第13話後編三

***


 どこからか、赤ん坊の泣き声が聞こえる。また、お隣の赤ちゃんが夜泣きしているらしい。いつものことだ、気にしない気にしない。

 俺は誰かの気配に気付き目を覚ました気がした。何故だかわからないけれど、枕元に立つ誰かの姿を探し、いつものように普通に、温もりが愛しいせんべい布団から顔を覗かせる。俺の枕元には誰か……。居るわけがない。居たら怖い。苦笑する。おまわりさんも寝ているわけないし、第一何故におまわりさんが隣で寝ているなどと思うのだろうか、意味がわからない。

 

 頭が痛い……。そうだ、しこたま飲んだんだっけか。久しぶりに飲んで、美味いもん食って、上機嫌で帰ったんだよな。途中で変な女を拾って……。って、いやまさか、いくら女にモテないからって夢見すぎ。

 そういやおかしな女だったけど、笑うと意外と可愛かった気もする。しかし、夢っていいな。現実離れしてて。しかし、どんなにリアルな夢でも、目が覚めた瞬間、記憶から綺麗さっぱり消えてゆくんだから、何かもったいない気もする。折角、幸せな気持ちのまま、世界の最期が訪れたと言うのに、……。マンガの読みすぎだ。苦笑。

 




 さて、今日は何曜日だろう。バイト代貰って酒飲んで、起きて、なにかいろいろ大変なことがあった気がするけど、次のバイトまではのんびりしたい。四面楚歌のガマの油状態なんてまっぴら御免だ。

 

 夢の中で、大家さんは俺に身なりのよい初老男性を紹介した気がする。こじんまりとした、なかなかに人の良さそうなおじいさんであった。


 なんだ、俺の記憶力も捨てたものでもないではないか。――大家さんは言った。

「こちらは民生委員さん」 

「はっ、はじめまして~」

 民生委員さんもお辞儀した。お辞儀はしたが、『はじめまして』ではない気がした。何処で会ったのだろうか? 俺には皆目見当がつかなかった。 

 

「先ほどは失礼しました」

 流石は地域の社会福祉増進に日々邁進まいしんする地方公務員さまだけのことはある。俺の疑問を素早く察知したかと思うと、先回りまでして疑問に答えるエスパーじいさんであった。

 




 そんなお偉い方が、俺などに何の御用事があるというのだろう。いまだ状況が飲み込めない俺に、大家さんが助け舟を出した。

「ほら、あんたの部屋を覗いてた人!」

「あ、あぁぁ!」

 あの時の覗きか。確かに初対面ではないらしい。らしいが、民生委員さまともあろうものが、何故に覗きなどされていたのであろうか? 謎は深まるばかりである。


「挨拶して行けばよかったのに」

 大家さんに出くわし、慌てて立ち去ったらしい民生委員さんは俺に頭を下げた。俺は思わず民生委員さんに合わせて頭を下げていた。

「いやぁ、早く皆さんにお知らせしたくてね」

「は?」


 民生委員さんとは、地域福祉の為に活動してらっしゃる方々なのである。そんな崇高すうこうなお仕事をしていらっしゃるお方が、俺なんぞの様子を覗き見る。なんてことは当然ないのである。様子を伺っていたのは、勿論この変な女の方なのであった。この変な女は、今まで行政の保護施設に入所しており、そのお世話を、民生委員さんが担当していたということであった。





 見るからに真面目そうな民生委員さんは襟を正して言う。

「どこまで話せばいいのか、悩むところではありますが、こんないい人と出会えたのですから、貴方を信頼して包み隠さず、お話しようと思います。いずれにしろ、いつかはわかることでもありますし。こちらのお嬢さんには……。その、もう気付いてらっしゃるとは思いますが、少々風変わりなところがあります。それには勿論、理由があります」


 なんとも釈然としない雰囲気を感じさせるが、民生委員さんがこの女の秘密を知っていることだけは確からしい。

「『お嬢さん』、ですか? 名前とかなんとか……」

 民生委員さんは、雁首を揃える俺たち三人を前に訥々とつとつと話を続けた。

「やはり、気付いてらっしいますよね。話せば長くなるので先に要点を言いますと、このお嬢さんには、名前がありません」


「はぁ?」である。


「勿論、苗字はあります。千鳥ちどりさんですから、私たちは『千鳥さん』とか『チイちゃん』と呼んでいました。名前がないと困りますからね、とりあえずは、そう呼んでいたのです」





 説明されればされるほど、意味がわからない。

 俺は女に振り向き、いつものよくわからない笑顔を確かめてから、民生委員さんに詳しく尋ねた。

「それは一体全体、おかしくはないですか」と。


「勿論です。端的に申しまして、千鳥さんは実は、この世に存在しないのです」

「えっ、ええぇぇぇ!」

 激しく狼狽ろうばいする俺に対し、民生委員さんの方が慌てて話を続けた。

「勿論、本人は存在していますよ。この通りお化けじゃないんだから……。そんなに驚くなんて、あなたも面白い人ですなぁ。私が言っているのは、戸籍上では、こちらのお嬢さんは、この世に存在していないのです。母親が所謂いわゆるネグレクトで、生まれたときから育児放棄して、役所に出生しゅっしょう届けを出していなかったのです。どんな理由かはわかりませんが、母親の怨念おんねんは、二十年間、自分の娘に名前さえ付けず家の中に閉じ込め、学校にも通わせず、二人だけで暮らしていたのです。それが最近、母親が突然の病で亡くなってしまって、一人取り残された娘さんが、母親に固く禁止されていた、屋外へ出る禁を犯し、街をさまよっているところを保護されたという訳なのです」


 一気に話し通した民生委員さんは、俺が非常用に押入れに隠しておいた百グラム五百円の八女やめ茶で喉を潤し、美味そうに咽喉ぼとけを上下させた。





「それじゃぁその、こちらにいらっしゃる四人の皆さんは?」

「親御さんですよ」

「え、えぇぇぇ!」

 俺の度重なる驚きに、民生委員さんは微苦笑する。民生委員さんは話を続ける。

「千鳥さんは保護された後、行政がお世話するとこになりました。しかし本人は既に成人していますから、私が青年後見人になって、ホームレスの一時受け入れ施設で保護していたのです。そこから小学校へと通い自立を目指していたのです。そのときホームレスの方々と親しくなり、今では親子のような関係になっているのです。ホームレスといっても、経済的事情で仕方なく路上生活をしていた方もいらっしゃいますから、その方達に色々と社会のことを教えてもらって、仕事も始めたのです。しかし、出来る仕事は限られますからね、昔、夜の飲食店界隈のお店を経営していたホームレスの方に口を効いてもらって、一時期飲食店で接客業もしてました。このとおり、世間知らずなところがうけて、母性本能や父性本能をくすぐると言うんですかね。まわりの方々にも親切にしていただき、意外と店では人気もあったらしいのです」   

 民生委員さんの滑舌かつぜつが冴え渡る。なるほど、大家さんの言ったことと辻褄は合っている。


 俺が拾った女は、育児放棄した母親を亡くし、二十年来悪魔が闊歩かっぽすると脅かされて外へ出ることを禁止されていた世界へと飛び出し、半ばホームレスとなっていたということらしい。

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