運よく、剛覇は不必要なほどに多くの食料を城から持ち出していたので、それによって男の腹は満たされた。

 男は剛覇に礼を言う。


「助かったよ。君は僕の命の恩人だ。僕の名前は、12代目 輝々きき 怪々かいかい。君の名前は?」

「わたし? わたしの名前は……その……」

「ん? どうしたの?」

「えっと、質実……剛覇です」


 剛覇は自分の名前を口にすることをためらった。

 それは質実という苗字から、自分の出自、ひいては城からの脱走が知られてはいけないから――ではない。

 質実家はそれほどまでに知名度のある家柄ではなく、その心配は不要だった。

 だから、剛覇が口にするのをためらったのは、苗字ではなく名前。

 それを聞いた男がするだろう反応が、剛覇にとっては嫌だった。

 『男みたいな名前だ』と、そう言われることが……。

 だが実際に男がした反応は、そんなものとはまるで逆だった。


「剛覇? うん。たくましそうで、いい名前だね。女の子の君にぴったりだ」

「へ? え……あの」


 剛覇は戸惑いながらも、自分からあれを口にした。


「『男みたいな名前だ』って、言わないんですか?」

「どうして? だって君は女の子で、それは君の名前なんだろう? だったら、それは女の子の名前だよ」


 そんな風に言ってくれたのは、この男が初めてだった。

 男の体は、剛覇が最初落ち葉をかぶった彼を丸太だと思ったことからも分かるように、かなり大柄で筋肉質でがっちりとしていた。

 僕という一人称も、男の優しげな声も、そんな外見とは全くそぐわない。

 それがなんとなく可笑しくなって、剛覇はふふっと笑みを漏らした。


「ほらっ。笑ったらずっと可愛くなった。君は誰よりも女の子だよ」

「もう。輝々さんったら。じゃあ、笑っていないわたしは可愛くないっていうんですか?」

「ごめんごめん。もちろんどんな表情の君も可愛いさ。だけど、笑顔が一番素敵だよ」

「………………」


 男の年齢は30代、ひょっとすると40代はあって、剛覇とはかなりの年の差があった。

 兄妹どころか、親子ほどの年の差だ。

 しかし、男慣れしていない剛覇は、男の言葉に赤面する。

 剛覇のそんな様子に、男は全く気付かないまま、話を続ける。

 どうやらこの男、かなりの天然らしい。


「ごめんついでにもう1つ。名乗っておいてなんだけど、輝々 怪々っていうのは、僕の本名じゃないんだ。刀鍛冶として襲名したものなんだよ」

「刀鍛冶?」


 そうは全く見えない。

 まだしも、山賊と言われた方が納得しただろう。


「そ。もっとも、その名前もとっくの昔に弟子に譲ったけどね」

「それなら、本名は何なんですか?」

「本名は輝々 怪々を襲名するときに捨てたんだ。あれはもう僕の名前じゃない。ははっ、だから今の僕は名無しってことさ」


 男は笑う。

 その笑顔は、女の剛覇から見ても、とても素敵だと思った。

 男の笑顔をもっと見てみたいと、そう思った。


「それなら12代目さんって、呼んでいいですか?」

「え?」

「あなたのお弟子さんは13代目なんでしょう? だったら、12代目輝々 怪々から、輝々 怪々が取れれば、まだ12代目が残るじゃないですか」

「ははっ。そりゃあいいね。でも、12代目さんは言い難いだろう? 12代目でいいよ。そのついでに、敬語なんて使わなくてもいいさ。お姫様に敬語を使わせるほど、僕は立派な人間じゃないからね」

「え! あの……どうして……」


 剛覇の驚きは、質実家なんて知名度の低い家柄を知っていたこと――ではなく。


「どうして、それを知ってわたしに戻れって言わないんですか?」

「戻りたくないから、ここにいるんだろう? それなら、ここにいればいい。君が居たい場所、君が行きたい場所に、好きに行けばいいんだよ」


 その言葉に、剛覇は再び赤面するが、それを必死で隠すように、話を変えた。


「12代目さんは、どうしてこの山に……」

「こらっ。敬語は駄目だって」

「12代目は、なんでこの山にいるの?」

「うん。僕は南側の生まれなんだけどね。死ぬまでに、北側を含めて、この国中の土地を見て回りたいんだ。最近やっと、南側を回り終えたからね」

「国中の土地を……」

「そ。刀鍛冶をしているうちは、こんなことできなくてね。輝々 怪々の名前をおとしめないようにするのに、精一杯だった。でも、その名前を譲ってから、随分身軽になったよ。ははっ。13代目のあいつなんてのは、南側どころか家からも1歩も出ないで、刀を造り続けそうだけどね。それこそ、病身をおしてでも。ひょっとしたら、歴代最量の刀鍛冶、3代目輝々 怪々を越えるかもしれない」


 12代目の話の中で、剛覇はある単語が気にかかった。


「病身? それこそってどういう意味なの?」

「君も案外 目敏めざといね。僕の体はね、病に侵されているんだ。医者からは、もってあと半年と言われている……」


 12代目の様子からは、そんなものは全く感じられなかった。

 剛覇の表情が翳ると、12代目は不自然なほどに明るく振舞う。


「だから、君は笑ってた方がずっと可愛いってば。僕はもう長くないかもしれないけど、だからこそ、北側を早く見て回りたくて、今ここにいるんだよ。急ぎ過ぎて道に迷っていたら、行き倒れちゃったけどね」


 しかし、12代目がそうして言った言葉は、剛覇の表情を変えることはなかった。

 12代目は心底申し訳ないさそうに謝る。


「ごめんね。君と関係のないこんな話で、君をそんな表情にしちゃって……」

「関係なく……なんてないよ」


 剛覇は言う。


「わたし、12代目と一緒に旅がしたい。ね、いいでしょ?」


 子供のような甘え方をする剛覇に、12代目はわずかばかり当惑する。


「だけど、君はお姫様なんじゃ……」

「わたしが居たい場所、わたしが行きたい場所に、好きに行けばいいって言ってくれたでしょ? わたしは12代目と一緒に居たい。わたしは12代目と一緒に行きたい」


 剛覇の言葉を聞いて、12代目はふうと息をつくと、仕方なく折れることにした。


「しょうがないな。いいよ。ちょうど弟子も探していたところだしね」

「弟子? もう13代目に譲ってるって……」

「それは刀鍛冶としての弟子。僕が今探していたのは、こっちの弟子さ」


 12代目は着物の裾をまくる。

 そうしてあらわになった手首には、糸が何重にも巻かれていた。


「何なの、これ?」

「『折断糸せつだんし』。殺す武器ばかり造ってきた僕が、必死に考えて編み出した、生かす技術だ」

「生かす技術……」

「僕についてくるなら、これを君に伝授したいんだけど、いいかな?」


 12代目はまくっていたすそを下ろしながら言った。

 剛覇はこくりと頷く。


「もちろん。でね、わたしからもお願いがあるの」

「何? お願いって?」

「わたしのこと……剛覇って呼んで」


 2人は共に山を越え、北側の土地を回り始めた。

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