第10話中編五

***


 あ……、頭が痛い。

 俺が酩酊状態から目を覚ました時、視界は闇の中だった。酒は先日来控えていたというのに、どうしたことか、しこたま飲んだらしい。深夜の静寂の中で、息苦しさを訴える喉の渇きだけが現実感を感じさせた。

 そんな俺の、左手にはかいこのように生柔らかく、すべっすべっの、つるっつるっとした手が握られている。なにごとか! と寝たまま顔だけを左側に向けると、そこには無防備にも熟睡しているあの女の姿があった。暗闇の中に、確かに小さな胸を膨らませたり~萎ませたり~して、今ここに生き、存在しているぞという存在感を、存在証明しているではないか。


 俺の喉は急にぐっと詰まり、呼吸は苦しくなった。もしや、このまま急性心不全ででも、ぽっくりと楽に、お年寄りならば誰もが憧れるであろう、幸せな昇天ができてしまうのではないかとさえ思われるほどの痛みが全身に走った。時折、お茶目にミステイクする心臓が踊っている。





 こんな状況、一生に一度あるかないか、人によっては、一生に一度さえも味わえないかもしれない、素敵な桃色の、――いや薔薇色の状況が目の前に訪れているではないか。少し不思議な女ではあるが、容姿は思いのほか整っているし。風呂にも入っているし。小さな隆起は静かに上下しているし。何の因果か、女は俺を慕っている。女の小さく柔らかな指は俺の不器用な指に絡められている。重ねられた手のひらに俺は汗を感じる。


 こんな状況で何もしなかったならばそれは、彼女への侮辱ではなかろうか? こんな夢のような状況設定をお膳立てしてくれた。――して下さった。神様仏様アッラー様に失礼ではないのか? 産めよ増やせよ恋せよ乙女とおっしゃった、神に愛されし世の万物の霊長さまである、人間さまの本能と純粋無垢の愛のタッチであるとか、ムーブしてモーションするのは神の御心、人類繁栄の正義ではないのか。神は死すとも、自由は死なズ。このまま、なし崩しに雪崩のごとくに、愛する二人はもんどり打って、流れ落ち下ってゆくのも善いではないか。それは今俺の、この瞬間の決断に全てが掛かっているのである。





 俺も男である。古風にいうならば、大和男児である。この、ちょっと、というか相当おかしいけれど、かわいらしい女が大和撫子とは限らない。限りはしないが、俺の熱き益荒男ますらおが女の愛によって受け止められた暁には、もしも俺の勘違い――などということであったとしても、俺は喜んで腹掻っ捌いて果てる所存なのであります! 例え勘違いであったとしても、男の純情を笑わば笑え、一生に一度の晴れ舞台ならば、恋のからくり紙芝居、綺麗に散ってみせましょう。例え見事撃沈したとしても。それが俺の、愛の証明なのだから、愛の為に死ねるならば、我が人生に悔いな~し! それこそ男の本懐ではないか。


 俺は女と固くはないが、きっと結ばれているであろう左手をそのままに、反対側の右手で愛すべき女の女の、女の……の?

 女との想定外の急接近に、高ぶった俺の神経は迷走しまくり、利き手の感覚は完全に忘れ去られていた。今までうっちゃっていた右手に意識を移してみると、なななんと、俺の右手も何者かの手に結ばれているではないか! 俺は恐る恐る首だけを百八十度回頭し、俺の右手にタッチしている何者かの顔を確認する。 





 俺の右手のひらに謎の汗が滲む。俺の右側で心地良さそうに寝ていたのは、なんと執念深いことか、おまわりさんではないか。

 この公僕野郎が何の権利があって、職務放棄までして善良なる一般……でもないが、善良なる市民の部屋に勝手に泊まっていやがるのか! それも、愛し合う恋人同士(であろう)男女と川の字になり、男子の本懐を遂げる邪魔までをもするとは、なんと猪口才ちょこざいな! はっ! わかった。わかったぞ! おまわりさんはやはりアレだ、そっち系の人だったのか……。元気だけが取り得の引き締まった肉体を持つ、健康的なアルバイター青年であるところの俺の、からだが目的で今まで付き合っていたのに違いあるまい。


 ひ、左手の快感と右手の危機感の中間地点で途方に暮れる俺は考えた。必死に無い頭を振り絞り、総動員して考えた。九九が覚えられなくてべそをかき、連立方程式に悩まされ、三角関数に絶望した俺の脳細胞が全力でなにごとかを演算している。……。駄目だ。俺に小難しいことなど考えられる筈がない。俺の頭脳が人並みで、ポンコツでなかったなら、今頃こんな小汚いアパートなどでくすぶっている筈などないのだから。




 

 ところがしかし、頭の中が空っぽの、残念な俺の利点は頭が軽いことである。その特長を最大限に生かして俺は、ビニール製起き上がりこぼしのごとくに、直ちにすっくと立ち直り、右手と左手の愛(たぶん)をこともなげに振り払い投げ払い、買い置きのミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出して、一気に喉へと流し込もうとしたその瞬間に、視界の隅に飛び込んできた、窓から差し込む月明かりに照らされた部屋の全景を目の当たりにし、〇ル〇ックの超うすうすペットボトルを思わず握りつぶしていた。


 ああ勿体無い。水浸しになった辺りをキッチンペーパーで拭き取る。いやいや、そうではなく。俺の部屋には今、女とおまわりさん以外にも数人が雑魚寝しているらしいではないか。俺は只でさえ頭痛でまわらない頭の記憶をまさぐった。どうしてこうなった? ――が、思い出せん。思い出せないのだから悩んでも仕方あるまい。諦めの早さなら日本最速の俺は、とりあえず赤の他人に占領された俺の部屋を後にし、近所のコンビニへと向かった。

 

 


〈ひろいもの 中篇 了〉

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