第4話
心臓が五月蠅い。絶え間なく響き続ける呼吸音も、歯軋りも、血液が循環するせせらぎでさえも耳障りだ。一体誰が騒音を撒き散らしているんだ。そう苛々を募らせては、その騒音の元凶が自分自身である事に気付くと、一際大きな溜息が出た。
一足早く、約束していたファミレスの前に着いてしまった。スマートフォンで確認してみれば現在時刻は丁度午後二時半。約束の時間まであと三十分もある。再会なんぞ望んでいない、と思っていた昨日迄の自分が途端に虚構の匂いを漂わせてしまった。着慣れなくなってしまったシャツの襟を正すと、俺は青いリュックサックから文庫本を取り出した。「罪と罰・下」と書かれたそれを控え目に開いてはページを繰る。よろよろと電柱に
「ごめんね、正ちゃん。待った?」
聞き慣れた声が脳を貫いて、はっと顔を上げる。
そこには、アイツがいた。変わった服と髪で、変わらない笑顔と目をしたアイツが居た。
返答に困っていると、彼女は俺の腕を掴んで
「ここじゃあ暑いでしょ。早く中に入ろう」
と言った。やや強引な性格は相変わらずのようで、俺はぼんやりとしている間に、大通りが見渡せる窓側のボックス席に案内されていた。アイツが手際よくケーキセットを二人分注文して、それから黒髪をひっつめにした高校生らしいウェイトレスは厨房の方に去っていった。
「ごめんね、急に呼び出して。びっくりしたでしょ」
俺がまごついていると、アイツが口火を切った。緩く毛先がウェーブした金髪を指に絡ませては解くことを繰り返しながら、笑顔の儘、目線は机の俺から向かって左側に置かれたメニュー表に注がれていた。伏せた瞼は濃い睫毛に覆われていて、微かに開いた唇も目立つピンクに彩られていた。
「いや、一番驚いたのは、その……」
俺がそう言うと、くすくすと笑い出した。合わせて首に巻き付いた金属がジャラジャラと音を立てた。
「分かってる。私の、このカッコでしょ? そりゃあそうだよね、髪染めてパーマかけたの、卒業してすぐ後だもん」
「そうか、それじゃあ俺は知らない筈だね」
俺は優しい声音でこう答え乍らも、いざアイツを目の前にして冷汗が止まらなかった。アイツは変わった。但しそれは見た目のみの話で、態度や話し方、性格迄もは変わってはいないだろうと思っていた。しかし、実際に話してみて、話し方が若干変わったのではないか、という疑念が頭を過った。何処が、それははっきりとは言及し難かった。以前はもっと丁寧で、それこそ一般的な生徒とは一線を画した個性的な柔らかい口調であったような気がするのだが、それが今では完全に抜け落ちてしまっている。良くも悪くも、「普通の女の子」である印象を受ける。
先程のウェイトレスがケーキと紅茶をそれぞれ二人分運んできた。随分と久しぶりに、独特の甘ったるい匂いが鼻孔を擽る。チョコレートで一面がコーティングされたファミレスらしいケーキ、それにぴったり合いそうなアールグレイの紅茶。俺は慌てて紅茶を啜った。
「そのね、私が卒業した後、ううん、正ちゃんに突然別れるって言いだしたきっかけからかな。今日は、今日こそはちゃんとお話ししておきたくて」
来た、本題だ。口をナプキンで拭う。チョコレートケーキにフォークを突き立て、一片を切り分けて口にした。香り同様、甘ったるい。アイツはカップに口を付けてからまた話した。
「卒業式の一週間ぐらい前、正ちゃんといつもみたいに放課後を過ごしてから予備校に行ったの。これもいつものことだった。二次試験直前だったけど、行きたい大学だってそんなに難しい所じゃなかったし、ずっとA判定もらってたから周りのみんなみたいに必死じゃなかった。いつもみたいに正ちゃんとのんびりして、それで受かっちゃえばいいや、って思ってたの」
確かに、アイツは成績優秀だった。頼りない記憶を探る。俺は放課後はアイツと過ごすか、本を読むかをしていたので、熱心に勉強というものに取り組んだ覚えはなかった。アイツも同じようなものだと思っていたので、予備校に行っていたというのも、アイツの志望大学がそれ程難関な所でないというのも初耳だった。
「でもその日は違った。返却された模試の結果を見て、私は『もうダメだ』って思った。今までずっと楽してた罰が当たったんだと思う。D判定だったの。入学してからずっとA判定だった第一志望が、土壇場の直前にもなってD判定になったの。どうしてだかは分からない。その模試で、私はいつも通りやり遂げたと思ったし、分からないとか難しいとか何一つ感じなかった。いつもみたいにA判定で、本番も上手くいって、そのまま大学生になれると思ってたの。今考えてみれば、あれは多分予備校側のミス。それも、単なる書類上の。だけどその時の私には『D』の一文字がすごく大きく見えて、頭が真っ白になってて、そのまま外に飛び出してた。セーラー服のままカバンも持たずに、夜の駅前の繁華街をひたすら歩いてた。多分、Dのことしか考えてなかったと思う。私って自分が思ってたよりずっと、バカなんだ、って」
