第3話 嘘は嘘とばれなければ真実

「お母様はもう自由に望んでもいいのです」


 美しく、そして賢く育った自慢の娘に突然、そう言われた。

 わたしでなくても驚きのあまり、固まってしまうだろう。


「何を言っているの、ヘル? わたしは……冥界の女王。永久にこの闇を支配しなければ……」

「ですから、お母さま。もう無理する必要なんてないのです」

「ええ?」


 利発で美しく、威厳もある娘に育った彼女の言うことに一理あるのだ。

 わたしの容姿は十代半ばから成長していないせいもあって、威厳なんてないに等しい。

 死者の国を治めるにあたって、それでは無理があると思い、表に出る必要のある政務を出来る限り、宰相ナムタルに丸投げしていた。

 どうしても表に出なければならない時はなるべく、威圧感と恐怖感を相手に与えるべく、魔法で偽装していた。

 その点では娘――ブリュンヒルデはこの地で生まれたのが影響しているのか、わたしよりも女王として適任なのだろう。

 彼女は死者を支配するだけの権能しかないわたしと違い、死者に生を与えることが出来るのだ。

 だから、もうわたしは必要ないというの?


「あなたたちもわたしはいらない……もう必要ないのかしら?」


 思った以上に低く、冷たい声が出る自分でも驚く。


「いいえ、お母様。お母様はわたくしの唯一にして絶対。いらなくなることなんて、それこそ永久にありえません」


 じゃあ、どうして?

 わたしに語り掛ける娘の瞳には優しさという名の温かい光が溢れ出ていて、これではどちらが母親か、分からないわ。


「冥府はわたくしとナムタルにお任せください。お母様は……望まれたことを為されるべきなのです。わたくしはもう十分に愛をいただきましたから」


 わたしの望み?

 何を望んでいたのかすら、忘れていた。

 慈しむべき存在がいることに安心し、忘れていた。

 わたしはあの人に会いたくて……それでここに来ることになったんだ。

 大事なことなのにいつしか、忘れていた。


「お母様、いつかわたくしたちに会いに来てくださいね。絶対ですよ」


 愛しい娘とその側に守るかのように寄り添う闇色の獣毛に覆われた異形の狼サーベラスに見送られ、わたしは住み慣れた冥府を離れることになった。




 冥界の女王ともあろう者が現世への道をとぼとぼと一人寂しく、歩く羽目になるとは……。

 あぁ、冥界の女王だったわ。

 今の女王はわたしのかわいい娘ヘルなのだから。

 闇の魔法に空間を切り裂き、次元と次元を繋いで瞬間移動するものがあるんだけど、あの魔法の欠点は記憶に依存することなのよね。

 わたしがこの地に留まっている間に永い時が過ぎているから…地上は変化してるでしょうね。

 変化しているとすると転移した瞬間に”壁の中”なんてことになったら、悲劇でしょう?

 うん、歩くしかないわ。


「やぁ、アスタルテ。久しぶりだねぇ。遅かったじゃないかぁ。あぁ、今はエレシュキガルだっけ?」


 うわっと変な声を出さなかった自分自身を褒めてやりたいわ。

 まさか、また会うことになるとは思ってもいなかった少年が冥府の門の前にいるのだから。

 闇夜を思わせる濡れ羽色の腰まで届く長い髪と双眸を隠すように血色の布切れを巻いたその姿、忘れたことはない。

 勿論、いい意味ではなく、悪い意味で。


「どうして、あなたがここにいるのかしら。試みる者が来るような場所ではないでしょう?」


 無知にして、無邪気な悪意の塊。

 彼には自覚した悪意や害意なんて、ないのだろう。

 結果として、彼に関わった周囲が破滅しただけなのだから。

 そう分かっていても絶対に近付きたくない相手なのだけど。


「まぁ、僕に任せておけば、大丈夫だって」

「あなただから、不安なのよ?」


 泥船に乗って、ぶくぶくと沈んでいくイメージ?

