸ばそうとしているんじゃないかと私はおののいた。


 妻のショックはいわずもがなで、たった一人の可愛い息子の心体に表れた悪しき様相に動揺しないはずがない。


 しかし彼女はそれを隠そうと必死に平静を保っているように見えた。狼狽えてしまえばいいものを、妻はそうしなかった。


 それは虚勢を張っているようにも見えたし、動じないことで息子を不安にさせないよう努めているようでもあった。


 何のせいでもない。誰のせいでもない。

 ただ、息子の体調も精神状態も、よい状況下にないという現実問題がそこにあるだけだ。


 それとなく話を聞いてみるから普段通りに過ごそうと妻と話し合って、その日もいつものように私と息子は一緒にお風呂に入った。


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