第7話「ううん。大丈夫……です」

 亮介とひかりの共同生活は奇妙ながらも順調であった。

 亮介が出勤となる木曜日と金曜日、ひかりは午前中は学校に行き、午後は図書館で勉強をする。夕方には勉強を切り上げ、夕飯の買い出しに行く。そして亮介の部屋で炊事をしながら亮介の帰りを待つ。


 土曜日と日曜日はアルバイトに行き、夕方に退勤してから買い出しに行く。図書館の休館日である月曜日は学校と亮介の部屋での勉強だ。

 亮介の休日である火曜日は学校の後、亮介と喫茶店で勉強。水曜日は学校と図書館コースである。そして亮介に教えてもらう勉強は昼間のうちにまとめておいて、夜の勉強で解決させていた。


 亮介もこのようなルーティンの中で自分の勉強を進めた。昨年までは同業者や取引業者と酒席の付き合いもあったものだが、この年は資格試験が控えていることを理由に、穏便に断れている。

 だからとも言えるし、そもそも勉強という同じ目的を持っているとも言えるが、ひかりとのスケージュールにズレが生じなかった。


 八月に入ってすぐのこの日は、勉強も風呂も済ませて深夜のテレビ番組を二人で見ていた。二人が座れる程度の小さなリビングソファーで肩を並べ、ソファーに背中を預ける亮介にひかりが肩から寄りかかる。顔の密着はないが、この程度のスキンシップは当たり前になっていた。

 テレビでは全国大会の開幕を控えた高校野球の特番がやっていた。ひかりは腕で膝を抱え、こめかみを亮介の肩に預けながら言う。


「高校野球ってなんで代表校が四十九なんですかね」

「都道が各二校で府県が各一校だから」

「そんなことは知ってますよ」

「じゃぁもう疑問は解決してるじゃん」

「解決してません。四十九って中途半端じゃないですか?」

「まぁ、確かに。高校サッカーの冬の選手権なら四十八だから、トーナメントを組むうえでは都合がいいよね」

「なんで都合がいいんですか?」

「偶数に二の階乗を掛けるから」

「でもそれだと減っちゃうじゃないですか」


 理系の勉強に集中している時期だからだろうか。数字に関する話題もひかりにとって抵抗がないようだと亮介は思う。尤もそれまでのひかりを知らないから、数字が苦手そうだというイメージは先入観なのかもしれない。


「高校野球の方?」

「そうです」

「記念大会だと五十六校になるよ?」

「それはいいですね」

「まぁ、僕としては五十六にするなら二の階乗の六十四まで増やせばいいのにって思うけど。それならトーナメントを組みやすいし」

「それはもっといいですね」

「少子化のこの時代に非現実的な話だけど」

「身も蓋もないことを言わないでください。多ければ多い方がいいですよ。少なくとも四十九よりは断然いいです」


 欲張りなひかりの意見に亮介は「ふふ」と笑う。ただそうは思っても、渡している生活費は無駄遣いをしないし、物欲をそれほど感じたこともない。それなのに今の話題とか、家出でここに転がり込んできた時の強引さも持っているから掴めない。しかしそんなところが可愛らしいと思うのだ。


 やがて日付が変わった頃には床に就く。いつも二人同じ時間だ。そして大半の日、ひかりは亮介のベッドに潜り込む。亮介の背中に密着することもあれば、腕を抱え込んで眠ることもある。

 亮介はそれを邪険にしないし、それでいて欲情もしない。共同生活が何日か経って、今でもそんな穏やかな自分に解せないでもいた。とは言えこれは守らなくてはならないことなので、亮介は自分の理性に安堵もしていた。


 しかし歯車が狂う日は唐突にやってくる。事前に心の準備なんてありもしなかった。それは亮介にとってもひかりにとっても。


 追試を翌日に控えた盆前の水曜日。祝日なのでこの日ひかりは学校には行かず、朝から図書館コースの一日だった。亮介は午後から予備校で、今までとはほんの少しルーティンがズレた一日だ。

