第二十話 妻を想う

「仕方がないと言われてものう。」


 合点がいかないのか、天種子(あまのたね)はふくれっ面をして、船べりに顎(あご)を乗せた。剣根(つるぎね)は、それが面白くて仕方がない。ついついからかってしまう。


「今頃、どこぞの男子(おのこ)と睦(むつ)んでおるやもしれぬのう。」


「そ・・・そのようなことはないっ! 決してないっ! ない・・・はずじゃっ!」


 慌てる天種子。新妻(にいづま)と別れての旅路を想えば、可哀そうでもあるが、だからといって同情してやろうとは思わない。妻を置いて来ているのは、天種子に限ったことではないのである。


「菟狭(うさ)を旅立って、まだ一日も経っていないというに、この有り様・・・。先が思いやられるのう。」


「思いやられてくだされ。それがしには、過ぎたる妻にござった・・・。」


「まだ別れたわけではあるまい。」


 他の男子などと言ってしまったからか、天種子の顔は、苔むしたように青くなり、目は憂いを湛(たた)えている。


「も・・・もしも、どこぞの男子と・・・。」


「己(おの)が妻なら、信じてやれっ。汝(いまし)が信じずして、誰が信じるのかっ。」


 自分で話題を振っておきながら、何を言っているのかと、剣根は可笑しくなってしまった。だが、天種子は心の底から心配してしまっている。少しばかり良心の呵責(かしゃく)を感じる。


 一通り溜息を吐(つ)くと、天種子は恨めしそうな目で、剣根を見つめてきた。


「貴殿には分かるまい。わしが、どれだけ菟狭津媛(うさつひめ)を想っているかを・・・。媛のこと、信じてはおるが、心が軋(きし)むのよ。この辺りがのう。」


 そう言って、胸の上で強く拳(こぶし)を握る天種子。


 悲壮感漂う天種子の姿を見て、剣根は申し訳なくなってしまった。これからの旅に支障があってもいけない。剣根は、天種子を宥(なだ)めることに切り替えた。


「気持ちは分かるが、嫁を危うき地に連れては行けぬであろう?」


「それは分かっておる。だが、共に行きたいと嫁が言い、それを夫が断るというのが、本来の筋ではないか? 我が君と吾平津(あひらつ)様、興世(おきよ)殿を見て見よっ。」


 ここで主君を例えに出してくるとは思わなかった。何と返せば良いのか。否定すれば、主君を間違っていることになる。かと言って、肯定すれば、天種子の嫁が間違っているという話になってしまい、余計に落ち込むことになる。試行錯誤の末、剣根は、自分の妻を例えにする方向で話を進めた。


「そのようなことはない。我が妻も行きたいなどとは口に、せなんだ。他の家臣もそうじゃ。御舎兄様方の奥方もそうではないか。汝(いまし)だけではないのじゃ。我が君だけ、少しばかり異なっただけのこと・・・。」


「我が君だけ別儀(べつぎ)と申されまするか?」


「吾平津様も、興世殿も、気性の激しき御方ゆえ、あのようなことになったが、存外(ぞんがい)、女御(おなご)というものは、危うきところには行きたがらぬものよ。」


 剣根の説明に得心したのか、唸(うな)りつつ腕組みをする天種子。


 間髪入れず、剣根が続きを語る。


「我が妻など、涙一つ見せなんだぞ。旅立つ日もケロリとしておった。のう、夜麻都俾(やまとべ)。」


 ここで剣根は、傍に控えていた息子の夜麻都俾(やまとべ)に話を振った。援軍を要請したのである。


 だが、期待に反して、息子は困惑の顔で返してきた。


「ち・・・父上、いきなり、そのようなことを尋ねられましても、何とお答えしたら良いか・・・。」


「じゃが、母者(ははじゃ)に泣くような素振りはなかったであろう?」


 改めて問い質(ただ)す剣根に、夜麻都俾は、苦悶に満ちた表情を見せてきた。


「母上は、泣いておられましたぞ。夜、それがしが厠(かわや)に向かいし折、母上が月に向かって祈りを捧げておられるのを見もうした。悲しそうな御顔で・・・。居たたまれず、声かけること出来ませなんだ。」


 息子からの衝撃の告白に、剣根は面食らうと共に、自身の情けなさに呆れるほかなかった。己(おの)が妻の悲哀を感じ取ることもなく、呑気に旅立ってしまった、愚かな夫であると・・・。


「天種子・・・。女御は皆、そうなのやもしれぬな。表で笑い、裏で泣いておるのやも・・・。貴殿の嫁御も・・・。」


 天種子は黙ったままであったが、その目はしっかりと、剣根の想いを受け止めていた。

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