第13話「えっち」

 朝食後の尋問から始まったこの日の薮内不動産喫茶での席だが、それもひと段落すると二人は集中して勉強をした。追試の前と違って期限を縛られているわけではないので、ひかりは理系科目の勉強を中心に夏休みの宿題も進めた。


「むー、ミズコ、夏休みの宿題はまったく手つけずなんですもん」


 ひかりはそんな愚痴を零した。追試と補習をミズコに押し付けといて酷い言い分だと、亮介はくすくす笑う。それでも学業についてひかり自身がしっかり向き合う姿勢を見せているので、亮介は協力的だ。


「亮介さんって、びっくりするほど教えるの上手ですね」


 午前の勉強は終わり、喫茶店内で昼食を取っていると徐にひかりがそんなことを言う。亮介はそれに「あはは」と乾いた笑いを浮かべて答えた。


「直近で二回目だからね」

「あぁ、そうか。それでも学校の先生よりわかりやすいです。理系の大学を出てるんでしたっけ?」

「そう。工学系の学部を出てる」


 ミズコにも同じ説明をしたなと亮介は思い出す。

 どうしても目の前の少女が先週までと同じ顔だから、尤も体は本当に同一だから、どこかで別人の意識が薄れる。しかし会話の中で話の繰り返しがあると、やはりひかりの他にミズコという精神が存在し、先週まで一緒に暮らしたのは目の前のひかりではないのだと思い知らされる。


「このお店、人気なんですか?」


 ふとひかりが入り口を向いて言う。入り口の長椅子には空席待ちの客が何人も屯していた。


「それなりに繁盛してるけど、僕の知る限り、ここまで人が多いのは珍しいかな」


 亮介は箸を片手に入り口に首を捻りながら言う。淡々と答えてはいるが、空席待ちの多さを目にして徐々に恐縮の念も抱く。定休日の不動産部門の席も使われているくらいで、勉強で朝から居座って美代子に気を使う。座席は回転を上げた方がいいことくらい亮介にはわかっていた。


「午後は図書館で勉強する?」

「私は構いませんよ。亮介さんに合わせます」

「図書館は会話ができないから、わからないとこがあったらまとめといて。夜、僕の部屋で教えるよ」

「わかりました」


 と言うことで二人は、昼食を済ませてから歩いて図書館に移動した。市内で一番大きな図書館なので、広い自習室が確保されている。

 しかし自習室は連れ同士で来た来館者にマナーを守ってもらうため、私語ができないよう席は職員から無作為に割り当てられる。亮介とひかりは離れた席で各々の勉強を進めた。


 亮介はチラチラとひかりを気にして顔を上げた。自分より前の方の席を割り当てられたひかりは、集中して勉強をしていた。華奢な肩幅を覆うような綺麗な髪。表情までは見えないが、真面目に勉強に取り組んでいる様子が窺える。


 図書館に入ってから二時間ほどが経った頃、亮介は一人で小休止を取ることにした。トイレに寄ってから一度図書館を出て、外の自動販売機で缶コーヒーを買う。ひかりのためにオレンジジュースも買った。


 再度館内に戻って来るとエントランスホールにソファーがあるので、そこでコーヒーを飲み始めた。ふぅっと一息つく。


 ひかりの勉強に付き合わされているからか、自分の勉強は順調だ。一人で勉強をしていると緊張感が薄らいで、ついついサボってしまう。

 亮介が取得を目指す資格は受験に際してハードルが低いので志望者が多い。しかし真面目に勉強をする者は一握りで、仕事が忙しいなどを逃げ文句に勉強をサボる者が多数いる。それほど合格率の低い試験ではないが、当たり前だが勉強をしなければ合格することはない。


 左手にひかりのためのジュース。右手に開けた缶コーヒーを持ちながら亮介は壁際に目を向ける。エントランスホールは二面が外壁になっており、腰高の窓が天井までガラスを貼っている。照明も合わせてかなり明るい。


