第2話「JKとのランチに不満ですか?」
配達先の不動産会社で亮介と対面したその晩、ひかりは自宅の庭の外れにある蔵に出向いた。現代ではもう天然記念物とも言えるような白熱電球を灯す。すると十畳ほどの広さの蔵で視界が確保された。しかし陰影は濃く、視認性がいいとは言えない。
蔵の中はもう使われなくなった雑多なもので囲まれていた。高い天井の際、壁の上方には木製の格子窓があり、土壁の上から弱い月光を取り込む。
室内は埃っぽいので、ひかりはいつも入浴前に来るようにしていた。しかしあまりここにいることを祖母と父親に知られたくはないので夜中に来ている。だから必然的に入浴はいつも遅くなる。
ひかりはそんな蔵の中を進み、入り口から一番遠い壁際に立つ大鏡の前に立った。両開きの三面鏡で、その前の床には一枚の畳が敷かれている。ひかりはサンダルを脱ぐと畳に上がった。そして重い両開きの扉を開ける。
「ひかり」
直接脳に語り掛けるような、自分の内面から発しているような声。ひかりは鏡を見ながらその声に答えた。
「ミズコ」
白熱電球は灯しても陰影が濃い室内で、高窓から入る月光が鏡を青白く照らし、鏡に映っている者のうすら笑みを強調した。
言ってしまいたいことがあるので、ひかりは間を空けずに口を開いた。
「ミズコ、今日私の外に感情を出した?」
「ひかりには敵わないなぁ」
そんなことを言いながらもひかりの目に彼女は不敵に映る。それでも十年にしてそれも慣れたもので、家族より、学校のどの同級生よりもお互いを理解した存在だと思う。ひかりは親友だと言っても過言ではない存在だと思っている。
「前にもそんなことあったよね?」
「あったっけ?」
敵わないと言いながら惚ける彼女にひかりは呆れる。
「いつだったか思い出せないけど」
「じゃぁ、ひかりの勘違いだ」
「そんなことないよ。たぶんだけど、あったよ。ああいう感覚、初めてじゃないし」
「それより、ひかり」
「それより、じゃないよ」
「お願いがあるの」
「なに?」
ほとんど風がなかったこの日、ひかりは昼間の花屋のアルバイトで疲弊した。真夏の日差しは自転車を漕ぐひかりを容赦なく襲った。そんな日なのに、それが夜まで続いていたのに、この時一瞬だけ強い風が吹いた。
高窓から入って来たにしてはそれほど局所的な風ではなかった。十畳ほどの蔵全体でつむじのように起こった風は、床から埃を舞い上げた。
「ひかり、本当にありがとう」
「いいよ。私としてもあの家には居たくないし、今の時期ならちょうどいい」
夏休みが始まったばかりのひかりは二日後の火曜日、市内で一番大きな図書館に来ていた。席を確保してとりあえず昼食を取ろうと一度図書館を出る。
「あれ? 花屋のバイトちゃん?」
その声にひかりはドキッとして肩を上下させた。図書館を出た先の屋外で恐る恐る振り返る。
――あぁ、やっぱり。
声ですぐにわかった。だから緊張した。しかしまさか配達先ではなくこんなところで、しかもこんなに早く出くわすとは。一方ひかりに声をかけた彼に緊張の色は一切なく、朗らかな笑顔を向けて歩み寄ってくる。
ひかりの緊張は増すが、何度もシミュレーションをしてきのだから頑張れ、と自分を励ます。その甲斐あってか自然な笑顔を浮かべることができた。笑顔を浮かべた時にできる顔の皺の感覚に慣れないが、それが反って笑顔の成功を自覚させる。
「あ、こんにちは。不動産屋さん」
ひかりに声をかけたのは薮内不動産喫茶の薮内亮介だった。
「こんにちは。こんなところで会うなんて」
「奇遇ですね」
「こんな時間にどうしたの?」
「もう夏休みなので」
「あぁ、そうか。けど制服だね」
ひかりは学校指定の制服を来ていた。夏でなければブレザーだが、この季節はブラウスだ。大きめのリボンのゴムを緩くして首から提げ、ブラウスの第一ボタンは外している。プリーツの効いたスカートは膝上で少しだけ太ももを露にしていた。
「午前中は学校に行ってたんです」
「そうなんだ。真面目だね」
亮介が感心した様子を示すのでひかりから苦笑いが浮かぶ。同時に問題なく会話ができていることに、この調子だと自分に言い聞かす。そうして気持ちを強く保つことで緊張も徐々に和らいできた。
「いえ、不真面目なんです」
「なんで?」
