万象は逃げた。逃走。逃亡。

 当たり前だ。肉食動物を前に、逃げ出さない草食動物など存在しない。

 羅殺はそれを追った。追走。追跡。

 当たり前だ。得物を前に、追わない狩人など存在しない。

 万象は全力で走った。全速力で走った。

 それもそのはず。捕まればそれで終わるのだから。

 命は絶たれ、死んでしまうのだから。

 羅殺は適当に歩いた。のんびりと歩いた。

 それもそのはず。これはただの遊びなのだから。

 命を絶ち、殺す遊びでしかないのだから。


 だがそれでも、2人の距離はぐんぐん迫る。ぐんぐん縮まる。

 万象が全力で走っても、羅殺が適当に歩いても。

 万象が全速力で走っても、羅殺がのんびりと歩いても。

 それはあくまで万象の全力であり、羅殺の適当には遠く及ばない。

 それはあくまで万象の全速力であり、羅殺ののんびりには遠く及ばない。

 みじめなまでの、哀れなまでの実力差。

 それは才能だとか、そんな言葉で片付けられるレベルなどとうに超えている。

 どうしようもなく、定まっていることなのだ。

 世界の枠組みの1つであり、神が決めたこと。

 鼠が猫に喰われるように、神羅 万象は悪鬼 羅殺に喰われる。


 2人の距離は迫っていた。縮まっていた。

 ぐんぐんと。ぐんぐんと。


 ここで、悪鬼 羅殺という男について語る。

 彼の生い立ちと生き様と、殺しの人生を……。

 羅殺はこの国の人間ではない。

 因果応峰、この山の向こう側の国の人間だ。

 そう。この山のさらに南には別の国がある。

 彼はそこで生まれた。

 5歳のとき、彼はこの山に捨てられた。

 ひどい話だ。ひどい話だった。

 しかし、羅殺を捨てた人間がひどいのではない。

 悪鬼 羅殺が、捨てられた5歳の子供がひどいのだ。

 5歳の彼は自分の親も含め、辺り一帯の村人を殺し尽くした。

 理由などない。羅殺は誰も殺したいとは思わなかった。

 羅殺に聞けばこういうだろう。


「おれが殺したんじゃなくて、あいつらが勝手に死んだだけだ」


 と。

 事実、そうなのだ。

 羅殺が少し力を込めるだけで、あらゆる生物は死に絶える。

 そうして、みんなが羅殺を殺そうとする。そして、また死んでいく。

 力加減? 打ち所?

 そんな言葉は羅殺の辞書にはない。

 殺意? 殺気?

 そんなものは所有しないし、そんなものはものともしない。

 何が不幸だったかと言えば、その存在そのものが不幸だったのだ。

 誰にとって不幸だったかと言えば、羅殺ではなく、人間にとって不幸だったのだ。

 百の村の人間を1人残らず殺した彼は、『百村殺し』と呼ばれた。

 同時に、『悪鬼 羅殺』という忌み名が付けられた。

 彼の本名は誰も知らず、誰も呼ばず、本人さえ覚えていなかった。

 因果応峰(あちらの国では別の名前で呼ばれているが)は当時から、そこへ行って帰ったものが誰もいない山として知られていた。

 そこで、あちらの国の人間たちは何とか眠っている間に羅殺をこの山に運び込んだ。

 運び込んだ人間は、当然1人残らず南狼に殺された。

 しかし、羅殺は殺されなかった。殺せなかった。

 目が覚め、自分が因果応峰にいることに気付いた羅殺は、そこに住むことにした。

 羅殺が帰ってこないことを受けて、あちらの国の人間は喜んだ。

 人間が勝利したんだと。化け物は死んだのだと。

 羅殺は山で1人暮らし、時折山に来る人間を殺していた。

 いや、やっぱりそれはうっかり殺しただけなのだが。

 そんなことを繰り返し、成長していくうちに、彼は自覚した。

 自分は人を殺す生物なのだと。

 人を殺して生きていく化け物なのだと。

 そして、心に決めた。

 自殺志願者。自分から死にたがっている人間は殺さないと。

 そんな人間は自分が殺すまでもなく死ぬだろうし、それが運命だと思うからだ。

 だが、死にたくない人間。それは自分が殺さないといけない。

 それが運命で、化け物としての自分の役割なのだから……。

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