アイツは組んでいた脚を組み替えて、紅茶を啜った。テーブルの柱に彼女の黒いピンヒールの踵が当たり、小さく金属音が反響した。
俺は話に、只耳を傾けることしか出来なかった。自然と、食事をする手も止まる。
「そんなとき、まーくん、あの人と出会ったの。ほら、昨日私と一緒にいた人。まーくんはその時大学一年生で、たまたま学校からの帰りが遅くなって、たまたま帰り道で泣きじゃくる女子高生と出会っただけ。周りに他の人はいなかったけど、本当は私のことなんて無視してもよかった。でもまーくんは優しかったから、泣いている女の子を放ってなんかおけなかったんだと思う。私、その時初めて『大丈夫?』って言葉を貰ったの。涙でぼやけて顔とかはよく見えなかったけど、金髪の、ちょっとチャラいお兄さんが話しかけてきた、って気付いた。そしたら涙がどんどん溢れてどうしようもなくなって、座りこんじゃった。その間まーくんはずっと傍にいて、背中をさすってくれてた」
「まーくん」って奴は、悪いヤツではないらしい。それが率直な感想だった。昨日は一目見ただけの他人に理不尽な憎悪を募らせていたが、話を聞く度にその感情は段々と仄暗いものになっていった。寧ろ、外見とは裏腹に優しさを持つ人間に好感の念も抱き始めた程であった。
「私が泣き止んで、そしたら『どうしたの』って訊いてくれた。物心ついた時から、私はいつも『大丈夫? どうしたの』って訊く側だったから、人からそういう言葉を貰えることの意味を初めて知った。そういえば知らない男の人に話しかけられるのも初めてだった。まーくんは何もかも、私の初めての人だったんだね。それから私はまーくんに全部話した。Dのこと、塾のこと、学校のこと、家のこと、正ちゃんのこと。もうすぐ日付が変わりそうで、家の人からの電話で携帯のバイブレーションがうるさかったけど、気にもしなかった。私がずっと話してても、まーくんは黙って聞いてくれた。その時思ったの。この人に私の話を聞いてもらいたい。今だけじゃなくて、これからもずっと。これも初めてのことだった」
俺は「まーくん」に対して好感しか抱かなかった。近年余り見かけない、下心を持たない好青年。その姿に宮沢賢治を透かし見た。数多の日本人が連想する、純朴な理想の宮沢賢治の像。それが「まーくん」なのだと感慨に耽った。
しかし、また同時に首を締め付けられるような感覚に襲われた。アイツの初めてを全て奪った男、そう印象付られたことで、自分との差をありありと感じ、眼球を薄い水膜が覆った。腹の芯が燃え盛るかのようにも思えた。それは単純に嫉妬かと思いきや直ぐに収まって、後から来た冷たい風が吹き付けた。俺は雫が零れ落ちないよう細心の注意を払いながら、話を聞き続けた。
「その後家まで送ってもらって、私は無事帰れたんだけど、布団の中に潜って色々考えた。正ちゃんのことはずっと好きだった。今でも好き。本当だよ。でも正ちゃんは私が見てなきゃ、私がいなくちゃ誰も愛してくれない。まーくんは多分、私じゃなくても沢山の人に愛される。でも私は貰いたかった。優しい言葉も、思いやりも、私ばっかりがあげるのはもう疲れてたの。白馬の王子様でなくてもいいから、普通に、普通に手を差し伸べてほしかったの。女王様はもうやめて、普通の女の子みたいになりたかったの。化粧したり、恋バナしたり、友達や彼氏とひたすら遊びたかった。ごめんね。正ちゃんに不満があるわけじゃないの。正ちゃんに文句言ってるわけじゃない。私はその時初めて、与えられるってことの価値に気付いただけだったから。それで、与えることが必要な正ちゃんが途端に疎ましく思えて、卒業式でさよならすることにしたの。それ以上正ちゃんといると、正ちゃんを傷付けるかもしれなかった。普通の女の子になる私に、正ちゃんは贅沢すぎたの。ごめんね」
謝らなければならないのは俺の方だ。その言葉は口内で周回して結局湧き出る事はなかった。相変わらず俯いて、アイツの単純明快な論理を噛み締めた。単純なのだ。本を日常的に読んで生活する人間にとっては、アイツの心理を読み取る事など容易い筈だった。しかし、俺は後悔している。何故か。俺の勇気を阻害したのは他ならぬ自分自身だったからだ。俺の中にある壁が、アイツに何かを「与える」という選択肢を抹殺してしまったのだ。
なんてことをしてしまったんだろう。それでも、今更アイツに何かを与えるなど、出来る訳ないのだ。
「ごめん」
それしか出て来なかった。震える声で告げて、店内から飛び出した。机に野口英世を二枚置いて。
今度は、追いかけては来なかった。
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