第2話前編二



 俺は、はたと気がついた。居酒屋の帰り、寿司屋で明日の朝食用にと寿司おりを買って手に提げていたのだ。寿司折の入ったビニール袋は、暗闇の中でもその白くあでやかな光沢ある『寿司兄貴』という屋号を不気味に照らしだしていた。

 それに気づいた俺が、袋をさりげなく身体の陰に隠せども、もう遅い。この目敏めざとい女は、別に車に撥ねられたとか酔い潰れていたとか、よくある道路に倒れている女などではなく、ただ単に道に行き倒れていただけの、なんとも非常識な女であったらしい。などと思いながら、女に朝食用の寿司折を奪われてしまった俺は、仕方なく女が寿司を食うのを見届けると家路についた筈だ。


 そう、俺は女が寿司を全部食い終わる前に、その他人のアパートの敷地内にある薄暗い照明が灯る駐輪スペースをあとにしていた。何か嫌な予感がしていたからである。俺の予感はよく当たるのだ。建築現場で何度命を救われたことか、わかったもんじゃない。それで、自分には工事の仕事は向いていないのだと悟った。体力くらいしか取り得のない俺は、外国人たちと共に建築現場で働いていたのであるが、割りのいい現場仕事を辞めて、今はコンビニで時給八百二十円の店員をしている。





 暗い夜道に動くものなど何もなかった。俺のサンダルを引き摺る音がズルッズルッっと、響いているだけだ。ズルッズルッ。ズルッズルッ。ペタンペタン。ズルッズルッ。ペタンペタン。

 

 俺は何も言わず、その場から一目散に逃げ出していた。逃げ込む場所はもちろん、築三十五年、月三万五千円也のボロアパートの二階にある、俺の部屋にである。その間にも妙に軽快で妙~に乾いた音は俺の後をズルッペタン、ズルッペタンと追いかけてきていた。

あぁぁ、また思い出してしまう。昔に忘却した思い出を思い出した、思わず多重表現してしまうほど過去に残してきた嫌な思い出を思い出して――。

「何でついて来るんだ!」

 同じだ。ボサボサの髪から覗く、その潤んだ瞳は、俺がまだ純真無垢だった遠い昔に見捨てたあの輝きと同じものだった。俺はあの時、見捨てたのだ。親に叱られ、一度は拾った箱の中の、目が開いたばかりの小さな猫の瞳を、鳴き声を、子供の気まぐれで与えた牛乳に命の希望を得た灯火を俺は無慈悲にも捨てた!

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