第十八話 海の民の願い

 狭野尊(さの・のみこと)一行は、一か月ほど菟狭(うさ)に滞在したと、地元の伝承は語る。天種子(あまのたね)と菟狭津媛(うさつひめ)の祝言(しゅうげん)などがあった為であろう。


 そんなある日の朝、椎根津彦(しいねつひこ)は足一騰宮(あしひとつあがり・のみや)の回廊から海を眺めていた。


 果てしなく続く海。海の道はどこまでも続く。この道を踏破した者などいるのだろうか。椎根津彦は、汐風を顔に受けながら、水平線に見果てぬ夢を重ね合わせていた。


 そのとき、ある男の声が届いた。


「珍彦(うずひこ)殿ではないか。」


 振り向くと、菟狭津彦(うさつひこ)であった。さっぱりとした顔付きから見て、寝起きではないようである。清々しいまでの屈託のない笑顔で歩み寄ってきた。


 椎根津彦も負けじと微笑んで返す。


「これは菟狭津彦様。朝早くから、何事にござる。」


「それを言うなら、汝(いまし)も・・・であろう?」


 確かに椎根津彦自身も朝早くから海を見ていた。このところ、暇で仕方ないのである。高千穂と菟狭の婚儀が結ばれ、祝言や神々への祈りなどで時間を割かれている今、椎根津彦がする事など何一つない。こればかりは、部外者という扱いをされても文句は言えないのであるが、若干の寂しさはある。


 ただ、今回の婚儀が、八洲(やしま)にとって寿(ことほ)ぐべき重要なものであることは承知している。だから、嬉しくもある。全ての国が家族として結び付けば、争いがなくなるかもしれない。高千穂と菟狭のように・・・。夢物語かもしれないが、唾棄(だき)するには惜しい可能性でもある。


 そんなことをつらつらと考えているところで、菟狭津彦は、椎根津彦の隣に腰を下ろしてきた。


「珍彦殿。わざわざ『様』などつけなくとも良い。我らは共に、一国の長(おさ)ではないか。気兼ねのう、『殿』で呼んでくだされ。」


 菟狭津彦の申し分は充分に理解出来るが、一国と言っても、その大きさは全く異なる。速吸之門(はやすいのと)周辺の海を治める椎根津彦と、菟狭という巨大な貿易港を有する国家とでは比較にならない。だが、好意はありがたく受け止めねば・・・。


「菟狭津彦・・・殿。貴殿は如何思(いかがおぼ)し召しか? 海が一つになることを・・・。」


「海は一つしかない。それを分(わ)かつは、愚かしいことと思われぬか? 筑紫(つくし)(今の九州)も瀬戸内も、皆、一つになれば、菟狭だけでなく、全ての国が豊かになろう。」


「げにも。それを成さんとする御仁が、今、現れもうした。」


 椎根津彦の脳裏に狭野の顔が浮かぶ。高千穂という大国の君主でありながら、どうしてこのような旅を始めたのか・・・。これまでの安穏な暮らしを捨てての旅とも言える。誰もが一度は夢想し、現実的ではないと諦める話を、あの御仁は、本気で成し遂げようとしている。その理由が分からない。釈然としないものはあるが、この好機を逃す手はない。


 菟狭津彦も同じ思いであったのか、胸中を吐露し始めた。


「なにゆえかのう。なにゆえ、狭野様は、苦しき旅を始められたのか・・・。」


「それがしにも分かりませぬ。ただ、あの御方は、真っ直ぐな御方・・・。八洲を一つにすると、心の底から思っておられまする。」


「貴殿は、狭野様に付いて行かれる御所存か?」


「そのつもりにござる。瀬戸内にも見知った者たちがおりますれば、船路において、必ずや、お役に立つと考えた次第。この旅で、海の民をまとめること能(あた)えば、この海は思うがままになりましょうぞ。」


 椎根津彦がそう言うと、菟狭津彦は満足そうに髭を一撫でしてみせた。その眼前には、陽光煌めく海が広がっている。


「珍彦殿。貴殿の願いは、わしの願いでもある。菟狭は海の商いで栄えし国じゃ。愚かしい税(ちから)など無く、四方(よも)の国と商いが出来れば、これほど素晴らしいことはない。」


「それがしも同じにござる。」


 そう言って、菟狭津彦の表情を窺うと、口元に不敵な笑みを浮かべ、瞳の奥には、何か光るものを携えている。訝しく想っていると、菟狭津彦は、椎根津彦の顔を凝視しながら、もう一つの見解を述べてきた。


「わしには、他にも考えがある。高千穂が八洲を一つにした時、菟狭は最も早く与(くみ)した国として、覚え目出度(めでた)かろう。決して、軽んじられることはない。」


 菟狭津彦の野心に触れ、椎根津彦は頭の下がる想いであった。

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