第六話 出航
紀元前667年8月1日早朝。まだ日も昇らぬ港の各所に、人々の声が響き渡る。
「起きよ! 起きよ!」
出航の日を迎えたのである。皆、慌てながら身支度を進めていた。狭野尊(さの・のみこと)も然り。
狭野は、戎衣(じゅうい)(軍服のこと)を着込んだまま、可愛らしい童女に綻びを繕ってもらっていた。童女が必死の形相で縫っている。その様子を眺めながら、狭野は突っ立った状態で、縫い終わるのを待っていた。
汗を拭いもせずに縫い続ける童女。狭野は少しばかり気の毒になり、何気なく声を
かけてみた。
「このような急ぎと相成り、港の者はいざ知らず、汝(いまし)にも迷惑をかけたな・・・。」
唐突な主君の言葉に、童女は驚きを隠そうともしない。狭野が続ける。
「汝(いまし)の名は何と申すか?」
主君の問いかけに、童女は目をしばたかせながら答えた。と言っても、手は休めていない。
「ク・・・クイナと申しまする。」
「クイナか・・・。汝(いまし)の父(てて)が付けたのか?」
「は・・・はい。クイナのような、丸くて可愛らしいおなごになるようにと・・・。」
顔も見ず、懸命に糸を通すクイナを見やりながら、狭野は笑みを零(こぼ)した。
「なるほど、クイナか・・・。確かに、汝(いまし)の父(てて)は、間違うてはおらなんだな。名の通りに育ったと見ゆる。」
思いがけぬ主君からの褒め言葉に、クイナの顔は赤くなる。狭野はそれを面白く思ってしまった。ついつい揶揄(からか)ってみたくなる。
「クイナは、稲に集(たか)る虫を喰ろうてくれる良き鳥じゃ。スズメでなくて良かったのう。」
「えっ・・・いやっ・・・はい。」
動揺しつつも、縫い上げていくクイナ。手先はかなり器用と思われる。狭野の戎衣(じゅうい)を縫う役に抜擢されただけのことはある。
そこへ妃の吾平津媛(あひらつひめ)と娘の岐須美美(きすみみ)が参上してきた。別れの挨拶に来たのである。
吾平津媛の顔は、非常に凛々しかった。まるで出立するのが逆のような感覚を覚える。
「殿。此度の宿願、見事成就致しますよう祈念致しておりまする。」
続けて岐須美美が首を垂れた。岐須美美の目は、既に涙目となっている。
「父上、必ずや・・・御無事に・・・。」
それ以上は言えないのか、頭を下げたままの岐須美美。狭野がそっと声をかける。
「よい、岐須美美。無理せずともよい。母者のこと頼むぞ。高千穂のこと頼むぞ。」
「は・・・はい。」
そのとき、クイナが狭野の顔を見つめてきた。視線に気付き、狭野もクイナを見る。
「お待たせ致しました。ただいま、縫い終わりました。」
「そうかっ。縫い終わったかっ。」
狭野はそう言うと、一指し舞ってみた。これで心置きなく出立出来る。満足そうな顔のクイナ。頭を下げたままの岐須美美。目に焼き付けようとしているのか、じっと見つめ続ける吾平津媛。
三人に語りかけるかのように、狭野は大音声を発した。
「これより出立いたああす!」
声を聞き取った従者が続く。
「出立いたああす!!」
蠢(うごめく)く人々。巻き上がる砂埃(すなぼこり)。息と息が重なり合い、熱が巷を包み込む。時折、吹く風が、なんとかそれを冷やしているが、意気に感じた人々を冷ますには程遠い。
狭野の後ろに、兄たちが続く。その後ろには家臣たち。船は、今か今かと待ち望む幼い子供のように、波のまにまに浮かんでいる。
狭野は船上に立つと、妻と娘を見つめた。隣に佇む、息子の手研耳命(たぎしみみ・のみこと)も同じであろう。これが永遠の別れとなるかもしれない。お互いが思いつつ、お互いが口にしない。目だけが、それを物語っている。このような時は、目だけで充分だと狭野は思った。今日の今日まで語り尽くした。あの勝気なおなごが、目に涙を浮かべながら、必死に目を逸らすまいとしている。娘は、もう堪え切れなくなったか、可愛らしい顔を台無しにしている。興世姫(おきよひめ)がいないのは気になるが・・・。
送る人、旅立つ人。様々な人々の声が、想いが、朝靄の港にこだましていた。
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