第十五話 大御饗
菟狭(うさ)の地に辿り着いた、狭野尊(さの・のみこと)一行は、地元の民からの歓迎を受けた。足一騰宮(あしひとつあがり・のみや)という宮殿まで建造され、邑(むら)を上げての出迎えであった。
『記紀(きき)』に記された足一騰宮。この宮殿の実像は謎に包まれている。柱一本を階段のようにして使った建物とも、屋根を一本の柱で支えた建物とも、また、川か海の中に片側を入れ、もう一方を岸にかけて構えられた宮ともいわれている。
とにもかくにも、一行は、この宮殿で、菟狭の民から歓待を受けた。菟狭の君(きみ)である菟狭津彦(うさつひこ)が、深々と首を垂れながら、民を代表して挨拶を述べる。
「ようこそ菟狭へ・・・。狭野様、一日とは言わず、二日でも三日でも、この地にお留まりくださりませ。我ら、どのようなことでも致しまする。不行き届けがあらば、気兼ねのう、お申し付けくださりませ。」
仰々しいほどの口上に、狭野は上機嫌である。長兄の彦五瀬(ひこいつせ)らも満面の笑みで返す。日臣(ひのおみ)や剣根(つるぎね)も得意げな表情となっている。だが一人だけ、挨拶を聞き流し、呆然としている男がいた。天種子(あまのたね)である。
顔を上げた菟狭津彦が気付くのに、さほど時間はかからなかった。不安げに眉を寄せつつ、菟狭津彦は天種子に尋ねた。
「如何(いかが)なされましたか? これらの御饗では、物足りぬところがござりましたかな?」
唐突に声をかけられ、天種子は慌てるほかない。
「い・・・いやっ、そのような・・・。貴殿らの心づくし、真に痛み入る次第・・・。」
「されど、喜んではいただけておられぬ御様子。何か、気に障ることでもあったのかと・・・。」
たくさんの馳走(ちそう)が並び、酒もふんだんに用意されている御饗に、ケチをつける者など皆無であろう。天種子の心が、ここにあらずなのは、御饗のせいではなかった。想い募る女にばかり目が行き、御饗など眼中にないのであった。
そんな天種子の想いも知らず、次兄(じけい)の稲飯(いなひ)が代弁を始めた。
「天種子は訝(いぶか)しく思っておるのでござろう。」
稲飯の発言に、菟狭津彦の眉が吊り上がる。
「訝しくとは・・・なにゆえにござりまする?」
「菟狭と高千穂は、古(いにしえ)より商(あきな)いを以(もっ)て互いに通じておるが、あくまで別々の国じゃ。我らにひれ伏す道理がない。それゆえ、何か思うところありて、このような御饗をおこなっているのではないかと見ておるのであろう。」
まるで天種子の意見であるかのように、稲飯は言ったが、どう見ても自身の考えである。これを聞いて、菟狭津彦が気分を害さないはずがない。
「なんという申し様。我らに二心(ふたごころ)ありと申されまするかっ。」
菟狭津彦も馬鹿ではない。詰問の対象は稲飯に向けられている。売り言葉に買い言葉ではないが、稲飯も鋭い目つきで返す。
「では、なにゆえ、我らからの貝輪も受け取らず、宮まで作り、このような御饗まで催しておるのかっ。酔いつぶれたところで、我らを騙し討ちにするつもりではないのかっ。」
空気が一瞬にして凍り付く。菟狭の民たちは狼狽し、高千穂一行は顔を青ざめるばかり。宮殿内は、虫の羽音すら聞こえてきそうなほど静まり返った。
そのとき、重苦しい静寂を打ち破り、狭野が大声を出して笑い始めた。
「次兄、思い過ごしじゃ。菟狭津彦殿が、我らを害さんなどと・・・そのようなお気持ちを持っているはずがござらぬ。そが証しに・・・。」
狭野は、そこまで言うと、杯に湛(たた)えられた酒を一気に飲み干した。
「如何(いかが)にござる。毒など入ってはおりませぬぞ。ほれ、この通り・・・。」
言いながら立ち上がる狭野。その流れで、舞を指し始めた。これに同調し、彦五瀬、日臣なども舞いに加わる。舞っていない者は酒を手に取り、舞に合わせて陽気に歌い始めた。息子の手研耳(たぎしみみ)に至っては、酒を甕(かめ)ごと飲み始める始末。
狭野は舞いながら、菟狭津彦の手を取った。目で、共に舞えと伝える。菟狭津彦は唇を震わせ、狭野の意気に応えた。これを契機に、菟狭の民も踊り始め、宴は賑わいを帯び始めた。あとに残るは、慄然とする稲飯のみ。そこへ、菟狭津彦が駆け寄ってきた。
「稲飯様、我らに二心などござりませぬ。我らは、商(あきな)いを、もっと盛んにしたいのじゃ。八洲(やしま)が一つとなれば、この菟狭も潤(うるお)いまする。それを成し遂げんとされておられる狭野様に、我らは強き望みを抱いておるのでござる。」
稲飯は、菟狭津彦の熱い眼差しに心打たれた。己の狭量な考えと行動により、同盟国を一つ失うところであったと気付かされたのである。
「菟狭津彦殿、わしの愚かな言の葉・・・。お忘れいただきたい。」
そう言うと、稲飯は酒を一気に飲み干した。
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