第5話
あれから三ヶ月余りが経過した。自室のクーラーはしっかりと仕事が板につき、気合いの入った唸り声を上げている。窓の外からは、蝉が死の間際に生の痕跡を残そうとでもいうのか、合唱が聞こえてくる。
あの時、今度こそ最後の別れだと思った。しかしアイツは俺にメールを送り続けた。そして、その結果殆ど毎週俺はアイツと「まーくん」――正樹と三人で出掛けている。繁華街は勿論の事、映画館、遊園地、果ては海までも行った。今日は花火を、アイツが一人暮らしする家のベランダから見ることになっている。そういった内容のメールが、二日前に来たのだ。
当初、仲睦まじい恋人同士の邪魔をする事に抵抗があった。しかし、当人達は俺の参加を喜び、持て成し、共に楽しんだ。俺も徐々にこの不思議な付き合いに慣れ、引きこもっていた日々とは違う生き甲斐を感じる迄に至った。そして、それが俺を大学受験に対して前向きにさせ、今年度の冬に受験する事を決めた。
少し駅から離れた、湖の近くのマンションにアイツの家はある。俺は正樹と一緒にエントランスを通り抜け、部屋のインターホンを押した。正樹とは駅で集合して、それからアイツの家まで二人で来た。俺と正樹の関係は、もう友人と言ってよかった。
「はあい」
呑気な声がスピーカー越しに聞こえた。それが宴の始まる合図。
大きな地響きの音。光が明滅して、目に焼き付く。ぱっと花が咲いて、直ぐに燃え尽きた。そしてまた、次々と。
俺は腹が膨れて、僅かな酔を感じていた。正樹と肩を並べてベランダの欄干に寄りかかる。花火は今迄で一番綺麗に、鮮やかに思えた。アイツの美味しかった料理を口内で再生しながら、デザートの火花を味わった。アイツは先程買出しに出掛け、今、俺は正樹と二人きりだ。
「正くん、俺のこと、羨ましい」
突然、正樹がそう訊いた。
今迄正樹とは一度もなされなかった類の会話に、只ならぬ気配を感じた。首筋の汗を手で拭う。
「羨ましい、って、どういうこと」
花火のせいだ。声を少し張り上げてしまった。
「俺がみっちを取っちゃったこと」
相変わらず、地響きは鳴り止まない。
正樹は俺の方を向かなかった。
「羨ましくない、って言ったら、嘘になるけど……」
喉に何かが引っ掛かって、上手く言葉が出なかった。美しく咲いて散る花は、もう目には留まらなかった。正樹はその花を見続けて言う。
「そう」
それだけ、か。騒音のお陰で沈黙には困らなかった。俺はまた花火に目を戻した。肘が正樹のそれと当たって同時に、ごめん、と言った。
「俺、もう美智子がいないとやっていけないから、よかった」
正樹はそう、呟いた。
瞬間、俺の中で何かが爆ぜた。眩暈がする程の激流。許せない。火花が散った。
アイツがお前を選んだのは、お前が「与え」たからだ。俺を見限ったのは、俺が「与えられ」たからだ。それに気付かずに、美智子の存在に安堵しているなんて、ありえない。悲しみさえ覚える。報われないアイツを、願いさえ打ち砕かれるアイツを、哀れむしかなかった。
花は絶えず、燃え尽きる。
俺はわなわなと震える手と脚を持ち上げて、正樹の背後に忍び寄った。そして、正樹のブランド物のポロシャツを掴み上げた。俺より少し逞しい腕を掴み上げた。勢いで正樹は欄干に乗り上げる。直ぐ下は川。ここは五階。
正樹は抵抗した。正樹と俺は背格好は同じ、体格としては正樹の方がやや勝っていた。それでも、俺の力は予想の範疇を遥かに超えた。自分のこととはいえ、通常の力からは到底想像も出来なかった。正樹の叫び声は響いたが、俺の鼓膜には届いていなかった。それどころか、近隣住民は皆湖畔に出掛けており、誰の鼓膜にも届いていなかった。
地響きしか聞こえていなかった。正樹が必死で喘ぎながら抵抗しても、それを押さえつけ、欄干から外へ外へと押し出した。息も上がって、唸るような音が漏れた。
「赦して」
どちらの物かも分からない声は混ざり合って、真夏の夜に溶けた。それを地鳴りが、爆発が、熱気が掻き回した。
俺はアイツが好きだった。俺は正樹が好きだった。だからこそアイツが毎回自分を誘ってくれるのが、罪滅ぼしであるかのように思えてならなかった。正樹が俺を友人として迎え入れてくれるのが、謝罪に思えてならなかった。俺は孤立しがちであった故に、友人という存在は居るだけで幸せだった。それを、それを、穢すなんて。友情を、罪滅ぼしに使うなんて。愛情を、根絶やしにするなんて。自分の単なる憶測が真実味を帯び始めれば、もう止まれなかった。
正樹の金髪を掴んで、俺は思い出した。アイツと再開する迄の妄想を。溜まったフラストレーションが、アイツを殴る妄想を。幼気な非現実を。皮膚は想像と違って硬い。殴れば、こちらの手が痛みそうだ。温度は、とても熱い。外気のせいだろうか。血は見えないが、相手の上気した顔を見れば、底に赤が潜んでいるのが分かる。そして手に張り付いた金糸。服に巻き付いた金糸。アイツのベッドに散らばった金糸。短い金糸。長い金糸。細い金糸。金糸。金糸。金糸。
視界の端で、正樹がふっと、笑った気がした。
途端、力が抜けた。俺はコンクリートに腰を強かに打ち付けた。
正樹の姿はもう、何処にもなかった。
何かが沈んだような音は、爆発音でかき消された。俺の耳には、何一つ届かなかった。呆然とした儘、その場から指一本たりとも動けずにいた。
花火は綺麗だ。
波一つ立たない川面に蛍光色が舞い散る。
ベランダのコンクリートに捨て置かれたサングラスに反射する。光は更に輝きを増した。
「ただいま」
金の糸 悠鶴 @night-red
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