 窓下の腰壁は本棚になっていて、『おススメコーナー』として数点の書籍が表向きに飾られていた。本棚の上はイベントなどの紹介のチラシが置かれている。亮介は立ち上がるとふらっとその本棚に足を向けた。

 前屈みになるように本棚を覗き込む。『この街の工芸品コーナー』と題された場所は、その名のとおり地元の工芸品に関する書籍が飾られている。町工場が取材を受けた際の雑誌や、紹介のチラシ、物づくりのビジネス書など。


 特に書籍にまで手を伸ばそうとしないが、棚の上に置かれているチラシは覗き込んだ。『細工品』と特集されたチラシには小物入れや、化粧台、収納棚などの画像が貼られていた。

 亮介は物づくりに興味があって以前は回路の設計に就職したので、こういうものは好きだ。とは言えやはり分野は違う。電気系統が無関係な家具は造りが古く、滑らかな彫刻や漆で塗られている。しかし知恵を絞って仕掛けが施されているので、そこが面白いと思う。


「なーにしてるんですか?」

「ん?」


 亮介は背後からの声に振り返った。するとそこには後ろで手を組んで、少し前屈みの格好で亮介を覗き込むひかりがいた。首を傾げて明るい表情をするひかりはやはり可憐だと思った。


「いや、なにって特に何も。ちょっと休憩かな」

「その手に持ってるのは」

「あぁ――」


 ひかりのために用意したオレンジジュースなので、それを言ってからひかりに差し出そうとした亮介だが、既にひかりは手を出していた。そのちゃっかりした様子に半ば呆れながらも、可愛いからいいかと、素直に手渡した。

 ひかりはジュースを受け取るとエントランスホールのソファーに腰かけた。立ったまま亮介は問う。


「休憩?」

「はい。亮介さんが席を立ったのが見えて、探してました」

「そうなの。なにか用だった?」

「もう。一緒に休憩したいなって思ったから来たんですよ」

「あ、そうか。それはありがとう」


 頭をかきながら亮介はひかりの隣に腰かけた。この日ひかりは短いスカートを穿いており、その生足が艶やかだ。上はブラウスで二の腕やウエストなど、ほどよい細身である。そして出るところは出ている。


「えっち」

「ぶっ」


 亮介は口に運んでいた缶コーヒーを吹いた。


「なに言うんだよ、いきなり」

「だって、私の体をジロジロ見るから。女の子はそういう視線に敏感なんですよ」

「失礼しました。けどこれが男の性です」

「もう。じゃぁお部屋ではその獣の視線をずっと浴びせられるわけですね」

「気を付けます」

「ふふ。まぁ、別にいいですけど」


 いいのかよ、と亮介は思いながら缶コーヒーを口に運ぶ。

 しかし家出とは言え近所。社交的で容姿に優れたひかりだからせっかくの夏休みを友だちと楽しめばいいのにと思う。一方で、ミズコのことがあるからそもそも普通の生活はしていない。だから自分とずっと一緒にいることになったのにも納得ができる。


「そんな視線を向けるのにミズコの時は一緒に寝て、本当になにもなかったんですか?」

「本当ない! 本当に言った以上のことはなにもなかったから!」

「ふふ」


 あまりにも必死で亮介が答えるものだからひかりは可笑しく思った。そんなに慌てるなら余計に疑いたくなりそうなものだが、なんだか亮介の弁解は信じられそうだと思う。


「とは言っても、一緒に寝ながらミズコにはそんな視線を向けてなにも思わなかったんですか?」

「それがさ、僕がずっと落ち着いてたから能動的に見たことはないんだよ」

「あ……今は能動的に見たって認めましたね」

「……」

「なにか心境の変化でも?」

「ないと思うけど……」


 と言いつつも、ひかりの意見に内心で納得する亮介がいる。ミズコにはよく挑発されたものだが、それを除くと自分から邪な視線は向けなかった。だから今の自分が理解できない。

 ひかりに指摘されて初めて気づいたのか。それともひかりになってから見るようになったのか。もうわからなくなってしまった亮介である。

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