第十話 椎根津彦

 黒砂(いさご)は、目の前にいる主人の背中を見つめていた。主人の珍彦(うずひこ)は海を大きくすると言う。海をまとめ、商(あきな)いの領域を広げると言う。主人の言う通り、八洲(やしま)の国の全ての海が一つになれば、今以上に商いがしやすくなり、今以上に豊かな海が現出されるのは間違いない。


 自信満々に己を売り込む主人に、黒砂は尊敬と驚嘆の眼差しを向けていた。いつから、主人は、野望・・・もとい大望を抱いていたのであろう。今日の狭野尊(さの・のみこと)の来訪を知るまで、そんなことなど一言も語らなかった主人である。


 黒砂の想いなど知る筈もなく、主人の珍彦が、熱く語る。


「この八洲をまとめんがため、中(なか)つ国(くに)に向かうと聞き及んでおりまするが、そが真(まこと)なれば、それがしも御同行させていただきたく存じまする。」


 懸命に語る珍彦の真向いには、狭野たちの乗る船。狭野が家臣たちを引き連れ、船べりに立っている。狭野は、感心したように髭を撫でると、波の音(ね)にも負けじと大声を張り上げた。


「汝(いまし)の想い、我は心より嬉しく思う。同行すること許す。ただちにこちらへ乗り移って参れっ。」


 許しを受け、珍彦と黒砂、真砂(まさご)姉妹の乗る船が、高千穂側の船に近付く。珍彦は持っていた竿を高千穂側に向けた。腕の大きな男が、珍彦の真意を理解し、その竿を掴む。その男に支えられるようにして、珍彦は高千穂側の船に乗り込んだ。続けて、黒砂、真砂・・・。


 近くで見る狭野は、大きな男だった。体が大きいというわけではない。雰囲気というか、醸し出す存在感に圧倒されるのである。黒砂の右腕に、妹の真砂が不安そうにしがみつく。それを目で落ち着かせ、黒砂は、主人と狭野のやり取りを見守った。


 珍彦は跪(ひざまず)くと感謝の気持ちを述べた。当然、黒砂と真砂も続く。


「それがしのような、しがない国津神(くにつかみ)をお乗せくださりましたる段、心底より謝(しゃ)し奉りまする。」


「よいよい。汝(いまし)のような、八洲を想う者がいたことを知り、わしは嬉しいぞ。此度の旅は、苦しき旅となるやもしれぬ。されど、汝は、それを承知で同行を願い出たのであろう? それを想えば、我の方こそ、礼を申さねばならぬところよ・・・。」


「なんと勿体なき、お言葉・・・。」


 深々と首を垂れる珍彦(うずひこ)。そんな主人の傍らで、黒砂(いさご)は、狭野の態度と言葉に、衝撃を受けていた。黒砂は海の民として、陸の者たちを蔑(さげす)んで見ていた。と言うよりも、別種の生き物だと考えていた。所詮、海という自由な世界を知らぬ、大地に縛(しば)られた連中だと・・・。特に君(きみ)などと呼ばれる王たちは、傲岸不遜(ごうがんふそん)で横柄な者たちだと思っていた。


 ところが、目の前の高千穂の王は、同行することを許したばかりか、喜び、礼まで述べている。黒砂は、これまでの常識というものが崩れ去り、その音が聞こえてきたような感覚に襲われていた。


 そのとき、狭野が何か閃(ひらめ)いたような素振りで、珍彦に語りかけてきた。


「そうじゃ。汝(いまし)に、新しき名を授けようぞ。その名を以(もっ)て、この出会いを寿(ことほ)がん。」


「それがしに新しき名を?」


「うむ。何が良いかのう。しばし、待っておれ。」


 腕組みをして考え込む狭野。すぐ傍で、竿を手にしていた腕の太い男が、持ち主にそれを返した。


「椎(しい)の木で作った竿にござるな。なかなか立派な竿にござる。」


 腕の太い男が差し出す竿を珍彦が受け取る。


「良き竿を求めて、山中を練り歩きもうした。それがしの自慢の竿にござる。」


 珍彦の説明を聞き終わったあと、腕の太い男は自分の名を語った。


「それがしは日臣(ひのおみ)と申す。以後、お見知りおきくだされ。」


 両者共に頭を下げる。それを眺めていた狭野が、徐(おもむろ)に口を開いた。


「そうじゃ。椎の木で作った竿を持つ男・・・。椎根津彦(しいねつひこ)という名はどうじゃ?」


 唐突な高千穂の王からの提案に、珍彦は困惑気味に返した。


「はっ!? し・・・しいねつ・・・。」


「気に入らぬか?」


「いえっ。余りにもの、かたじけなさに言葉もなく、心中、お察し上げ願いとう存じ申し上げ奉りまするっ。」


 この日、狭野の家臣、椎根津彦(しいねつひこ)が誕生した。

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