第二幕
第8話「どういうお花をお探しですか?」
盆休み中の亮介は母親のもとに行った。父の義孝と離婚後、母親は生まれ故郷に身を寄せていた。美代子のこともあって亮介の生まれ育った地元には帰りづらいだろうと気遣い、亮介が年に数回、連休の折、顔を見せに行っていた。
しかしこの年の逆帰省はどこか上の空であった。原因はひかりだ。ひかりから一切の連絡がない。もちろん追試の朝に家を出てから顔も見ていない。家をあれだけ毛嫌いしていたひかりだからまた強引な方法を取って、若しくは、同意書の期日なんて最初からなかったかのように居座るのだと、頭のどこかで思っていた。
しかしこのようにひかりのことで頭がいっぱいになって亮介は痛感する。最終的に相手に依存をしたのは自分なんだと。
やはりキスは過ちだっただろうか。それをひかりは気にしているのだろうか。それならば謝りたい。もう二度と同じ過ちは繰り返さないと本人に誓いたい。しかしキスの直後、ひかりが思い詰めた表情や、怒りを見せることはなかった。だから解せないでもいる。
ただ連絡を取ろうと思えば取れる。しかしまだ辛うじて倫理観の残っている亮介だから、成人している男の自分から連絡を取ることに躊躇していた。
このお盆中、ひかりは花屋でアルバイトをしているだろうか。花屋だからお盆は休まないと思うのだが。そんなことまで考えると、無意識に花屋の方に足が向いてしまった。
それはお盆明けだ。最初の出勤は月曜日だった。出勤して事務処理を一通り済ませると亮介は社用車で営業回りに出た。そのルートにひかりがアルバイトをする古橋生花店の前を通るようにしたのだ。過去の納品書から店の所在地はわかった。
「あ……」
古橋生花店が見える交差点で信号待ちの際、ひかりが配達の時に乗っていた自転車を見つけた。それは店の表に停まっていたのだが、亮介は店が所有する自転車かもしれないと思い至る。自転車だけで一瞬でもひかりがいるかもしれないと思った自分を滑稽に思った。
信号が青に変わったので亮介は社用車を発進させた。前方を向いて運転はしているが、横目に古橋生花店が気になる。無意識にスピードを落とした状態で運転していた。
「ひかり!」
その時だった。エプロン姿のひかりが店の外に出たのだ。そんな格好だから間違いなくアルバイト中だ。しかし無情にも車の流れで捉えたのは一瞬で、視界の端からすぐにひかりの姿は消えた。
その後、営業先を回っている最中も亮介の頭からひかりは消えなかった。商談や打合せの時はさすがに上の空ということはなかったが、移動中など一人になる時は常にひかりのことが頭に浮かんでいた。
だから踏みとどまれなかった。もしかするとストーカー呼ばわりされるかもしれない。しかも相手は高校一年生で自分は三十一歳のバツイチだ。考えると恐ろしい。それなのに、営業回りから会社に戻る途中で亮介は古橋生花店に寄り道をしたのだ。
駐車場に社用車を停めると多くの植物で足元を埋められたアプローチを歩く。人一人が通れるほどの幅の通路だ。そしてすぐに建物の入り口にたどり着く。入り口の両開きのガラスドアは開放されていた。それを潜ると来客を知らせる短い音楽が鳴った。
「いらっしゃませー」
大きく心臓が跳ねた。レジカウンターの奥から聞こえてきたのは、盆休みの前までよく聞いていた少女の声だ。亮介はその少女が出て来るのを緊張した面持ちで待った。
そして少女は姿を現す。
「いらっしゃいませ。……あ! 若社長さん!」
間違いなくひかりだった。店のロゴが入ったエプロンを着け、満面の笑みで出迎えてくれた。しかし若社長とは……? 確かに初対面の時にそう呼ばれたが他人行儀に感じる。
接客の笑顔は煌びやかで好感の持てる愛想なのに、避けられているのか? 家出をして一緒に生活したことを無かったことにしようとしているのか? そんなネガティブな印象まで抱く。
「珍しいですね。お店に見えるのは初めてですか?」
「あ、うん……」
亮介はなんとか声を絞り出す。たった数日なのに連絡もなかったから不安になった。だから会いたくてしょうがなかった。そのひかりとやっと会えて、けど緊張で自分の愛想笑いは引き攣っていないか不安になる。
「今日はどういうお花をお探しですか?」
「あ、えっと……」
