第5話前編五



 大家さんに誤解された俺は、顔の前で手を全速力で左右に振っていた。

「違うんですって! 拾っただけなんですから!」

「成る程ねぇ。女を拾ったなんて、あんた女をそうとう泣かせてるクチだね」

 俺はもう泣き顔である。

「だから、違いますよぉ!」

「あんたも男なんだからしかたないさ。それより、ちょっとおいで」

 出っ張ったお腹の頂点に向け話し掛けている俺の耳を引っ張って、大家さんは、表へと連れ出した。


「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえって言うけど。あんたはうちの大事な店子たなこだから忠告しておくよ、あの子に本気になっちゃあ火傷するよ」

 相変わらず誤解は解けないまま、突然の核心的展開に戸惑う俺は、大家さんに聞き返すよりほかにすべはなかった。





「あの女、何か訳ありなんですか?」

「訳ありも訳あり。キャバに勤めてる店子に聞いた話じゃ、飲み屋界隈じゃあ有名な娘らしいよ。何でも、金の為なら何でもする、手癖の悪いことで有名なんだって。男なんて、可愛い顔してニッコリ笑えばイチコロだからねぇ――」

 少しドキリとした俺が、大家さんの詳し~い話を要約すると、あの女はキャバクラに勤め、男に惚れさせては金品を貢がせることで有名な女らしいのだ。          


 そうか、そうだよな。そんなオチでもなければ俺についてくる女なんて居る筈がないよなぁ……。

 などと現実の厳しさに納得し、しんみりとしながら大家さんを見送った俺が、気を取り直して部屋に戻ると、女はなんとなく真剣そうに落書きをしているように見えた。自分の名前と住所を書くくらいでどうして真剣になれるのか、全くもって不思議でならない。





「はい、これ」

 俺に差し出された原稿用紙には汚い字で、『みるく、あゆ、ぷりん、いちご、あんず、りんご』と書かれていた。

「なんか食べ物の名前ばっかだな」そうか源氏名か……食い意地が貼ってるだけのことはある。この女にぴったりな源氏名ではないか。俺は心の中で、キャバ店長の苦労に同情して微苦笑を送っていた。


 女が、「どれがいい?」というものだから、「だから、あんたの名前だよ!」と、少し声を荒げると、女はお約束のように頭を抱える。

「じゃあ、あんた!」


 ど~うしても本名を教える気がない。仕方がないので、俺は原稿用紙にあんずの『杏』を書き、これがあんたの名前ね? そう確認すると、女はこれがあたしの名前? などと言って用紙を胸に抱ええらく喜んだ。


「ありがとう!」 

 生まれてこの方二十五年、女に抱きつかれたことなど母親と看護師くらいしかない俺に、女は大きく手を広げ大胆にも抱きついた。俺幸せ! な訳がなく。臭い! 汗臭い! なんか変な臭いがくさい!

 後で知ったのだが、これがいわゆる女性特有の匂いという未知のかぐわしい香りが凝縮されたものだったらしい。しかし、このときの俺にそんなことを理解しろと言う方が無理な話である。





*


 と、そんな訳で俺は今、近所のコインランドリーへと訪れている。女が入浴している間に洗濯しようという算段である。いったい何日着続けていたのかわからない女の服やら下着……やっぱ臭い! がグルングルンと回っているのを目で追っていると、顔見知りの駐在さんが遣って来た。モテない者同士、彼とは親しいのだ。


 最近、下着泥棒が頻発しているので巡回しているらしい。

「ごくろうさまです!」

 と、溌剌はつらつな声を掛けた俺の手には、その時しっかりと女の花柄ブラと、可愛いリボンつきパンティが握られていたのだった。


 そんな訳で、おかしな女を拾ったが為に、狂いはじめた俺の平穏なる人生は、下着泥棒として逮捕さるという最大の危機を迎えたのである。


「俺は無実だ~!」


〈前編了〉  

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