第1話「初めまして。バイトです」

 鉄筋コンクリートにタイル貼り。高級ではないが質素でもない外観の賃貸マンション。そのマンションの一階は三室のテナントになっており、薮内亮介やぶうち・りょうすけの職場はその一室にあった。

 亮介は不動産会社の営業マンだ。短めの髪を軽く浮かせていて、表情は柔らかいので人当たりが良く見える。実際に穏やかな性格をしているので、顧客からの第一印象はいい。背丈も肉付きも標準的なので、舐められず、そして威圧感も与えずの容姿だ。


 株式会社薮内不動産喫茶。これが亮介の働く不動産会社の屋号だ。「喫茶」が名に入る理由は喫茶店を併設しているからである。喫茶店の入り口となる自動ドアを潜ると、正面にレジカウンターを見て、右手に広い喫茶店のホールとカウンター席がある。左手には六人掛けのボックステーブルが二卓だ。これが不動産会社の打合せと来客スペースである。

 その二卓の周囲には管理している物件の賃貸広告となるチラシが貼られている。その他、売り出されている土地や建物の売買物件広告となるチラシもあるので、それらのチラシが所狭しと壁を占拠していた。

 打合せテーブルの奥には扉が二枚あり、一枚は応接室に、一枚は従業員の事務所に繋がる。喫茶店を併設することで居心地のいいアットホーム感を出すことがコンセプトの不動産屋である。


 この不動産会社は亮介の父親、薮内義孝よしたかが経営をしている会社だ。併設の喫茶店は義孝の愛人、美代子みよこに営ませていた。尤も愛人と言っても義孝は既に離婚をしている独身だ。ただ離婚前の夫婦仲が冷め切っていた時点から美代子とは愛人関係にあり、今では少し離れた場所で同居している。

 入社前の亮介にとっては、実父と愛人が同じ空間で協力して別の事業をしているのだからやりにくそうだと思ったものだ。しかし実際に入社してみると、美代子とは付かず離れずの距離感を保てるから、思ったほど影響はなかったと考えを改めている。


 そんな会社の最上階、八階に亮介の自宅はある。この建物は二階から上が賃貸住宅となっている。亮介の自宅は1LDKで広過ぎず、そうかと言って狭さも感じず、本人は快適だと思っている。

 建物そのものには大家がいるが、管理は薮内不動産喫茶が受けているので、亮介は相場よりも安く借りていた。三年前に死別離婚をし、父から地元に呼び戻され、一年前からこの会社で働く亮介のセカンドキャリアの場所である。


 亮介は次期社長となるわけで、そのプレッシャーと他の社員からの視線を日々感じずにはいられない。正社員の事務員が一名と、パートの事務員が一名。どちらも女性だ。それから営業職の男女が一名ずつ。亮介と社長の義孝を合わせてこの六名が不動産会社のスタッフである。


「亮介さん」

「はい」


 七月の日曜日、出勤してすぐのことだ。亮介はパート事務の長野から呼ばれて返事をした。社長で父親の義孝と苗字が被るので、亮介は下の名前で呼ばれている。亮介は既に鞄を手に持っており、週末稼働の業者を回ろうと今にも外出しかけていた。


「今日、9時半にお花が届きますよ?」

「あぁ、そうだった」


 亮介は長野から言われて思い出し、自席に腰を戻した。

 先日会社で仲介した中古住宅を買った若夫婦が引っ越しを終えたばかりである。亮介が担当した物件だ。その新居の記念に贈るので、この日のうちに自分の手で届けようと注文していたのだ。

 そうすると数十分この場で待っていなくてはならない。亮介は物件情報を精査したり、メールの対応を始めたりした。しかしそれは取り掛かればなかなかの量で、時間はあっと言う間に過ぎた。


「おはようございまーす。古橋生花店でーす」


 明るくて黄色い声がドア越しに微かに聞こえた。パート事務の長野が対応しようとするので、亮介は「自分で行きます」と言って長野を制した。そのまま花を持って営業車に乗り込むつりのため、リクルート鞄も持つ。

