神羅 万象 対 悪鬼 羅殺

 師々 孫々が師範代を務めるあの剣術道場から因果応峰までは、目と鼻の距離にある。

 夜通し歩けば1日がかりでたどり着ける程度の距離であった。

 夜中の間に出発した神羅万象は、次の日の日没前には山の前に到着した。


 因果応峰いんがおうほう——『南の魔物』が住まう山。

 山の名前の由来は、そこでは自分のこれまでの罪に応じた報いを受けると言われていることから。

 ある種、この山はあの世への入り口と信じている人間もいた。

『南の魔物』は番人であり、山に来た人間を天国か地獄のどちらかに送る……とも。


 馬鹿馬鹿しい――万象は思う。

 ――本当に因果応報だと言うなら、あの人たちが死ぬなんて、ありえるわきゃあない。

 どころか、金銀財宝を持たせてもらってもいいくらいだ。


 万象はかくも行雲 龍炎と師々 孫々の両親のことを尊敬していた。

 彼らの人間性に全く疑問を挟む余地はないと考えていた。

 実際には、どんな人間にも罪ないし悪心と呼べるようなものは存在する。

 それを思えば、誰でも死ぬことは紛れもない『因果応報』なのかも知れない。

 しかし、誰かにそのように思われているだけでも、彼らの善良さが計り知れようというものだ。

 万象は山を見上げて、龍炎のことを思い出す。


 ――あいつ……はこの球を知っている人間に心当たりがあるんだったか。

 にしてもあの喧嘩別れは、さすがに大人気なかったな。

 もし俺が死んだら、孫々はともかく、龍炎は責任を感じちまうかもな。


 そんな風に物思いにふけっていると、自分の考えのおかしさにハッとする。


 ――何考えているんだ、俺は? 死ぬわけねえだろ。

 あの人たちを連れ帰ってびびらしてやるんだから。


 万象は自分に言い聞かせるようにする。

 万象としては、『南の魔物』など全く信じてはいなかった。

 彼自身仏道に身を置きながら、善因善果、悪因悪果を信仰しながら。

 それはやはり、それ以上に龍炎たちの両親の善性を信仰しているからに他ならない。

 だから、彼はここに来るまで自分が死ぬとも思ってはいなかった。

 しかし……しかし、その山を見ているうちに考えが変わった。

 自分は死ぬかもしれない――と思った。

 根拠はない。

 けれど、その山は魔物が住んでいてもおかしくないと、否、魔物が住んでいるに違いないと感じた。

 そんな風に、心の奥底で恐怖を感じさせながらも、その山はどこか人を誘うような、そんな魔力も秘めていた。

 万象は1歩後退し――2歩進んで立ち止まり、そのまま当然何の整備も施されていない山道に入って行った。

 山に入ってすぐ、本当にすぐである。

 直線距離にして50mも進まないうちに、万象は取り囲まれた。

 いったい誰に?

 万象としての最良は、ここで現れたのが龍炎たちの両親である場合だ。

 次くらいに良いこととしては、物わかりのいい、善良な人間。

 しかし、そのどちらでもない最悪の場合だった。

 好戦的な、あくどい人間? そうでもない。

 それでもまだ最悪ではなかった。

 そもそも、人間などこの山にはいないのだ。

 ましてや悪人が生き残っているはずもない。

 ここは因果応峰なのだから、いるのは魔物だけだ。『南の魔物』。

 万象を取り囲んだのは、狼の群れだった。

 目は血走り、よだれが牙をきらめかせ、今にもこちらに飛び掛かろうとしている。

 最悪だった。

 物わかりが悪いどころではない。

 彼らには言葉そのものが通じない。

 馬ならぬ狼の耳に念仏だ。

 狼にとっては、神に身を捧げてきた僧だろうが、人殺しだろうが、等しい肉の塊でしかない。


 ――何が因果応峰? 何が『南の魔物』?

 こんなもん、この狼たちに人が食い殺されてただけじゃねえか。


 あざけるように思いつつ、万象はある意味で納得した。

 これならば仕方ないと思い、龍炎たちの両親の死を受け入れた。

 そして、自分が殺されてもそれは運命だと思った。


 ――悪人として殺されるわけではない。

 あくまで、食物連鎖の一環として、こいつらの血肉となる。それならば……。


 しかし、もちろんこの先に訪れる死の種類と言うか、そういったものへのあきらめは付いたとはいえ、黙って殺されるわけもない。

 悪くない死に方とは思ったが、もっといい生き方があるのだから。

 出来る限りの抵抗はする。生き延びる意思がなくなってはいない。

 万象は錫杖を握る手に力を込めた。

 万象の決意が固まるのを待っていたかのように、それまで動かなかった狼たちが一斉に襲い掛かってきた!

 360度、否、上空まで含めた全方位攻撃である。

 このままでは噛まれるなどよりも、押しつぶされての窒息死が死因となりそうだった。

 確実に攻撃をくらう。万象が半ば絶望しかけた――そのとき。


「待った」


 それはとても気軽な、気弱な感じの声だった。

 道行く途中で知らない人間にこんな風に声をかけられても、機嫌の悪いときなら無視するくらいの。

 ところが、そんな声で、その声がその男のものであるという事実だけで、狼たちは震え上がった。

 日本語を理解している筈もない狼でも、生物としての本能で、圧倒的強者に対する畏怖いふでもって、その動きを止めた。

 狼の牙が万象から遠のいていく。

 万象の状況への理解が追いつく前に、その男は現れた。

 のんびりとした足取りで近付き、のんびりとした口調で言う。


「そんな簡単に死に急ぐなよ。まったく、若いなあ」

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