第十六話 天種子の恋
天種子(あまのたね)は緊張の中にあった。舞を指しつつ、気になる女へと距離を詰めていく。声をかける絶好の機会である。逸(はや)る想いを抑えながら、天種子は歩を進めていた。
大御饗(おおみあえ)は乱舞の場と化し、周りは飲めや歌えやの大騒ぎである。狭野尊(さの・のみこと)の舞から始まって、今や全員が舞いつつ飲みつつ歌いつつの状況となっている。
恐る恐る、件(くだん)の女へと近づく天種子。海の民の舞を指す椎根津彦(しいねつひこ)をかわし、踊り狂う菟狭(うさ)の民の垣根を潜(くぐ)り、天種子は目標地点に辿り着いた。
傍に寄ってきた天種子に、女が気付いた。優しい笑みを浮かべる。その微笑に、天種子は気が遠くなりそうになった。想像以上の愛らしさである。
高鳴る鼓動を感じつつ、天種子は声をかけようとした。一目見た時から、虜(とりこ)となっていた。一生を共に添い遂げたいと思った。いつまでも一緒にいたいと思った。いつまでも愛し続ける自信があった。
ところが、いざ、女を前にした途端、言葉が浮かばない。何と言っていいのか、皆目見当もつかないのである。いきなりやって来て、不躾(ぶしつけ)なことを言うわけにはいかない。最悪の場合、女に嫌われてしまうかもしれない。不安と言う名の臆病風が、天種子の心に陰を差す。戸惑いを隠すように、作り笑いで誤魔化すしかない。
それを見て、女は何か感じ取ったのか、とぼけたような、空を眺める童のような顔で尋ねてきた。
「如何(いかが)なされましたか?」
何かあったと思うのが道理であろう。天種子も、それはよく分かっている。分かってはいるが、何と言ったらよいのか、全く単語が出て来ない。言葉が霧となって消えていくのである。
「い・・・いやっ・・・。」
「先ほどから、御機嫌が優(すぐ)れぬ御様子。お口に合わぬものがございましたか?」
「そ・・・そういうわけではない・・・。」
舞を指しながらの状態で、しどろもどろな天種子。それを訝(いぶか)し気に眺める女。おかしな構図が出来上がっていた。しかし、どうすることも出来ない天種子。
そのとき、ふと疑念が湧き起こってきた。この女は、もしや菟狭津彦(うさつひこ)の奥方ではないのかと・・・。
美しい勾玉の装飾品。汚れ一つない純白の服。頭には朱色の珊瑚を用いた髪飾り。どう見ても、ただの民ではない。このような着こなしが出来るということは・・・。やはり、菟狭の君の奥方以外にないではないか・・・。
望まぬことが、己の脳裏に過(よぎ)った瞬間、天種子の口から、流暢に言葉が零(こぼ)れ出て来た。自分でも驚くほどであった。
「さすがは菟狭の君の奥方にござりまするな。汝(いまし)のような見目麗しき御方を見たのは、初めてにござる。いやはや、菟狭津彦殿が羨ましい。真(まこと)に羨ましい限り・・・。」
天種子は分かっていた。女が「かたじけのうござりまする。」と返してくることを・・・。そして、これが自分を傷つけぬための、愚かしい保身の策であるということも・・・。
だが、天種子の予測は見事に裏切られた。嬉しい裏切りと言っても過言ではないかもしれない。女は目を見開いて驚いた様子を見せたあと、声を殺して笑い始めた。
「天種子様と仰られましたね・・・。まだ名も名乗らず、不躾なことを致しました。お許しくださりませ。」
そう言うと、女は腰を屈(かが)め、天種子に一瞥してきた。
「わたくしは、菟狭津彦の妹、菟狭津にござりまする。お褒めの言の葉をいただき、真に嬉しゅうござりまする。」
「なっ?! 奥方ではないと・・・?」
「兄とは歳も離れておりませぬゆえ、そう見えても致し方ござりませぬな。」
嬉しそうに微笑む菟狭津媛。少し恥ずかしそうでもある。
天女のような菟狭津媛の笑顔に、天種子は心が溶けてしまいそうになった。気が付けば、疑念や焦燥などは消え失せ、代わりに安堵の気持ちが広がっている。すると、感情の発露が止めどなく押し寄せてきて、天種子の理性はどこかへと放り出されてしまった。
「我(われ)は、汝(いまし)を妻にしたい! 共に家族となりて、両国の弥栄(いやさか)を寿(ことほ)ごうではないか! 高千穂と菟狭の絆を盤石なものにしたいのじゃ!」
突然の天種子の叫び声に、菟狭津媛だけでなく、周りの者らも舞うのを忘れ、呆然と眺めていた。
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