第11話「私もそうなったらどうする?」
亮介の部屋を出て帰宅したひかりは庭の蔵に入った。白熱電球で灯された室内は陰影が濃く視界が悪いので、足元をしっかり見て歩く。そして一番奥にある両開きの大きな三面鏡の前までやってきて、その扉を開けた。
「ひかり」
するとその少女は出てきた。ひかりは大鏡の前の畳に靴を脱いで女の子座りをする。埃っぽく不衛生な蔵ではあるが、この畳の上だけはひかりはマメに掃除をしている。
大鏡に映るのはひかりと同年代で同じくらいの背丈の少女。切れ長の目に丸みのない輪郭の顔。笑うと不敵に見えるし、朗らかにも見える。二面性のある笑顔だ。きつい印象の顔立ちながら、その笑顔が柔らかな雰囲気を作る。彼女がミズコだった。
鏡に映る背景は蔵の中。ひかりの背後だ。正面に映る少女もひかりと同じように畳で女の子座りをしている。お互いに膝の上で手は組んでいるが、どちらも組まれた手は右手が上。つまり鏡向きではないので、顔以外にもこの絵が二人を独立した存在だと示す。
「ミズコ、今日亮介さんに会ってきたよ」
「……」
不敵に笑っていたミズコは徐々に表情を変える。その笑顔が引き攣ったのは一瞬で、やがて無表情になり、俯き加減となった。笑顔も無表情も、そして今の俯いた表情もひかりは儚さを持つ綺麗な少女だと思う。
「そっか……。気づいたんだ」
ミズコから消え入りそうな声が出た。
「亮介さんの方がバイト先に来て、私と話がかみ合わないから気づいた」
「そうだったんだ……」
「ミズコの大事な人……なんだよね?」
「うん……」
「教えてくれたって良かったのに。ラインのトーク履歴とかもなかったし」
「まぁ、そうなんだけど。とは言ってもね、ひかりの外に感情を出した時に対面してたのが彼だから、ひかりも気づけたはずなんだけど。しかもラインのトーク履歴は消したんだけど、ともだちには残ってるよ」
「あぁ……」
ひかりは天を仰いだ。片や俯き加減で片や上を向く。鏡の摂理を無視した絵面である。
ひかりは初めて亮介と会った日を思い出す。配達で薮内不動産喫茶に行った時だ。確かにその日に亮介と初対面し、その最中に感情が揺れた。揺れた原因はミズコにあるとわかっていた。
その日のうちにミズコを問い詰め、一方ミズコは受け流しながらも、直後に体を貸してほしいと言った。なぜ気づかなかったのか。ほとほと自分が無頓着だと思う。
更に言うと、トークアプリは学校の友達などで登録された人数が多く、新たに亮介が登録されたことなど気づかなかった。新しいともだちを探そうという考えそのものが浮かばなかった。
お互いに顔を正面に戻すとひかりが言った。
「私もミズコみたいに直観力と洞察力があったらな」
「私はひかりを介して今まで視聴覚しかなかった。その分、ひかりにはない直観力と洞察力が備わった。この第六感みたいなものは代償だから私の特権。まぁ、ひかりはそれでもアンテナが鈍感で無頓着だけど」
貶されてガックリ肩を落とすひかりである。しかしすぐ対話に意識を戻す。
「なんで亮介さんなの?」
「一目惚れ」
「一目惚れ?」
「うん」
「やっぱり恋してたの?」
「ふふふ」
不敵に笑うミズコの内面が読めない。ひかりの一番の理解者であるのに、やはり精神だけの不思議な存在だからこうして掴めないところも多々ある。
ひかりは亮介に人としての好感は持つものの、一目惚れをするほど男性としての魅力までは感じていない。何より歳が離れているから。だからこそ性格も価値観も同じミズコが自分と違う男に一目惚れをした事実が意外だった。
「ミズコが亮介さんに惚れてたとして、それで一緒に生活をして何も進展はなかったの?」
「体はひかりのなんだからそんなことできない」
ミズコはひかりとして鏡の外にいる時、毎朝この鏡の中にいるひかりに会いに来た。家出をして男の部屋にいることも話していた。その時からこの手の話題は出ており、その度にひかりはこう答えたのだ。
「私は別にいいよって言ったでしょ? ミズコと違って私は体を介して視聴覚を共有しない。だから私の記憶には残らない」
「ふふふ。ゴメン、実はキスした」
「おお!」
ひかりがつぶらな瞳を更に丸くして食いつく。
「それで、それで?」
「それだけ」
「えぇ……、一緒に暮らしてキスしてそれだけ?」
「うん」
「なんならエッチまでしてくれて良かったのに」
