第十九話 妻の心、夫知らず

 菟狭津媛(うさつひめ)は、きっぱりと断った。


「名残惜しゅうござりまするが、わたくしは付いては参れませぬ。」


「な・・・なにゆえじゃ。わしと汝(いまし)は夫婦(めおと)ぞ。共に旅を行くことに、何の障(さわ)りがあろう。」


 半ば泣きべそを掻いている夫。男というのは、こうもだらしのないものなのだろうか。兄も、奥方の前では、このような態度をしているのであろうか。俄かには信じられないが、紛(まご)うこと無き現実が目の前にある。


「あなた様の武運長久を祈っておりまするし、つつがなき旅であれと願っておりまする。されど、わたくしが付いて行くのは道理に合わぬかと・・・。」


「何を申すか。どの生き物も番(つが)いで営んでおるではないか。我(われ)は、汝(いまし)と共にいたいのじゃ。一寸たりとも離れとうないのじゃ。」


 全く聞く耳を持とうとしない夫、天種子(あまのたね)。どうすれば納得してもらえるのか。このような危ない旅に同行してくれと懇願すること自体、狂気の沙汰である。菟狭津媛は、ここで論点を変えてみることにした。


「では、なにゆえ、武具を調(ととの)えておられまする。戦となるやもしれぬ旅ゆえではござりませぬか? そのようなことになり、わたくしが命を落とせば、もう二度と、お会いすること能(あた)わぬのですよ。」


 決して天種子が嫌いだからではない。身の危険が迫るかもしれない旅に付いていきたくないのである。こんな危ないことをするために夫婦になったわけではない。菟狭と高千穂を結ぶため、少しでも兄の力になりたいという想いからである。それゆえに、このような提案を受け入れることなど絶対に出来ない。


 戦の一言は絶大な効果があったようで、天種子も言葉を失ったようである。顔を青ざめ、口を半開きにしたまま、硬直してしまっている。


 ここで菟狭津媛は、更なるとどめの一発を見舞うことにした。


「あなた様は、わたくしが死んでも良いと申されますのか? 汚らわしき奴原(やつばら)に酷(むご)き仕打ちを受けても良いと申されますのか?」


「そっ・・・そのような、そのようなこと、考えたくもない。汝(いまし)が、そのようなことになれば、我(われ)は生きてゆけぬっ。」


「されど、あなた様は、そうなるやもしれぬ旅に、わたくしを連れて行こうとされておられるではありませぬか。」


 反論出来ない様子の天種子。項垂れ、惨(みじ)めなほどに寂しそうな顔を浮かべている。だが、ここで同情するわけにはいかない。


 しばらくの沈黙が続いた。天種子から、次の発言はない。ただ、力なく佇むばかり。もしかしたら、涙まで見せるのではないかと心配になってしまう。


 だが、それは杞憂(きゆう)に終わった。夫は、菟狭津媛の両の肩を唐突に強く握ってきたのである。更には、目を凝らして見つめてきた。矢を射るような勢いで、充血した眼(まなこ)を近付けてくる天種子。


 菟狭津媛は、少し怖くなった。しかし、ここで目を逸らすわけにはいかない。じっと見つめ返す。瞬きを忘れていたせいか、自然と涙が溢れてくる。その光るものに、天種子は一瞬、体をよじらせ、苦悶に満ちた表情となった。何か勘違いしているのかもしれなかったが、菟狭津媛は好都合だと思った。


 案の定、天種子は諦めの言葉と一つの願い事を申し伝えてきた。


「汝(いまし)を危うき目には遭わせられぬ。なぜなら、我(われ)は汝を慕(しと)うておるからじゃ。汝を失うことは、天地(あめつち)が消えて無くなるも同じぞ。さ・・・されどな、されど、汝が、つつがなきか否か、我が心はそればかりに囚われてしまいそうになる。それゆえ、それゆえ、月に一度は文(ふみ)を送っておくれ。我も文を送ろうぞ。旅とは申せ・・・様々なところに、しばらく留まることとなるはずじゃ。それゆえ、文、送ること能うはずじゃ。」


「かしこまりました。わたくしも、あなた様のつつがなきやを知りとうござりまする。離れしところにおりましても、心は、あなた様の元に・・・。」


「おうおう、そう言うてくれるか。我が想い人よ。今日は離さぬぞ。いやっ、旅立つ、そのときまで、離しておくものか。ささっ、もそっと顔を見せておくれ。目に焼き付けようぞ。決して忘れること無きようにな・・・。」


 少しばかり面倒なことになってしまったが、旅に同行しなくとも良くなったのである。これくらいは許容しなければなるまい。菟狭津媛は、数日の辛抱だと、自分に言い聞かせながら、天種子の腕に身を委ねるのであった。

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