第6話「この家の法律は私です!」

 ひかりの料理の腕は申し分なかった。箸をつける直前に「味見はしてませんが」と言ったことには面食らったが、亮介は「美味しい、美味しい」と言ってこの日の夕食を平らげた。完全に胃袋を掴まれた様子で、普段一本の缶ビールも珍しく二本空けた。


「喜んでもらえて良かったです」


 ひかりは「ご馳走様」と言った亮介に煌びやかな笑みを見せた。これに亮介は不覚にも胸が熱くなったわけだが。


「洗い物は僕がやるよ。風呂に入ってきな?」

「大丈夫です。家事は私の担当だからちゃんとやります」

「少しくらい僕も家事はやるから。その方が勉強の時間を削らに済むし」

「けど……、それだと亮介さんの勉強の時間が削られます」


 そんなしおらしいひかりを亮介は初めて見るので、こんな一面もあるのかと感心した。それでも亮介は朗らかな笑顔を浮かべて言う。


「いいから、いいから。僕が洗い物をしてる間にひかりは風呂を済ませる。そうすれば勉強の時間が一緒になるでしょ?」

「わかりました。じゃぁ、お願いします」


 やっと納得を示したひかりはリュックから着替えを取り出し、洗面所に向かおうと立ち上がった。


「下着くらい恥じらいを持って隠してくれよ」

「興奮しますか? 良かったら脱ぎたてのを洗濯する前まで、亮介さんにプレゼントしますよ?」

「もういいから早く風呂に行け」

「はーい」


 亮介は洗面所に押し込むようにひかりの背中を押した。洗面所の簡易ロックの音を聞いて亮介は肩の力を抜く。そしてキッチンで洗い物を始めた。


 亮介が洗い物を終えて少ししてひかりは風呂から出てきた。思わず亮介からため息が出る。


「はぁ……」

「どうしたんです? あ、わかりました。お風呂上がりの美少女に魅力を感じてマジ惚れしましたね?」

「はぁ……」

「そのため息は肯定と捉えますよ?」

「はぁ……、僕はロリコンじゃないんだけどな」


 しっとり濡れた髪はきめ細やかで、部屋着に着ているTシャツはひかりの肢体を模る。ショートパンツは先ほどまでのデニムと違って生地が薄く、そして生足が艶やかだ。


「ふふふ。まぁ『惚れた』は言い過ぎにしても、少しは私に魅力を感じてくれたようですね」

「……」


 言葉ではっきりとは認めたくないので口を噤むが、ひかりの言うとおりなので亮介は自己嫌悪する。ひかりの嬉しそうでいて魅惑的な笑みが恨めしい。


 その後、ひかりが髪を乾かし終えると二人はそれぞれの勉強を始めた。前日同様ひかりの集中力は高く、それに引っ張られるように亮介も集中して問題集を進めた。苦手な床の上なのに、気づけば二時間が経過していた。時刻はもうすぐ日付が変わりそうだ。


「ひかり、どう?」

「そろそろ切りがいいです」

「じゃぁ、もう寝ようか?」

「はい、わかりました」


 ひかりが教材を片付け始めるので、亮介はリビングに繋がった寝室のドアを開けた。その寝室にあるウォークインクローゼットから布団とタオルケットをリビングに持ってくる。教材を片付け終えたひかりは首を傾げた。


「誰か泊まることがよくあるんですか?」

「なんで?」

「布団が一組あるから」

「あぁ、違うよ。実家から持ってきた」

「ふふふ」


 亮介はひかりの笑い声が聞こえない振りをした。前日はあれだけ渋っていたのに、用意のいいことだ。この日の午後は予備校に行っていたはずなので、大方午前中に動いたのだろうとひかりは思う。

