第4話前編四

 

 アパートの共用通路へ出て携帯電話で警察に相談する間に、女には紙とペンを与え住所氏名を書くように促した。

 通路では赤ちゃんを抱きかかえた隣の本埜もとのさんが煙草を吹かしていたので軽く会釈する。子供を抱えて外で煙草を吸うって、意味がわからない。双子の旦那と四人で同居とか、この隣の新婚夫婦も変わった人たちである。


 警察はというと、署を訪ねて書類を書けという。一度は助けたのに、悪いけど警察に届けなければならない。女の所為で今月の生活費は二万二千六百円しか残っていないのだ。二万二千六百円しかだ。『女の所為ですっからかんだ!』あっ! このフレーズ、なんか気恥ずかしい。年甲斐もなく(とはいえまだ二十五なのだが)俺は、ちょっと赤面していた。そんな俺に向け本埜さんは微笑した。俺は兄か弟かわからない本埜さんに向け微笑を返した。赤ちゃんはキャッキャと無邪気な笑い声をあげていた。





 気を取り直して考える。

 あの小汚い女は俺に懐いているように見える。もしかして、モテない金ない根性ない三拍子揃った俺に、こんな機会は一生に一度しか訪れないのかもしれない。するともしや、何のスキルも持たずこの世に生まれ落ちた哀れな子羊である俺に、神様が慈悲を掛けて下さったのではあるまいか。あの女は、神の奇跡なのではないのか? 小汚いけど。


 そう考えると、女を警察に届けるのは少々勿体無くも思えてくる。折角だし、警察に届けるまでの間、ほんの少しの間だけでも、世間一般に言われるところの『リア充』なるものを体験させてもらってもばちは当たらないのではないだろうか。そんなほのかな希望と、ささやかなる欲望が頭をもたげる。

 

 けれど、けれどもだ。金がないのだ。頑張ってバイトしなくては、このままでは俺が生活できなくなってしまう。ホームレスになってしまうではないか。





 そんな訳で、畳敷き和室ワンルームの部屋へと戻った俺は、天を仰ぎ神を呪った。

「なんじゃこれは!」

 女は俺が渡した四百字詰め原稿用紙に、あろうことか熱心に落書きをしているではないか。それも字が汚い。ペンの持ち方さえむちゃくちゃだ。

 原稿用紙を取り上げた俺を見上げ女はニッと笑う。からかわれた気がして、俺は思わず怒った振りをして手を振り上げていた。

 女はボサボサの頭を両腕で強く抱えて丸くなった。手を下ろすと笑う。手を上げると頭を抱える。再度――以下略。

 

 この女、障害でもあるのか? いや、行動は非常識だが受け答えなどに問題はない。ただ単に非常識なだけだ。

 原稿用紙が返されると、また落書きのようなものを書きはじめた女を俺は呆然と見下ろした。


 その時、何処からともなく視線を感じとった俺が、無意識に玄関へ視線を向けると、キッチンの少し開いた窓の隙間から室内を覗き込む目と目が合った。

 




 ぞくりとした緊張が背中に走った俺は、室内を覗く目と思わず、暫くの間見詰め合ってしまった。なんだか妙な気分だ。五秒は経ったであろうか、突然目は消えた。


 俺はそっと玄関に忍び寄り、外の様子を伺いながらドアに耳をそばだてた。外にはまだ何者かが居る気配があり、中の様子を伺っている気がする。

 俺は、ドアノブに手を掛けゆっくりとまわすと、外開きのドアをサッと開いた。

「誰だ!」

 ゴン!

 安っぽい木製ドアが、外の怪しい人物の額に当たり鈍い音と共に衝撃を伝えた。

「ちょっと! 痛いじゃないの!」





 外に居たのは、このアパートの大家さんだった。出っ張った腹を戸口に押し込み凄んでいる。


「すいません。急いでいたもので……」


 身長百八十センチ、体重七十二キロの立派な体格をした若者である俺の腰が、途端に三十センチメートルほど低くなり、ずんぐりむっくりとした大家さんよりも目線が下がっていた。


「渡り廊下は狭いんだから、気を付けてもらわないと困るねぇ。あたしだから良かったものの、よそ様に怪我なんてさせたら警察沙汰だよ!」

 正論には滅法弱い俺であった。こういう時には兎に角、平謝りしかない。ますます俺の腰が下がってゆく。


「で、今日来たのは部屋代のことなんだけど――」

 大家さんは、どんどん低くなってゆく俺越しに、奥のテーブルで一心不乱いっしんふらんに落書きをしている女を見止めたらしい。

「あらやだ! 真面目だと思ってたのに、あんたも隅に置けないねぇ」

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