魔法にかけられて

倉井さとり

魔法にかけられて

 先輩せんぱいがどこか真剣な表情を浮かべていたので、私は、喉元のどもとまで出かかっていた、『カラスの鳴き声って、どちらかというと、「カー」じゃなきく「クワー」じゃないでしょうか』という言葉をごくりと呑み込み、前に向き直りました。眼前がんぜんまで迫っていた散髪屋さんぱつやさんの看板かんばんをかわし、思わずにぎったりょうこぶりをとき、すえをぼんやりとながめると、一羽いちわのカラスが、ホップステップジャンプの末に、真っ赤な空に飛び立っていきました。


 いったいどうしたんでしょう、先輩。先ほどから、どこか様子がおかしいです。


 学校を出たときには楽しそうにしていたのに、先輩は歩くうちに、だんだんうわそらになり、返る言葉も生返事なまへんじになっていきました。


 先輩は、そこここから漂ってくる、お夕飯のにおいに気をとられているのかと思いきや、そんなことはなく、ただうつむいて自分の影を見詰めていました。


 私も先輩のあとを追おうと、ななめいたに上の空になり、空想くうそうの世界にとびこみました。


 てくてくとどんなに歩いても、して、自分の影法師かげぼうしすことはできません。それは当たり前のことですが、その無意味っぽい行進こうしんが、どこかハムスターのくるくるのようで、なんだか自分が、ハムスターになったような気がしてきます。


「ねぇ、雪子ゆきこちゃん?」


「……なんですかぁ? 鈴虫すずむし先輩せんぱい


「もしかして、なんかおこってる?」


「え、どうしてですか? わりと、しあわせな気持ちですが」


「いや、なんか、っぺたふくらませてるから……」


「……あーこれは……、なんでしょう? 変化へんげじゅつですかね?」


「……ああ、タコね」


「え……?」


「ねえ、そんなことより」


「……そんなこと……? ……それで、なんですか、あらたまって」


 先輩はわざわざまると、こちらにからだを向けました。その顔は真剣そのもので、まるでこけしのようです。ですから私は思わず、半身はんみになって腰をおとして、先輩の言葉を待ちました。


「……雪子ちゃん、俺と……」


「俺? 先輩が自分のこと、『俺』なんていうの、はじめて聞きましたよ」


「もう『僕』は卒業そつぎょうしたんだよ」


「卒業なんてあるんですか……?」


 なんだか気が抜けて、自然と構えがとけてしまいました……。


「いいから聞いて、……雪子ちゃん、僕と付き合ってほしいんだ」


「……え……? 僕? 言ったそばから『僕』に戻ってますよ……。現役生げんえきせいじゃないですか……。……それよりも、なんでですか? 私があんなにアタックしても、ほとんど無反応だったのに……。……すこし不服ふふくなのですが……。私が6回告白して、……先輩は、まったく同じ苦笑いを、6回かえしましたよね……?」


「ホントは俺だって……、雪子ちゃんのことは好きだったよ。でもさ、どうしても僕、迷いがあって……」


「……だ、大丈夫ですか、先輩? な、なんだか顔が……メラメラしてますよ……。なにかあったんですか?」


「いやさ、OBの黄緑きみどり先輩せんぱいに無理矢理さ、あやしげな自己啓発じこけいはつセミナーにれてかれて……そこで、やっぱり怪しげな話を聞いたんだけど。……その話を聞くうちに、なんでだか分からないけど……告白しなきゃって気持ちになって……」


「……。……えー、なんか、複雑ふくざつなんですが……。……心がもやもやします……すごく……」


 なにがどう結びついて、こうなったのか……さっぱり分からないのですが……。


「ダメかな? 返事は、今じゃなきゃいけないんだけど」


「わ、分かりました……。……って、え? 今じゃなきゃいけない? 普通こういうときは、返事はいつでもいいって言いませんか……?」


ぜんいそげがいいらしいんだよ」


「……。ご、ご自分のことはそうしたらいいでしょうけど……。……先輩、しっかりしてくださいよ……!」


「いや、今の俺は、生まれてから今まででの中で、一番まともだよ」


「ホ、ホントですか……? ……先輩、たぶん、いろいろ、こじれちゃってますよ……?」


「それで……だめかな」


「……うれしいですよ……すごく……でも……」


 このまま返事をかえすのは、誰にとってもよくないように思います……。


「……先輩、と、とりあえず、いっかい、落ち着きましょう? ……どこかで腰を落ち着けて。……そうだ、いつものケーキ屋さんに行きましょう? ちょうど今なら、タルトケーキがしゅんで――」


「いや。もう俺は、あそこには、一生いっしょういかない」


「な、なんでまた……?」


「……もう僕、自分の心にうそをつくのはやめたんだ。雪子ちゃんに遠慮えんりょして今まで黙ってたけど、僕ホントは甘いものが大嫌いなんだ」


「大嫌い!? な、何十回も付き合ってくれたじゃないですか……。言ってくださいよ、……嫌いなら嫌いって……」


「だから僕は今から、弱い自分をてて、自分の好き嫌いに正直になる。だから雪子ちゃん、……今、返事がほしいんだ」


「……い、嫌です。今のままの先輩にこたえたら……なんだか、大事ななにかをうしなう気がします……。……じゃあ、じゃあ、ここの喫茶店きっさてんに入りましょう」


 ちょうど私たちのすぐ近くには、こじんまりとした喫茶店がありました。窓からうかがいみるに、オシャレな内装ないそうで、それにいてもいて、今の私たちにはピッタリなように思え――