 わたしがこの時、抱いた微かな不安は強ち、間違いではなかったと気付いた時には既に遅かったのは言うまでもない。





 わたくしたちは目的地であり、今後の本拠地となるべき元白亜の城を仮宿とすべく、移動することにしました。

 仮宿という表現はおかしいかもしれませんね。

 仮宿ではなく、これから一年間住むことになるかもしれないのですから。


 近づいてみないと分からないものですね。

 天井はあちこちが崩落していますし、どこもかしこも黒焦げになっていない部分がないくらいに燃やし尽くされている気がします。

 遠目に見ていた時は気付いてませんでしたけども、思った以上に損傷が激しいようです、このお城…。

 やはり、徹底的に壊されている気がしてなりません。


 お城も相当に不良物件と判明しましたけど、遠くから人に見えていた住人が予想した通りだったのがいただけません。

 人ではないものがいるのは見えていたのですけどね。

 人でしたら、まだ話が通じる可能性があるので交渉の余地があると思うのです。

 けれど不死生物アンデッドが相手では…ね。

 ええ?わたくしはアンデッドがスケルトンくらいなら、耐えられたのですけれど。

 ゾンビですもの。

 それもたくさんのゾンビ。

 頭と言わず、胴体と言わず、腐敗した身体が切り裂かれていく様子を思い出すとまた、気を失ってしまいそうなのでやめておきましょう。

 とにかく、彼らを見た時点でそこからの記憶がありません。

 気が付いたら、もうお城の中にいたのです。

 アンが運んでくれたのかしら。



 それでも当座の雨露がしのげそうに思えるまともな部屋が見つかったのでそこに物資類を入れることに決めました。

 実家から持ってきた家具や生活物資を爺やと雑用ゴーレム、ハルトが設置している間、アンと壁や床の掃除をしながら、ひたすら考えていました。


 廃墟と化したアルフィンを立て直すのにわたくしたち、四人だけでやれることは限られたものでしょう。

 武術と魔法に優れる三人がいてもそれは守る力としてしか、利用出来ません。

 この地に今、必要なのは働く力なのです。

 戦いは数、これも戦いですものね。


 まず、人をこの地に呼び寄せなくては話になりません。

 ただ、帝国の南端で辺境と呼ばれ、統治もされずに危険地帯となっていた土地にそんな労働力はないと思うのが普通でしょう。

 ふふ…でも、あるのですわ。

 古地図や歴史書を見ていると分かるのですけど案外、馬鹿にならない力が隠されているものなのです。


 考えている間、手が止まっていたのか、私を見るアンの表情が若干、険しくなったように見えましたけど気のせいですわ。




 数時間程度である程度の生活が出来そうな準備が整いました。

 快適ではありませんけれど、生きていけるくらいには整えられたと思います。

 都から一か月もかかる地である以上、実家からの援助も期待出来ませんから、これくらいで音を上げてはいけないのです。

 準備が出来たのでこれからの対策を練るべく、話し合いですわ。


「てことはお嬢、棄てられし民を?」

「…そう、帝国によって守られなくなった存在をこの地に呼び戻せばいいのです。これは私にしか出来ないことですわ」


 そう、わたくしにしか出来ないこと。

 わたくしだから、出来ることをしなくてはなりません。

 帝国から任命された執政官では彼らの恨みをさらに買うだけなのです。

 自分たちを捨てたくせに今更、何をしにきた?と。

 でも、わたくしにはそれが出来るはず。

 悔しいし、悲しいけど出来るだけの材料がたくさんあるんですもの。

 貴族の間で囁かれ続けた紅の瞳の呪われた子という噂に色々と尾鰭がつきすぎるくらいついて、この地まで届いているのです。

 叛乱を企て、首都を追放された公女が辺境に流された、と。

 ええ、全て嘘・偽りなのです。


 ただ、叛乱ですのね?

 実は噂がアルフィンにも流れるよう裏工作を指示したのはわたくしなのですけれど、噂が独り歩きしすぎた感は否めません。

 いささか、やりすぎではありませんかしら?

 叛乱はいきすぎですわ。

 わたくしが叛乱なんて、悪い冗談でしょう?

 でも、これを不幸中の幸いとして、処理するしか手がないのです。

 むしろ、この噂を利用しない手はありません。

 ただ、らすぼすやら、しぼうふらぐとやらに近付いている気がしますけども。


「アンディ、いるのでしょう?」

「…ここに」


 一陣の風が軽く吹き抜けたかと思うとわたくしの背後に小柄な人影が音もなく現れた。


「ネスに一任したのはわたくしですものね。ものには限度というものがあると思うのですけれど、失敗ではありませんものね。わたくしの手落ち…」

「御意」


 わたくしがアンディと愛称で呼んでいる黒尽くめの男性の本当の名はアンドラス。

 本当の名と言ってもわたくしが与えたもので彼には名前なんて、ありませんでした。

 彼らの一族―己を殺し、主に仕えるのを信条とする影の一族は自分たちを一や二みたいに数字でしか表しません。

 彼らは名を捨て、時には命すら捨てて、主に仕えるそうです。

 本来は東の大陸にしかいない影の一族であるアンディがなぜ、このミクトラントにいるのか。

 その理由は今も全く、分かりません。

 アンディは決して、自分のことを語ろうとはしませんから。

 わたくしはただ、袈裟懸けに深い傷を負って今にも死にそうだった彼を助けただけ。

 それだけだったのですけど、それ以来仕えてくれているのです。

 今回の謀略も立案したのは実務に長けたネスですけれど、実行してくれたのはアンディですものね。


「アンディ…あなたのその頭の固さはどうにか、ならな…いわよね。もっと自由に…あなたの思うがままに動いても構わないの」

「御意」


 うん、これは分かっていませんわ。

 与えられた任務を完璧にこなしてくれるし、わたくしにストレスを感じさせないように影で色々と手をまわしてくれているのも知っています。

 これ以上ないくらい出来過ぎなですけど。

 もっと自由に生きてもいいのではなくって。

 影である以上、アンディは自由に生きられないのかしら。


「ネビロスの策で根回しがされたとしてじゃ。ここからどうするんじゃ?」

「噂は真実ではありません。けれども利用出来る事実とは真実である必要がないのです。虚を実に。いきなり信用出来る味方とは思われなくても。少なくとも敵の敵は味方と思ってくれるでしょう。それだけでも効果があったと思いますわ」


