第九話 珍彦の海

 現在の大分県と愛媛県の間に横たわる海域、豊予海峡(ほうよかいきょう)。古代の人々は、そこを速吸之門(はやすいなと)と呼んでいた。


 狭野尊(さの・のみこと)一行も、当然、この海域を進んだ。しかし、海峡というものは、潮の流れが速く、また複雑である。そのため、通過するのは至難の業であった。


 そんな海峡から少しばかり離れた、曲(わだ)の浦という海域で、釣りをする人物が一人。珍彦(うずひこ)という、地元の海の民を束ねる国津神(くにつかみ)がいた。いわゆる地方豪族と呼ばれる者である。


 船上から釣り糸を垂らし、呑気に魚が引っかかるのを待っていた珍彦のもとに、別の船が一艘、近付いてきた。その船には、二人の女が乗り込んでいる。


 一方の女が、珍彦に向かって叫ぶ。


「珍彦様、やはり噂は真(まこと)のようです。」


 女の声がする方向に顔を向ける珍彦。会心の笑みを浮かべる。


「おう、黒砂(いさご)か。耳にした話は真であったか。」


 黒砂と呼ばれた女が、珍彦に返す。


「はい。真にござりました。」


「して、今はどのあたりまで来ておられる?」


「速吸之門(はやすいなと)まで来ております。」


「もう近くではないかっ。」


 黒砂(いさご)は珍彦の顔を覗き込むようにして尋ねた。


「如何(いかが)なさいまするか? このままお迎えに上がりまするか?」


「このまま向かおう。高千穂の御一行が、如何(いか)なる者たちなのか見極めようぞ。」


 半ば興奮気味に語る珍彦。続けて、二人の女に問いかけた。


「して、汝(いまし)らは、狭野様の御尊顔(ごそんがん)を拝(はい)したのか?」


「遠くより、ちらりとだけ・・・。」


 そう答えたのは、黒砂(いさご)ではなく、もう一人の女、真砂(まさご)であった。二人は姉妹の海女(あま)である。


「ちらりとな・・・。して、真砂にはどう映った?」


「厳(おごそ)かなる御方と思いました。」


「黒砂はどうじゃ?」


「妹と同じく、立派な御仁とお見受け致しました。」


「そうか、二人とも、そう思うたか・・・。それほどならば、お仕えするにふさわしき御方やもしれんな。」


 そう言いながら口髭(くちひげ)を撫でる珍彦に、真砂が不安そうな顔を向けた。


「珍彦様、真に・・・このような危うきことを、自らお受け致しますのか?」


「そのつもりよ。この八洲(やしま)が一つにまとまれば、海の民が商うところも大きくなる。大きくなれば、豊かとなる。我らにとっても、ありがたい話なのじゃ。そのためにも、狭野様をお支えし、宿願成就の手助けを致す覚悟よ。」


 固い心の珍彦(うずひこ)は、すぐさま速吸之門(はやすいなと)に向かった。そこには予想通り、激しい潮流で難儀している狭野一行の姿があった。


 船を徐々に近づける珍彦。同乗者は黒砂(いさご)と真砂(まさご)の姉妹。近付いてきた小舟に、狭野一行も気が付いたようである。誰かが叫び声で尋ねてくる。


「おおい! 汝(いまし)は、この地の者かぁ?!」


 珍彦も、波の音(ね)に負けじと大声で返す。


「我は珍彦なり! この地を治む者にして、この地をよく知る者なり!」


 自己紹介を聞いた一行に衝撃が走るのを、珍彦は見逃さなかった。しばらくすると、群れなす一行の中から、威風堂々とした男が現れた。


「我ら高千穂より参った者。我は高千穂の君(きみ)、狭野なり。不躾(ぶしつけ)なることを申すが、汝(いまし)の手を借りたい! この門(と)を越えたいが、我らでは越えられそうもないのじゃっ! 案内仕(あないつかまつ)れっ!」


「仰(おお)せとあらば、お引き受け致しましょう。この海も、容易(たやす)く乗り越えて御覧(ごらん)に入れましょう。ただ、一つ、御願いしたき儀がござりまするっ!」


「我に成せることならば、何でも致そうぞっ!」


 言質(げんち)を取った珍彦は、真の狙いを吐き出した。


「この門(と)を乗り越えたのちも、お供すること、お許しくださりますよう御願い申し上げ奉りまする。」


「汝(いまし)は、我らの向かう先を知っておるのかっ?!」


「それを承知で申しておりまするっ!」


 不敵な笑みを零しながら、珍彦は狭野を見つめるのであった。

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