2-2

 アラートが響く。思考の海から引き上げられた俺は反射的にブレーキを掛ける。ユニットは数歩進んだ後で、歩みを止める。

 警告を発したのはエコー・レーダーだ。進路上の障害を探知したようだ。のぞき穴から様子をうかがう。まさかと思いハッチを開くと、ついこのあいだまで掛かっていた橋がなくなっている。古くからあるという鉄橋だったが、ついに崩落したらしい。

「くそ」俺は頭を掻きながら、ダッシュボードから地図を出して広げる。時間のロスを最小限に抑えるルートを、指で辿りつつ探す。

 谷を越える橋は、渡るつもりだったのがこの付近では唯一現存していたものだ。更に上流へ辿れば橋がないことはないが、そこまで行っている暇はない。海に出て海岸線を港まで行く方法があるが、海辺は〈フナムシ〉たちのテリトリーだ。どんな因縁を付けられるかわからない。

 こうしている間にも時間は過ぎていく。荷物が劣化していく音が聞こえるようだ。ジワジワと、端から腐っていくような――

 そんな音は聞こえない。だが、別の音が聞こえる。

 抑揚のついた、流れるようなこの音は――

 歌だ。

 まず無線をチェックする。だが、シェルターを離れてからスイッチは切ったままで、ノイズの一つも鳴っていない。他に歌が聞こえてきそうな機材はここにはない。操縦席の中を片っ端から探してみたが、何も出てこなかった。

 そうしている間にも、歌は聞こえ続けている。あるいは俺の頭がどうかしてしまったのかもしれないが、耳を塞ぐとちゃんと聞こえなくなる。

 塞いだり離したりを何度か繰り返すうちに、音が外から聞こえるものだと確信が湧いてくる。ハッチから顔を出し、辺りを探る。何もないし誰もいない。だが、歌は鮮明に聞こえる。機体の上から。、ユニットの背中から。

 物音を立てぬよう、息を殺してコクピットから降りる。上の様子をうかがいながら機体を離れると、陽射しとぶつかった。

 目が眩む。やがて逆光の中に、影が浮かび上がってくる。人影。

 人間が、コンテナの縁に腰掛けている。

 俺は目頭を押さえ、改めてコンテナを見上げた。歌は消えないし、人影もそのままだ。幻の類いではない。確かに歌う人間が、コンテナの上に存在している。

 女、というより少女だ。俺よりもいくらか若いはずだ。白い肌に白い装束。袖から覗く腕は細く、硝子のような印象を受ける。風になびく髪は、金色。陽光を浴びて、細かな輝きを帯びている。

 俺は立ち尽くす。歌を止めるわけにはいかないという気持ちが、足に根を張らせたようだ。あるいは、そうさせたのは歌を止めたくないという願望だったのかもしれない。

 聞いたことのない歌。だが同時に、ずっと昔から知っているような感覚もある。

 どこか遠くの風景が見えるような気がする。行ったことも見たこともない、遠い土地の風景が。そしてそれはこの世のどこにもないのだろうと、なぜか確信できる。消えてしまった場所の歌。胸の隅が疼くのは、そうした〈なくなってしまったもの〉に対する寂しさのせいなのだろうか。

 少女が口を噤み、歌が止む。終わったのだと、遅れて気付く。

 彼女は空を見上げている。流れる雲を眺めているのかもしれない。風の音だけが、辺りを包む。太陽が雲に隠れ、また現れる。同じことが、無言で数回繰り返される。

「……誰?」しばらく経ってから、俺はようやく言う。

「鳥」少女は空を見たまま呟く。

「鳥?」人間だろ、と言おうとして、俺は言葉を呑む。

 遠い天空に、踊るように舞う二つの影が見える。小さくて種類までは見分けられないが、少なくとも鳥だということはわかる。

 金色の髪の少女は、空に向けて両手を伸ばす。まるで鳥を捕まえようとするように。

 いや、〈まるで〉じゃない。本当に捕まえようとしている。彼女は腕を伸ばすことに夢中になるあまり、前へのめる。そのまま体勢を崩し、コンテナの縁から落ちてくる。受け止めないという選択肢はない。

 それなりの衝撃は覚悟したが、思ったほどではない。むしろ軽いぐらいだ。人間の、そしてこの年齢の少女にしては軽すぎる。

 抱き抱えた彼女を下ろす。二本の足で立とうした途端、少女が体勢を崩したので支えてやる。

「大丈夫か?」

 少女は小さく頷く。それから自分の足だけで立つ。風が吹けば倒されてしまいそうなほど危うい。そう思わせるのは見た目の〈淡さ〉だけでなく、俺の腕や胸に残った彼女の体温のせいでもある。彼女は、今の今まで冷やされていたかのように冷たい。

 一つの可能性が頭を過ぎる。というより、それ以外に彼女がどこから来た誰なのかを納得がいくように説明できない。その可能性を以てすれば、彼女が軽すぎることも、よろめいたことも、冷たいことも合点がいく。唯一難点があるとすれば、それが事実であるなら、猛烈に厄介な事態が起きていることを認めなくてはならなくなるということだ。

「一応、訊くけど」俺は崩れかけの吊り橋を歩く思いで言う。「あんた、どこから来たんだ?」

 少女は、碧色の瞳でぼんやりとこちらを見つめる。俺の言葉が彼女の芯に響くまで時間が掛かったらしく、ややあってようやく後ろを振り返り、一点を指す。

 案の定、コンテナだ。

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