第9話「話せると確信できました」
十八時十五分。ひかりは待ち合わせ場所となっている亮介のマンションのエントランスに来た。その時乗って来たのは配達の時に使っていた自転車で、亮介が置いて行った予算分の装飾用の花を持っていた。明るい色合いで丸みのあるブーケは両手に余るほどの大きさだ。
「お部屋知らないまま選んじゃいましけど、こんな感じでどうですか?」
「うん。凄く綺麗。ありがとう」
亮介は緊張しながらも表面上は落ち着いていて、穏やかな表情でひかりを迎えた。
「どこで話そうか?」
「若社長さんのお部屋で大丈夫です。先週までの私はそこで生活してましたよね?」
「そっか、わかった」
ひかりがそう言うので、マンションの駐輪場にひかりの自転車を停めさせ二人でエントランスを潜った。ひかりは登場からしおらしい態度だ。
そしてエレベーターに二人で乗った時に遠慮がちに口を開いた。
「失礼な発言だとは思うんですけど、気を悪くせずに聞いてください」
「うん。なに?」
「先週までの私は若社長さんをなんて呼んでましたか?」
古橋生花店で会った時は先週までと印象が変わったと思っていたが、昼間と今を比べてもまた印象が違って見える。亮介はひかりから記憶が抜け落ちているようにも思える。だから本来は失礼だと思われるこの質問にも落ち着いて答えられた。
「名前で呼ばれてた。亮介さんって」
「そうですか。それなら失礼じゃなければ、私も亮介さんって呼んだ方が違和感ないですか?」
「そうだね」
亮介は安心したような笑みを浮かべて答えた。その時にエレベーターが八階に到着したのでひかりを部屋に案内する。
亮介が適当な器に花を活けて玄関の下駄箱に飾る。その後二人は亮介の部屋でリビングテーブルを斜向かいに挟んで、床に座って畏まった。まずは亮介が口火を切る。
「お腹空いてるよね? 出前頼むから」
「そんな、お気遣いなく」
「気にしないで。僕の認識では先週まで君と一緒に生活してたんだから」
「そうです……よね。わかりました。お言葉に甘えます」
「話はご飯を食べてからにしようか? 遅くなっても家は厳しくないんでしょ?」
「はい。先週の私から聞いてますよね?」
「うん」
この後少ししてオードブルが届き、当初は緊張を見せていたひかりだが、食事中徐々に肩の力が抜けてきた。そして腹を満たしてテーブルを片付け、冷たいお茶の入った二人分のグラスだけを残したところでひかりが切り出した。
「先週の私と比較して今の私はどんな印象ですか?」
それに少しだけ悩む仕草を見せた亮介だが、時間にして数秒で応えた。
「先週の記憶が抜けてる……いや、違うな。確かに記憶がない印象はあるんだけど、それなのに核心は理解してる。にわかには信じられないけど、印象だけで言うなら二重人格……かな」
ひかりは「ふふ」と弱く笑ってから答えた。
「二重人格ですか。確かにそれも間違いではないです。けど正確でもないです」
「そっか。説明をお願い」
「はい。私が今から言うこと、たぶん普通の人ならオカルトだとか思って相手にしないかもしれません。けど私の知ってることは全部話すので、最後まで付き合ってくれますか?」
「わかった。約束するから安心して話して」
ひかりはクッションの上で女の子座りをして、膝の上で拳を握り俯き加減だ。今まである程度の緊張は解けていたが、話そうとするとまた力が入ったと亮介に思わせる。
「まずは質問ですけど、先週までの私に普通の人とは違う、おかしな子だなって思ったことはありませんでしたか?」
「うーん……」
そう言われて亮介は記憶を手繰る。急かしてもひかりがうまく説明できない予感がしたので、じっくりひかりからのなぞなぞに付き合うつもりだ。
最初に配達でひかりと出会って、その後は図書館で、それからは共同生活だ。先週までだからお盆前の共同生活まで。
「どんな些細なことでもいいです」
「えっと、初めて一緒に食事をした日、帰国子女かと思った」
「帰国子女?」
「日本の暑さに驚いたようだったから」
「あぁ、なるほど。他には?」
「料理は上手なんだけど、一切味見をしないで作るから凄いなって思った」
「私料理は自信あります。だから見た記憶だけで作ったんですね」
「どういうこと?」
「それだけ認識してれば大丈夫。亮介さんになら話せると確信できました。本題に入ります」
ここで亮介に緊張が生まれ「うん」と生唾を飲みながら答えた。
