第3話

 帰宅した俺はベッドに沈んだ。金属が軋む音がした。

 走って、猛烈に暑いと感じた。パーカーを脱いで久々にクーラーの電源を付けた。肩で息をし、朦朧とした意識の中で、水が欲しい、とだけ思った。

 手ぶらで帰宅して、母親がそれに気付けば直ぐに小言を垂れた。しかし、それを聞く事もなく二階に上がり、自室のドアを勢いよく開けた。扉が閉まれば、母親の怒号など皆無に等しかった。

 クーラーが効き始めたのと同時に、意識は戻りつつあった。そして、母親が代わりに買い物に出かけたのを確認してから、一階に降りて水を飲み、それからまた自室に戻った。

 脳内は、先程出会ったアイツに占領されつつあった。

 少女の象徴のような大人しかったセーラー服は、ピンクの装飾が付いたゴテゴテしたTシャツと短過ぎるスカートになっていた。紺のハイソックスとローファーに包まれた細い脚は、高いピンヒールを引っ掛けた細い脚になっていた。飾り気のない腕も、顔も、アクセサリーやら化粧やらで覆われていた。何より髪が、あの麗しく高貴で流れるような黒髪が、金――それも、五月蠅く騒ぎ立てる金――に染まっていた。

 もう俺の知っていたアイツではなかった。少なくともそう諦めたかった。それでも、正ちゃん、と微かに呼んだあの目は、矢張りアイツだった。誰よりも澄んでいて、誰よりも慈愛に満ち溢れた目だった。美智子。俺は心で呟く。美智子、誰よりも変わったように見えて、お前は誰よりも変わっていないんじゃないか。あの目。そう、あの目だ。あの目は昔と変わっちゃあいない。それが分かるのだって、俺だけなんだ。あんな男じゃなくて、俺だけなんだ。美智子、どうして……。

 その儘、深い意識の沼底に沈んでいった。


 聞きなれた着信音に叩き起こされた。

 慌ててスマートフォンを掴む。寝ぼけ眼を強烈なブルーライトが焼いた。溢れ出た涙を手の甲で拭って、ぼやけたピントがようやく合うと、そこに書かれた文面に驚愕した。差出人の欄に、竹中美智子、と書かれている。

「今日は本当にごめんなさい。ううん、今日だけじゃなくて今までずっと。今日一緒にいたのは彼氏です。あの人の見た目に結構驚いたと思う。けれど一番驚いたのは、私の変わりようだよね。本当に、ちゃんと話せなくてごめんなさい。私、卒業式から日が経ってから、正ちゃんに失礼なことしてしまったってずっと悔いてた。明日、ちゃんと話をして謝りたい。だから正ちゃんさえ良ければ、明日の午後三時に駅前のファミレスに来てくれないかな? もちろん、無理にとは言いません。それでも良ければお返事ください。

p.s. 正ちゃんのメルアドは久保田君から教えてもらいました。」

 久保田君、とは俺の従弟である。唯一幼少期から接点を持っていた人で、関係も親戚というよりは友人に近い。アイツと接点なんかあったのか、と更に驚愕した。メールアドレスに関しては、俺は高校時代に携帯電話を持っていなかったので、アイツが知らないのも当然だった。

 明日、明日だ。スマートフォンに表示された時刻を確認する。十七時三分、夕飯前だ。帰ってきてから随分と長いこと寝てしまっていたようだ。アイツと明日会える。そう思うと気が気でなかった。

 俺がアイツを諦めていないのと同じように、アイツも俺を諦めていない。俺の脳内にささやかな傲慢が横切った。そして、自らの心の内に潜めていた醜い感情と対面して、脳に冷たい鉄棒を捻じ込まれたかのような感覚に陥った。それは、絶望か否か判断し難かった。俺は、アイツに対して興味がないように振る舞っておき乍らも、その実強い執着を抱いていたのだ。そう気付いた瞬間、俺は蒼く深い渦に落下した。しかし、みすぼらしく退廃したガラクタの海で、その渦の中で、頭だけは真っ黒に冴え渡っていたのである。

 俺は咄嗟にスマートフォンを強く握りしめ、返信した。

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