「一学期の出席日数が足りなくてお盆まで半日補習で」
「……」
「あはは。やっぱり呆れちゃいました?」
「ちょっとだけ」
「加えて言うなら理系科目が全然できなくて、お盆前に追試があるから一年生ながら図書館でお勉強です。それに合格しないとお盆の後の夏休みも潰れるのです」
「まぁ、胸を張って言えることじゃないね」
「ですね。不動産屋さんはなんで図書館に?」
「僕は秋に資格試験を控えてるから、その勉強で」
「なるほど。じゃぁ同士ですね」
「……」
亮介は二日前に会社で会った時のひかりとギャップを感じていた。美少女でハキハキ話す様はイメージが変わらないが、真面目そうだと思ったのは改めなくてはならないと思っている。更に言うと、確かにハキハキしてはいるが遠慮のなさもイメージに加えた。
「渋い顔をしないでください。追試の私に同士呼ばわりされるのは不満ですか?」
「ドウシダネ」
「棒読みですか? 罰を与えますよ?」
「罰? 美少女からどんな罰を?」
美少女と言われて思わず赤面するひかりだが、それよりも会話が順調なことに安堵する。この調子ならもっとグイグイ踏み込めるかもしれない。だから勢いを落とさずに言った。
「今からお昼ご飯をご馳走してください」
「へ?」
「鈍いですね。今から私とランチをしましょうって誘ってるんです」
「パパ活?」
「したことあるんですか?」
「いや、ないよ」
「じゃぁ、そういう不純なことは言わないでください」
「いや、でも。僕はもう三十代で高校の制服姿の君と二人で食事をするのは目立つわけで」
「JKとのランチに不満ですか?」
「いや、不満じゃなくて。周囲の目が……」
「グダグダ言ってないで行きましょう。お店はそちらで選んでもらっていいですから」
「わっ、ちょ……」
立ち話をしていた亮介は突然腕を抱え込まれ、ひかりの歩調に合わせて足を進めることになった。今までいた図書館からは離れて行く。かなり目立つからご勘弁願いたい。腕に当たるふくよかな感触が恨めしい。
最悪職務質問は受けてもいい。疚しいこともなければ、その証拠もなく潔白なのだから。ただ、どうにか知り合いにだけは見つかりたくないと思う。間違いなく誤解を与えそうだ。
ひかりに腕を引っ張られながらも結局途中からは抵抗を止め、そして考え付いた食事先は会社と同一テナントの喫茶店だ。会社と同じ屋号の薮内不動産喫茶である。
「あら、お花屋さんと亮介さん」
そこで出迎えたのは美代子である。亮介はこれを狙っていた。いくら知り合いとは言え、互いの職場を知り、職場同士の関係を知る人物だから一番安全性が高いと思ったのだ。
「図書館でばったり会ったので、一緒にランチに来ました」
「そうだったの。空いてるお席にどうぞ」
亮介はひかりを伴って、奥まった場所にある四人掛けのボックス席に着いた。窓際は誰に見られるかもわからないので抵抗があったのだ。亮介の狙いどおり、美代子に訝しげな様子はないので安堵する。
ひかりは店内を見回すとテーブルや脇の壁を擦るように触り始めた。どういう意味の行動かわからないので、本当に掴めない子だと亮介は思う。
「日本の夏ってこんなに暑いんですね」
「ん? 帰国子女?」
「違います。日本以外にいたことはありません」
「なんだか初めて日本の夏を体感するみたいだな」
「日本人でもよくこんなこと言ってる人いません?」
「確かにいるな。それにしても君のイメージが変わったよ」
「それは惚れたってことですか?」
「どうしてそういうことになるんだよ?」
「さっき美少女って言ってたから」
ドンと張る胸の主張はエプロンを着けていた二日前よりも顕著だ。透けて見えるのはキャミソールで、その先にある下着の凹凸が模られている。亮介は視線を泳がせた。
「それから、一昨日名乗ったんだからひかりって呼んでください」
「は?」
「私は不動産屋さんを亮介さんって呼びますから」
「……」
「社長さんと苗字が被ってるんだからいいですよね? で、一方的に名前で呼ぶのもアレなので、私のこともひかりって呼んでください。――さ、注文しましょう。お腹ペコペコです」
完全にひかりにペースを握られている亮介である。
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