 わたくしたちは無から、領地を運営しなくてはなりません。

 実家から持参した物資があるだけ、少しはましなのですけど人手はありませんものね。

 敵ではないと認識してくれさえすれば、希望が見えてくると思うのです。


「ふむ、よくぞ言った。さすがわしの弟子、さすがわしじゃのう、ほっほっほっ」


 優しさが満ち溢れた瞳でわたくしを見つめてくる爺やは実のお祖父さまのように。

 お祖父さまとはライバルであり、親友でもあったそうでわたくしにもとても、よくしていただいているのです。

 ただ、わたくしの魔力がないせいで魔法の授業は座学だけ。

 本当でしたら、魔法の実践もあったはずなのに不詳の弟子で申し訳ない気持ちでいっぱいです。


「よしっ!そいじゃ、俺は夕飯の食材を獲りに釣り行ってきますぜ」


 知っていますのよ、ハルト。

 あなたがアルフィン湖で釣りをするのを楽しみにしていたことを。

 案の定、満面の笑みで釣竿を担いで出かけていきましたけど、本人が楽しそうなのでいいと致しましょう。


「あたしは周囲の偵察をしてきますねっ」


 言うが早いか、彼女は既に駆け出していました。

 口より先に手が出る娘だものね、アンも。


「わしは建築ゴーレムに取り掛かるとするかのう」


 爺やまですべきお仕事を見つけ、わたくしだけが特にすべきことが見当たらない。

 アンディは気配を消してしまったので側にいるのに見えません。

 どうしましょう、何か、しなくてはいけないという思いだけでは…。

 あぁ、思いついたことが一つだけ、ありました。

 城には防御結界を張る為、必ず結界室を設置することになっているのです。

 むしろ、その結界が成されていれば、その町は平和なはずなのですけども。


「わたくしは結界室がないか、調べておきますわ」





 アンは漆黒の闇を思わせる髪を靡かせながら、風のように廃墟と化した街を駆けていた。

 その速度は普通の人間と比べられるようなものではない。

 というのもアンヌマリー・エラントは人間の父親と獣人の母親から生まれた半獣人だからである。

 母親は普通の獣人ではなく、影牙族シャドーファングと呼ばれる人狼ルガルーの一族の出身だった。

 影牙族シャドーファングは黒き狼とも呼ばれた暗殺を家業とした特殊な一族であり、人間を遥かに超える身体能力を生かした高い戦闘力を有していた。

 過去形なのは影牙族シャドーファングの栄光が既に失われているからだ。

 唯一の生き残り、それがアンだった。


 人狼ルガルーは獣態と呼ばれる完全な四足獣への変態と獣の力をある程度、発揮しながらも人の形態でその力を発動させる半獣態への変態が可能なはずだがハーフであるアンはその力が中途半端にしか発揮出来ない。

 それでも人間離れした身体能力は異常なほどで一跳びすれば、城壁を余裕で飛び越えられるし、生半可な作りであれば鉄の剣でも簡単に曲げられるのだ。

 その為、人間が住む都でしか生きていかざるをえなかった彼女はとあるギルドに所属し、生を紡ぐこととなった。

 だが、その仕事に失敗したのだ。

 その時のアンはようやく8歳になったばかり。

 そんな小さな子供に人を殺すという仕事を与えたのだから、ギルドの正体は言わずとも知れよう。

 結果として見れば失敗したのは彼女にとって、幸運だったのかもしれない。

 失敗によりギルドから見放され、自暴自棄となった彼女の目に未来という二文字はなく、荒んだ生活を送ることとなるアンだったが、自らの命を捧げてもよいと狂信的に仕える主に出会ったのもその時だったからである。


 風と共に走っているかのように軽やかに大地を駆けていたアンの足がアルフィンを見下ろすように存在する丘で急に止まった。

 明らかに異質な建造物を見つけたからだ。


「これはもしかして、もしかしなくても!お嬢様に報告しなくちゃっ」


 アンが舌なめずりしながら、見つめる先にあったのは落雷だろうか…粉々に砕かれた大岩の下から出現した明らかに人工的な意匠が施された巨大な鉄扉があった。

 その鉄扉に描かれている紋章はアインシュヴァルト家を象徴する紅の蛇の王だった。

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