「ひかり、自分の体なんだから初体験くらい大事にしなよ?」
「いいの、私のことは。せっかくミズコが鏡の外に出て生活を楽しんだんだから。ファーストキスや初体験くらいミズコに経験させてあげる。別に私は拘ってないし、記憶にも残らないからいい。なんなら私が初めての時、痛い思いをしなくて助かるなって思ってるくらいだから」
「そっか。まぁ、亮介さんは立場のある人だから犯罪に手は染めないけど」
そう言ってミズコは薄く笑った。
ミズコの色恋話に興奮してだらしない表情のひかり。一方、憂いを帯びた笑みを浮かべるミズコ。恋する乙女は客観的に見ると、こんな感じなのかもしれないとひかりは思った。
「それでさ、残りの夏休みも亮介さんのところで家出を受け入れてもらえるよう話してきたよ」
「え?」
ミズコの切れ長の目が見開いた。ミズコが無防備に驚きを示したことに、ひかりはしてやったりの顔をする。
「先週まではミズコだったってことも話してなんとか理解してもらえた」
「え? え? 嘘?」
「本当。亮介さんってどんな人だろうって興味から私が家出するつもりで話してきたけど、ミズコがやっぱり亮介さんに惚れてるって聞いたからまた入れ替わろう?」
「えっと、えっと、同意書は?」
「あはは、渡された。これがミズコの言ってた同意書か、ってちょっと面白かった」
「もうあのニートから署名もらったの?」
「さっきもらってきた」
「あいつの部屋に入ったんだ……」
ミズコが渋い表情を浮かべて言うので、ひかりまで渋い表情になった。
「すっごい抵抗あったけどね。励んでる最中じゃないことは確認してから入ったし。廊下にカタカタコントローラーの音が聞こえたから。それにしてもあいつの寝室は無理だわ。かび臭いって言うか、あれが噂のイカ臭いなのか。それに部屋は散らかってるし」
「ふふふ。私の気持ちがわかった? 私も同じ方法で確認して同意書をもらいに部屋に入ったんだけど、嗅覚の体感はまだ慣れてないから、本当にひかりの体が死ぬんじゃないかって焦った」
「うわ……お察しします。それに部屋に入るとゲームの手を止められるからすっごい不機嫌だよね?」
「そうそう。けど同意書の文面の無償ってとこを見たら手のひらを返した」
「そうだった。あはは」
二人でひかりの実父の愚痴を言っては笑う。これもこの蔵の中の鏡の前ではよくある会話だ。しかしそんな中、ミズコは表情を正すと言った。
「けどそれはひかりが使いな?」
「ん? 同意書?」
「うん。ひかりが自分の家出のために使いな?」
「なんで? まだ四十九日の日数余ってるでしょ? また体貸すよ? ミズコ、亮介さんの傍にいたくないの?」
「私はもういいの。私が三週間以上一緒に暮らすことができた人だから、ひかりも間違いなく気に入るよ」
「私も惚れるってこと?」
「男性としてはどうかわからないけど、少なくとも人としては好きになると思う。そんな相手に家出を受け入れてもらえるんだから、ひかりにもいい話だよ」
「いや、でも……。ミズコが好きになった人でしょ? 性格の同じ私だよ? もしかしたら私だって本当に惚れるかもしれないじゃん。ミズコの好きな人に」
「そんなの私たちの間では今更でしょ?」
ミズコは笑って言う。確かに今更だと思う。
「まぁ、私としてもそういう信頼できる大人の人のところで家出ができるなら本望だけど」
「でしょ? それならやっぱり亮介さんだよ」
「でもミズコ、キスはしたんでしょ?」
「そうだよ」
「私もそうなったらどうする?」
「したいの?」
真っ直ぐなミズコの質問にひかりは目を泳がせる。
「いや、そういうわけじゃなくて……。私は家出をする以上、相手が男の人なら何をされてもアリだなって思ってるから」
「それは私と同じだね」
「万が一だけど、私が亮介さんとそういうことになってもいいの?」
「亮介さんは自分を守るために法は犯さない。けど万が一、そういうことになっても私はひかりなら大丈夫。ひかりならいい」
「そっか……わかった」
「楽しんできて」
「ありがとう。ミズコも私の体が必要になったらいつでも言って」
「うん。その時は甘える」
この夜はそれを最後に、ひかりは大鏡の扉を閉じた。
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