 いつものようにひかりがわからない問題をまとめ、亮介の部屋に帰り、夕食と風呂の後に亮介から教えてもらう。そんな夜だった。


「亮介さん、この問題なんですけど」


 ひかりは亮介が自分の勉強を始める前に、面倒な自分のことは先に解決させようと冒頭で質問した。それが終われば亮介は自分の勉強に集中できるから。


「ちょっと待って」


 亮介はひかりの隣に座り、問題集の解説を見ながらまずは自分が理解しようと努める。いつものやり方だ。そして腑に落ちるとひかりに説明を始める。


「ここはまずね……」

「……はい。……はい」


 ひかりはひかりで素直に教えを乞う。これもいつものことだ。しかし最近の距離感から油断が生まれ、この時は互いの体が密着するほど近づいた。亮介の腕の中にひかりが包まれるような感覚。それをお互いに感じ、そして意識した。

 今までの小さなスキンシップを思うとそれほど大きな差はない。それなのに目が合った時の距離があまりにも近く、鼻と鼻は触れそうなほどだ。互いの吐息も敏感に感じてしまった。途端に二人とも無言になった。

 目が離せない。けれど照れもある。揃ってそんな状態だからその先取った行動は同じだった。引力でもあるかのように顔を近づけ、目を閉じて、そして唇を重ねた。


「ごめん」


 慌てたのは亮介だ。ひかりの肩を掴んで距離を取る。明らかに行き過ぎた行為だ。罪悪感と自己嫌悪が重く圧し掛かる。


「ううん。大丈夫……です」


 一方ひかりは俯き加減で耳まで顔を真っ赤にしていた。それでも亮介が気に病まないように声を振り絞った。当初はあれだけ亮介を挑発していたのに、今更になってこの態度だ。しかし亮介はそんなひかりを茶化すこともしなかった。

 羞恥に耐えられなくなったひかりは逃げるように言った。


「私の勉強はもう解決です。明日のテストに向けて今日は早めに寝ますね。亮介さんは今日の分の勉強をサボらないでくださいね」


 一方的に言ってひかりは寝室に消えた。そんな彼女の背中をぼうっと亮介は見送る。


 ――久しぶりにキスした。けど今までがどうだったかまったく思い出せないや。キスってこんな感じだっけ。


 何年も空いた唇の感触に以前との違和感が拭えない。思い出そうとしても思い出せない。年齢と共にキスに対する純情さは無くなり、ありがたみが薄くなっているのだろうか。それなのに幸せな気持ちにはなっているから解せない。そんなことを亮介は思った。


 一方寝室に消えたひかりは、敷かれた布団の上で悶えていた。


 ――しちゃった、しちゃった。どうしよう。キスしちゃった。


 顔を両手で覆いながら右を向いたり、左を向いたり落ち着かない。しかし一度冷静になろうと思った。亮介は勉強中なのだからあまり物音を立ててはいけない。悶えていたひかりの動作はピタッと止まった。すると一気に脳がクリアになった。


「はぁ……」


 出たのはため息だ。


「絶対亮介さんは罪悪感を感じてるだろうな。それに……」


 そして自分の耳にしか届かないほどのか細い独り言だ。ひかりはそれからあれこれ考え始めた。


 やがて日付が変わった頃に亮介も寝室に入って来る。ひかりは目を閉じているが火照っているので起きていた。明日はテストだというのに。しかし寝たふりは続けた。


 ササッ


 すると頭に心地よい感触を覚えた。亮介が髪を撫でたのだ。布団の脇に膝を付いたのもわかっていたから何かあるかもしれないと身構えていた。その何かは亮介の温かい手の感触だった。ひかりはギュッと胸が締め付けられるような感覚に陥る。

 亮介はすぐにベッドに上がった。気配からひかりはそれを認識した。そしてこの夜、寝たふりを続けているひかりが亮介のベッドに潜り込むことはなかった。


 翌朝亮介が起きるとひかりの姿はなかった。リビングテーブルにはこの日の朝食が用意されている。しかしどこか違和感がある。ひかりがいないことではない。もっと大きな喪失感だ。


「え……」


 亮介はひかりの私物が一切ないことに気づいた。しかも合鍵が茶碗の横に置かれている。どういうことだ? と少しパニックになった亮介が真っ先に取った行動はスマートフォンの確認。そこにはひかりから一通のメッセージが届いていた。


 ひかりはこの部屋を出た。外出したのではなくて、この部屋にもう帰ってこないのだと確信させるその文面。


『追試に行ってきます。同意書の期日です。今までこんなわがままJKに良くしてくれて本当にありがとうございました』

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