ひかりに会いたい一心で来てしまったが、店への用事はなにも回答を用意していなかった。そんな中、必死で頭を回転させ、出た答えは陳腐だった。
「部屋に飾るのにちょうどいいものを」
仕事の付き合い以外、花を贈る用事はない。お盆はちょうど過ぎたから墓参りも不自然だ。だから自分用としか答えようがなかった。
「へー、お花好きなんですか?」
「あ、いや。自分用は初めてで、どういうのを選んだらいいのかもわからなくて」
「そうなんですね。じゃぁ、差し支えなければ私が一緒に選びましょうか?」
「助かるよ」
どうしてもひかりから他人行儀な印象が拭えない。もっと言うとひかりの態度は、七月に配達で来た日まで遡っての再会にも感じる。
しかしそんなはずはない。つぶらな瞳に肩より長いきめ細やかな髪。均整の取れたスタイルと鼻にかかる聞き慣れた声。間違いなく先週まで一緒に生活をしていたひかりだ。
それなのに今のひかりの態度は接客で、太々しいほどの懐っこさはない。愛想のいい笑顔から人懐っこそうだとは思うが、自分だけに向けているようなものではない。
するとひかりは腰をくねらせてレジカウンターを抜けると、亮介の脇に立った。月曜日にアルバイトをしていることも気になるので、それに繋がる質問から亮介は試した。
「店は一人なの?」
「今はそうです」
ひかりはエプロンのポケットから万能ハサミを取り出し、バケツに活けられた花を物色しながら答えた。表情は明るく、やはり美少女だと亮介は思う。
「お姉ちゃんは赤ちゃんがいるんですけど、今日は子育てスクールに行きました。お義兄さんは車で行くような距離の配達に今は行ってます。その予定があったから今日は店を手伝ってほしいって言われて。普段、私は土日しかシフト入ってないんです」
既に知っている情報も含めてひかりは説明に応じてくれた。しかしその既に知っている情報をわざわざ言うことにやはり違和感がある。
するとひかりが亮介に向いた。
「お部屋ってどんな感じですか?」
「え?」
「クロスとか、家具の色とか。それに合ったお花を選ぶので。あと、お部屋の広さも。あまり大きくなり過ぎても空間を圧迫して良くないので」
「どういうこと?」
「ん? どういうこととは?」
とうとう亮介は表情を無くしてしまった。一方ひかりは怪訝な表情を見せる。ここまでくると亮介は納得できないと思い始めていた。
「ひかり……だよね?」
「え? は、はい……」
ひかりは名前で呼ばれたことに戸惑っている様子だ。一度自己紹介はしたことがあるのだから、亮介が自分の名前を知っていることは理解している。それでも親しみのこめられたその呼び方が解せない。
「僕の部屋、知ってるよね?」
「え……」
その瞬間、ひかりの手から万能ハサミが落ちて床を鳴らした。ひかりのつぶらな瞳はみるみる見開く。亮介にひかりが動揺したことが手に取るようにわかるが、それがなぜなのかはわからない。
「家出して僕の部屋で三週間ちょっと生活したよね?」
「まさか……」
ひかりは空いた両手を口元に当てて、驚きを示した。何かに解せたと言わんばかりの表情だ。
「ごめんなさい!」
すると突然、ひかりは深く腰を折って謝罪した。この浮き沈みに亮介は困惑する。
「私、えっと、なんて説明したらいいのか……。と言うか、説明にもかなり時間がかかるし……」
ひかりの動揺はどんどん増す。うまく話せる状態ではなさそうだと、亮介はそれだけをなんとか理解した。だから一度落ち着かせようと口を開いた。
「説明が必要なんだね? それには時間がかかるんだね?」
「は、はい」
「一回ゆっくり君と話したい。それはできるかな?」
「はい。私が知っていることなら」
「良かった」
「私、今日は十八時にバイトを上がります。その後でしたらいつでもどこでも」
「僕も定時は十八時だよ。残業は自分の裁量だから十八時に仕事を上がることができる。迎えに来ようか?」
「いえ、自転車があるので。バイトが終わったら私がそちらに行きます」
「会社が入ってるマンションの裏手にエントランスがあるからそこで待ってる」
「わかりました」
それだけ話を詰めると亮介は、口実であった装飾用の花の予算だけ置いて店を後にした。
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