「私には生まれた頃からずっと、私とは別の人の精神が入ってました。それに気づいたのは小学校にも上がる前の幼少期です。彼女は自分のことをミズコと名乗りました」
「ミズコ?」
「はい。ずっと私の中にいて、けど実態はないから私の視聴覚を共有してました」
「視聴覚だけ? それをひかりはどうして知ったの?」
「本人から聞きました」
「本人とは話せる?」
ひかりは静かに首肯し、そして続けた。
「私の家には蔵があって、そこに大きな三面鏡があります。その前に立つと、その時だけ鏡の中でミズコは姿を現して、私と対話ができるんです」
にわかには信じがたい話だ。しかし決意を胸に秘めたような様子のひかりに横やりを入れることなんてできない。嘘を言っているようには見えないが、けど現実味がないからひかりの妄言かとも亮介は思ってしまう。
「それ以外の時は私の体を媒介にして視聴覚のみの共有です」
そこは念押しのポイントなのかもしれない。二度言ったことで亮介はそう理解する。
「ただ共有しているだけで私の体は私の精神が支配してます。ミズコの意思でこの体は動かせません。けど今年の夏休みに入ってすぐ、私はミズコから言われました。夏休みの間だけ体を貸してほしいって」
「それで貸した……と?」
「はい。ミズコは不思議な力を持ってます。鏡のこともそうですし。ミズコが言うには総計で四十九日間を上限に私と入れ替わることができるって言いました」
「入れ替わると言うことは、その間、君はどこにいたの?」
「私の精神は鏡の中にいました。私は自分の体を媒介にして五感のどれもミズコを共有することはできませんでした。けど事前にその説明もあった中で私は納得してミズコのお願いを聞き入れました」
「どうして君がそこまで?」
「夏休みの間だけだからです。私の父のことは聞きましたか?」
「あぁ、聞いた」
あまり褒められた父親像ではないので亮介は天を仰いで答えた。
「それが理由の一つ。それから補習と追試を代わってもらえることが一つ。普段の学校生活とは違って友達の前でボロが出ないと思ったのもあります。何よりミズコは私の親友だから断りたくなかったのが一つです」
「親友?」
「はい。ミズコは鏡の外では何も体感できないって寂しそうにすることがあるから。私にできることなら協力しようと思いました。だから私が体を貸した時、ミズコにとって五感のうち、触覚、味覚、嗅覚はすべてが初めて体感するものだったはずです。今まで視聴覚しか共有していないのだから」
「あ……」
「味見もそう。夏の暑さもそう。他にも心当たりが出てきたんじゃないですか?」
そう言われて洪水のように亮介に浮かんだ。不思議そうにテーブルや壁のクロスを触った。どこにでもあるオムライスやオレンジジュースを初めてのように堪能した。オムライスに至っては匂いから味わった。
猫舌の自覚もそうだ。今までずっとひかりが熱そうにしているのをミズコは客観的に見ていた。しかしそれがどんなものか体感はしていなかった。だから「たぶん」と曖昧に答えたのだ。目の前のひかりの言うすべてに辻褄が合う。
「信じられない……」
「そうですか……」
「それでも否定の言葉が浮かばない。だから信じるしかない」
「ちょっと安心しました。脳が沸いてるって思われるのが怖くて今まで誰にも話しませんでしたから」
「それがなんで僕なんだろう?」
「ミズコは大事な人を見つけたって言いました。だから体を貸してほしいって。当初は夏休みだけって言ってたのに、お盆前に返したので私もちょっと腑に落ちないんです」
「大事な人……」
「はい。失礼を重々承知のうえで言いますけど、私は最初誰かに恋をしたのかと思いました。と言うか、今でもその疑念が強いです。それがまさか亮介さんほど年齢の離れた人だとは思ってなくて」
亮介からは「あはは」と乾いた笑いしか出てこない。
「だから今日、亮介さんがお店に来た時の話は本当に驚きました。私が鏡の中にいる時に毎朝来て、一緒に暮らしてるって言ってたから。亮介さんって三十歳くらいですか?」
「三十一歳になったよ」
「そうですか。歳の差十五ですもんね」
ただ毎朝一回帰ると言っていた根拠もこれでわかった。鏡の中のひかりに会いに行っていたのだ。
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