 しかし彼女は言う。


「私はリビングでは寝ませんよ?」

「は? 寝室使うのか? 僕がリビングで布団?」

「違いますよ、鈍いですね。二人とも寝室です」


 亮介はズッコケるように前のめりになって布団を落とした。


「いいわけないだろ!」

「この家の法律は私です! ドン!」

「胸を強調させるな」

「あるんだからアピールしないと」

「それから家主は僕だよ」

「家主は亮介さんですけど、残念でした。亮介さんが付け込まれたJKはとても我儘なのです」


「……」


「ふふふ」

「そんなに僕の理性を崩壊させたいのか?」

「望むところです。家出を受け入れてもらっている以上、それはアリだと思ってます」

「勘弁してくれ……。僕は事務所に行って応接ソファーで寝てくるよ」

「あ、嘘、嘘! 嘘ですから!」


 突然ひかりは慌てたように亮介の腕を掴む。亮介を見上げるひかりは眉尻を垂らして目を潤ませるから庇護欲を駆り立てる。亮介は敵わない。


「お願いですから、一緒の部屋で寝てください」

「それは無理だよ……」

「お願いです。家出も初めてで不安なんですよ」


 ズルい。ここで弱さを見せるのは年下の女子の特権だ。それが本音に見えるから亮介は困惑する。


「お願いです」

「はぁ……、わかったよ」


 結局亮介が根負けする。一方ひかりは満面の笑みに変わった。ずっとこの調子だろうなと、既に認識していたが亮介は改めて自覚する。煩悩との戦いはより激しさを増しそうだ。

 亮介は再び布団を抱えて、今度はひかりを伴って寝室に入った。リビングの照明は落とし、入れ替わるように寝室の照明を点けた。

 するとベッドの脇に布団を敷いている時だった。


「この人……」


 ひかりの声が寝室に漂った。それは今にも消え入りそうな弱い、弱い声だった。ちょうど布団を敷いた亮介はひかりに向く。ひかりはセミダブルのベッドの枕棚に立ててある写真立てをジッと見ていた。


「あぁ、僕の前の奥さん」


 その写真は亮介と前妻の美姫みきが仲睦まじく二人で写った一枚だった。新婚旅行で行った先の沖縄のビーチで撮ったものだ。本当は海外に行きたかったが、大学卒業と同時に結婚し、当時は金もないので結婚式も挙げず、旅行だけは行きたいと国内で思い出を作っていた。


「優しそうな人ですね」


 切れ長の目にシャープな顎。そして朗らかな笑顔。ひかりは目を細めて写真の美姫を見つめていた。


「そうだね。大人しい人だったから喧嘩をした覚えもないな」

「死別……ですか?」

「うん。よくわかったね」

「前の奥さんの写真を残すってことはすれ違いじゃないなって。子供と写ったものだったら残ってることもあるかもしれないですけど、子供はいないって言ってましたから。……すいません。踏み込んでしまって」

「いいよ、気にしないで」


 やはりひかりは時々しおらしくなる。そんなところに調子が狂う。それに洞察力があると思う。勉強だって今までやらなかっただけで、取り掛かれば理解は早いのだし。


 やがて寝室の照明を常夜灯に切り替えると薄暗い室内で亮介が弱く声を発した。


「なぁ、ひかり」

「なんですか?」

「一つ聞いてもいい?」

「はい」

「今から聞くのは大事なことだからセクハラとか言うなよ」

「わかりました。どうぞ」

「男性経験は?」

「ふっ」


 今までの調子からあまりに意外な質問だったので、ひかりは小さく吹いて笑った。


「気になります?」

「大事なことだって」

「ないですよ。処女です」

「良かった。頼むから僕の家にいる間は処女を守ってくれよ」

「どういうことですか? 亮介さんは処女キラーなんですか?」

「真剣な話なんだよ。揶揄うな」

「あ、わかった。つまり、合宿名目の保護者の同意は取れてるから未成年を泊めることは問題ないけど、十八歳未満の私と性行為を疑われるのはマズいと?」

「やっぱり洞察力が鋭いな」

「えっへん。それで万が一疑われた時に、私が処女診断書を提示できれば晴れて亮介さんは身の潔白が証明できるわけですね」

「そういうこと。と言っても、完全な潔白にはならないけど」

「あぁ、わいせつ行為のことですね」

「ったく。こっちが色々悩んで言葉を選んでるのに」

「えへへん」


 その誇らしげな笑いを最後に寝室からは声が無くなった。亮介はひかりを意識しないように寝返りを打ってひかりに背を向ける。尤もベッドと床との高低差で目を開けても視界に入ることは稀だが。


 暫くそんな静けさが寝室を漂った。すると久しぶりに声が舞った。小さくてとてもか弱い声だった。


「亮介さん、寝ました?」


 亮介はこれになにも答えなかった。目を閉じて覚醒されたままの意識の中でひかりの声を捉えている。


「そっちに行ってもいいですか?」


 どうしてかわからないが、そう言われる予感がしていた。だからなのか、亮介に動揺はない。そして不思議なことに抵抗もない。


「行きますね」


 そんな声の後、服と布団が擦れる音を耳にして、亮介の背後からベッドの沈む様が感じられた。ひかりは貼り付くように亮介の背中に身を預けた。

 亮介にはやっぱり動揺がない。亮介自身、それが不思議だと思う。加えて言うなら性的な興奮も生まれない。それどころか亮介にとってうまく表現のしようがない感情が芽生える。責任感のような、庇護欲のような。

 そんなことを感じていると、小さくひかりの寝息が聞こえ始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る