第二十四話 米への情熱
熊鰐(くまわに)は腕組みをして考えた。先祖伝来の地を、外から来た者に貸して良いのかどうか。一歳(ひととせ)という期限付きとはいえ、自身の国を他国の者に譲るということは、服従に近いことになるのではないか・・・と。
しかし、一歳の間、米というものを作ってくれるという。狭野(さの)の言うことが本当ならば、素晴らしい作物(さくもつ)を、労なく得ることが出来るかもしれない。
熊鰐も、米の良さを全く知らないわけではない。菟狭の民が、余った米を他国に売り、他の産物と交換していることを知っている。余ったものであるから、痛くも痒(かゆ)くもない。余らなければ、他国の物資と交換しなければ良いだけのこと。
菟狭の民の暮らし向きが良くなっていることも知っている。子供たちを見ても、菟狭の子供には躍動感がある。力がみなぎっているように見えるのである。
出来れば、崗(おか)も米を作りたい。そう思うこともある。しかし、一歳が長すぎる。誰も待ってはいられない。待つ間に、稲の葉を食べてしまうかもしれないし、作業を放棄するかもしれない。
菟狭で見た、一面に広がる田園。熊鰐も憧(あこが)れた。しかし、それを自分の国でやるとなると、話は変わってくる。毎日の狩猟生活に慣れている彼らに、どのように教え諭せば良いか、全く見当もつかないのである。第一、自分自身が、米の何たるかを知らない。
菟狭津彦(うさつひこ)に頼むことも出来た。しかし、それは熊鰐の名誉心が許さなかった。同じ一国の長(おさ)として、教えを乞うなど、まるで菟狭の軍門に降るようなことに思えたのである。
だが、今ここに、高千穂の国が、米を作らせてくれと頼みこんできている。青々と広がる田か、収穫時しか見たことのない熊鰐にとって、稲の成育過程が見られるのは、やはり貴重なことであった。
かと言って、この要求を呑んだことで、崗の民が、自分を蔑(ないがし)ろにし始めるかもしれない。そうなっては本末転倒である。
思い悩む熊鰐に、狭野が改めて声をかけてきた。
「熊鰐殿。如何(いかが)であろう? より良き地を借りるのじゃ。タダとは申さぬ。貝輪と換えるというのは? こちらは、熊鰐殿の言い値(ね)で構わぬ。」
思いがけない狭野からの提案に、熊鰐だけでなく、周りの家臣らも驚愕の色を見せた。言い値となれば、熊鰐の心次第ということになる。全部と言われれば、全部支払わなければならなくなるのである。
熊鰐は、全く信じられない気持ちであった。自分を信用しているということなのか。それとも、ただの呆(ほう)け者なのか。
それと同時に、貝輪を払わせるという方法が、熊鰐が民から侮(あなど)られない一策に成り得るということも自覚していた。
まるで、自身の考えを見透かしているような、そんな気分にもなってくる。本来なら、嫌味に感じてしまいそうなところであるが、なぜか、狭野が語ると、そうは思わないのである。思えないと言った方が正しいかもしれない。
米を作りたいという情熱が、嫌味などという低俗(ていぞく)な香りを掻(か)き消してしまっているのかもしれない。
熊鰐は、ここまで真っ直ぐな人を見たことがなかった。半ば感動の渦に巻き込まれそうになっている。そして、それを止めようとは思わなかった。逆に、そのまま呑み込まれたくなってしまったのである。小気味(こきみ)いいのである。
「狭野殿。貴殿の心意気、真(まこと)に感服仕(かんぷくつかまつ)りもうした。貝輪と換えること、承知致した。」
「では、貴殿の地を貸してもらえるということか?」
「げにも。如何様(いかよう)にも、お使いくだされ。貝輪の数は、その地の大きさで決めようと存ずるが、如何(いか)に?」
熊鰐が視線を送ると、狭野は満足そうに何度も頷(うなず)いてみせた。
「それで構わぬ。我らは、米が作れるだけで、ありがたいのじゃから・・・。」
「では、これで決まりですな。」
「ありがたいっ。真にありがたいっ。熊鰐殿。よう御決断くだされたっ。」
他人の土地で、米を作るということに、狭野は、心の底から喜んでいる。ここまで喜べる王の姿に、熊鰐は、神でも見ているのではないかと錯覚してしまうのであった。
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