第65話 二つの名前
ストロベリーハウスや圭司の店に来た、例の同一人物と思われる男のことは、もちろん日本には伝えていない。取るに足らないつまらない事件だった。いつしかそんなことがあったことさえも圭司の記憶からは消えていった。
むしろ、圭司には圭の宝箱で見つかったメモのことがずっと心に引っかかるものを感じていた。
そもそも、やはり日本から圭が来ていたのなら、なぜ本当の両親がわからないのか。日本ほど戸籍というものがはっきりしている国はないと言っても過言ではないはずだ。それなのに名前がわかっている子供が日本のどこからか来ているのかわからないという、そういう痕跡がないことなどあるのだろうか——
「大変申し訳ありませんが、そういったご質問には個人情報保護法の関係でお答えできません」
十五年ほど前に、「高橋」という、生まれたばかりの子供を連れた女性の入国記録がないか。領事館がそう答えることはわかっていた。そして五年近くの年月が過ぎ、いろいろな考えうる可能性が潰れていくにつれ、むくむくとトムが口にしたあり得ない想像が頭をよぎってしまうのだ。
「神さまの子供」と思うようにしたんだ——
「ねえ、圭司。今さらこんなこと聞くのもなんだけど……」
ステラが、この間トムに何を聞こうとしたのか。確かめるのが怖くてまだ真意を聞いていなかった。そんなある日の午後、ランチタイムが終わって一息ついていたときステラが話を切り出した。
読んでいた日本の音楽雑誌から圭司が目を上げた。圭が送ってくれたもので、初めてのインタビュー記事が掲載されている。
「何?」
「あのさ……。ずっと考えていたんだけど、圭の名前って本当にタカハシなのかなって——」
虚をつかれ、少しどきりとする。やはりステラも自分と同じことを思っていたのだろうか。
「それってどういう意味?」動揺を気付かれないように言葉を返した。
「例えばね、あのメモを書いたのは実はメリンダなんじゃないかってのはどう?」と言葉を選びながらステラが続けた。
ああ、そっちか。
「そんなこと考えたこともなかったな」本当はメモが見つかった日からずっと気になっていた。ただし、圭司の気掛かりは多分ステラとは違う意味だと思う。
「ええっとね、私はこう考えたの。ケイという名前は本当だとして、タカハシという名前は日本人のほとんどはタカハシだと思いこんでるメリンダが、圭の名前に続けてメリンダ自身がそうメモに書いた、とかないかなあ。だってトムも言ってたよね? メリンダが日本人はタカハシなんだって言ってたって」
確かにそのまったく可能性がないわけではないが、トムが——母親は拙い英語だが——「子供の名前だけは紙に書いてもらった」と言ったのをこの耳で聞いている。その紙が見つかっているのだ。圭がハウスに預けられた時のトムの記憶はやはり正しかったと思っている。
ただ、ステラの考えとは別の理由で圭司がその可能性があると思っていることが口にできなかった。
「いや、俺はトムから母親自身に名前を書いてもらったと聞いたよ。考えすぎじゃないかな」
「やっぱりそうよね。謎を解くいい考えを思いついたって思ったんだけど、さすがに無理があるかあ」ステラは鼻の上に皺を寄せて「あーあ」と残念がっていた。
結局、圭の両親を探すと言う二人の強い思いは変わらなかったが、それ以上何も進展がないまま、ただ月日だけが過ぎていった。
⌘
OJガール——と最近、圭達のバンドは縮めて呼ばれている——はこの数ヶ月、順調にレコーディングを重ねていた。アルバムに納める曲は、最初他の作曲家に曲を依頼することも考えたが、圭が書き溜めたノートには既に数十曲のストックがあることが判明した。試しに圭に歌わせてみるとソウルやR&Bを主体としたなかなかの個性が光るもので、それらをちゃんとした曲にしないのは惜しいということで全員の意見が一致した。
それらの曲はギターコードが書かれているだけでちゃんとした楽譜にはなっていないため、まず圭にメロディを歌わせて、その中からすぐに曲にできるとメンバーが判断したものを選別して楽譜に起こして編曲を済ませたものだ。その中には、圭司の曲も二曲入っていた。本歌は前編英語詩のため、圭太の発案により詩だけはところどころ日本語を突っ込んで日本人にも聞きやすいように少し変えたが、英語のリズムは壊さないように気をつけた。
そしていよいよ、来月OJガール初めてのアルバムが発売される日が近づいていた。プロモーションのため、記者会見も予定されている。
——これは絶対世間に受け入れられる。
圭太はそう自信を深めていた。
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