「いや、俺は、俺のいたいものを食うよ。俺はハンバーガーをう」


「……。わ、分かりました。とりあえず、ハンバーガーいっぱいべて、いったん落ち着きましょう?」


「いや、申し訳ないけど、いっぱいは食べられないよ。腹八分目はらはちぶんめがいいらしいんだ。そのほうが人生がひらけるって……」


「……せ、先輩って、こんなめんどくさかったっけ……?」


 私が目をまわしていると、先輩はやけに紳士的しんしてき声色こわいろで、「あ、そうだ、車道側しゃどうがわを歩くよ、場所変わって」と言いました。


「なんでですか……」


「いや、いざとなったら、俺はきみを守らないと、俺は男だから」


「……。いえ、うれしいですよ、その気持ちは……。でも30分くらい歩いて、一台いちだいくるまとおってないんですが?」


「そういう問題じゃないんだ。これはたましいの問題なんだ」


「……先輩の魂、抜けかけてませんか……?」


 ということで、場所をわって歩き出したわけですが……。


 なるべく危険のないようにとさわぎ立てる先輩に、私はぐいぐいと垣根かきねぎわに追い込まれ、先輩と垣根かきねはさまれ、いかにも『肩身かたみせまいです……』というような恰好かっこうで歩くことに……。これでは、ぎゃくに危ないのでは……?


 ……もう、先輩にはどんな言葉も通じないのでは……、とそんなことを思うと、堂々どうどうめぐりという言葉が頭に浮かびました。そして、また、くるくるのうえで一生懸命いっしょうけんめいに走る、ハムスターの姿が立ち現れます。


「やっぱり、なにおこってる?」


 と先輩は、すこし遠慮がちに言いました。すこしだけ元の姿が垣間かいまえる、先輩のその様子に、私はほっと胸をろします。少しずつ、掛けられた呪縛じゅばくがとけてきているに違いありません。


 ……おこるわけないですよ。だって先輩ですから。そして、私じゃなかったら、きっとおこっていたと思います。でも、まあ……。


「いや……、言いたいこと伝えたいことは山ほどありますが……おこってはないですよ」


「でも、頬っぺたふくらんでるよ、バカみたいに」


「バカ!? いまバカって言いました……?」


「ご、ごめん、でも、言いたいことは言わないと、相手のためにもならないし」


「そのセミナーにやさしさはないんですか……。……なんだかその講師こうしの人に、はらが立ってきたんですが……何様なにさまですかその講師……」


「……いくら雪子ちゃんでも、……ヨコシマ先生のことを悪く言うのは、ゆるせないな」


「ヨ、ヨコシマ……?」


 ヨコシマさん……わ、私の好きだった先輩をかえして……。


 ……でも、まだ希望はあります。こんなに影響えいきょうを受けやすい先輩なら、私の好きな先輩にもどせるはず……。そもそも私がしっかりしないと、先輩、大変なことになりそうですし……。まずは手始めに、先輩にかかった、この魔法をとかなくては。


「ねえ、先輩。こっち向いて」


「え? なに?」


 私は口をむすんで息をとめ、私より背の高い先輩に、ねらいをさだめ、おじいちゃん直伝じきでんの、古武術こぶじゅつの体重移動で間合まあいをつめ、その心臓めがけて、正拳突せいけんづきをはなちました。


「りゃあ!」


「――ぐえ! ……う、うう……」


 私の右こぶしは胸のなかに、ズドンと打ち込まれ、先輩は身をりながら、数歩すうほうしろによろめきました。


「……な、なんのつもり……?」


なおるかなって、もとの先輩に」


「……治る? なに言ってんの……? いい、雪子ちゃん? ヨコシマ先生によると、これからの時代、暴力ぼうりょくは……」


「もう、いいから行きますよ」


 私は言って、先輩の左手をとり、ゆっくりと歩き出しました。3歩あるいて、思えば先輩と手をつなぐのは、これがはじめてだなと思い当たりました。この感触かんしょくをずっとおぼえておきたくて、私の手とそんなにかわらない、先輩の小さな手を、ギュッとにぎめました。


「……いたた! ……雪子ちゃんってこんなに……暴力的だったっけ……?」


はなったのは先輩です」


「解き放つ? なに本物のバカみたいなこと」


「ハートブレイクなんとか!」


「――ぐえっ! ……雪子ちゃん、ブレイクの意味しってる……?」


「くるくるまわる、あれですよね?」


「それはダンスじゃあ……?」


「ダンス? ハムスターのあれって、ダンスだったんですか!?」


「ハムスター……??」


「あっ、そうだ先輩。前々から思っていたのですが、カラスの泣き声って……」

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