 デスクの間の通路を縫うように歩いて、亮介は喫茶店と空間を共有する先のドアを開けた。


「はい、ご苦労様です。……ん?」


 亮介は首を傾げた。そこには生花店のエプロン姿の美少女が立っていたのだ。つぶらな瞳に肩より長いサラサラの髪。腰でエプロンを縛っているので華奢なウエストもわかる。その分ふくよかな胸元も目立った。デニムのロングパンツを穿いているが、足もすらっとしていてしなやかそうだ。


「あ、亮介さんのお花?」


 少女に対応しようとしていたのは、喫茶店の店長、美代子だった。彼女はそう多くはない小皺を見せて朗らかな笑顔を向けていた。


「あ、はい」


 亮介がそれだけ答えると、美代子は「じゃぁ、あとお願いね」と言って厨房に入って行った。


「こちらお花と納品書です」


 見た目麗しい少女は両手いっぱいのフラワーアレンジを亮介に渡すと、眩い笑顔を浮かべた。亮介は片手にリクルートバッグをぶら下げ、もう片方の手で納品書を摘み、腕で抱えるように花を受け取る。


「新人さん?」


 亮介がこの少女を最初に目にして首を傾げた理由。それは初めて見る少女で、しかもかなり若いからだ。注文した花が届く時は二人いる事務員が対応することが多い。古橋生花店の経営者と亮介は対面したことがないが、若い夫婦が二人で経営する個人店だとは聞いている。それにしても少女が結婚をしているような年齢にはとても見えない。


「はい。初めまして。バイトです」

「バイトか。まだ若そうだね」

「はい。高一です」

「若っ」


 見た目どおりの若さに再度驚きを表す亮介である。一方、真面目そうでいてハキハキと愛想良く受け答えをするその少女に好感も持つ。その好感ついでに雑談程度の質問も振ってみた。ただの気まぐれとも言える。


「最近入ったばかり?」

「はい。七月からです」

「へー」


 この不動産会社がお得意さんだという認識は既にあるのだろう。少女も雑談を苦手とした様子はなく、それどころか更に言葉を足した。


「私、店の夫婦の妹です」

「あぁ、そういうこと。どっちの?」

「奥さんの方です。だから苗字違うんですけど、久保くぼひかりって言います」

「そうなんだ。僕は薮内亮介」

「あ、若社長さんですか?」

「ふっ」


 思わず亮介は小さく吹いてしまった。若社長なんて初めて言われたからそれが可笑しかったのだ。しかし苗字で理解したから、彼女は姉からお得意さんであるこの会社のことを少しは聞いているようだと思った。


「若社長って言うか、次期社長……になれたらいいな、くらいの存在かな」

「そうなんですね。……ん?」


 すると少女が表情を無くしたようにして微かに喉を鳴らすので、亮介も「ん?」と首を傾げた。しかし少女の無の表情は一瞬で、また愛想のいい笑顔に戻った。


「それじゃぁ、毎度ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」

「うん。こちらこそ、これからもよろしく」


 亮介の一瞬の疑問もすぐに消し飛ぶほどの煌びやかな笑顔。そんな表情を携えて彼女は踵を返した。亮介は彼女が店を出て、表に停めていた自転車に跨るのをぼうっと見ていた。


「いるんだな、あんな美少女」


 走り出した彼女の背中を見ながらそんな独り言まで出る。しかし自分はロリコンではない。客観的な意見として美少女だとは思うし、目の保養だとも思う。だからこんな言葉が浮かぶわけだが、異性として興味を惹かれたわけではない。


「あっ、営業回り」


 このように仕事を思い出すと、完全に意識は仕事に切り替わる。亮介は花と鞄を抱えたまま、建物の裏手にある営業車に向かった。


「しまった……納品書」


 車に乗り込んでから納品書も持ったままだと気づく。しかし今更事務所に戻るのも面倒なので、帰社後に事務員に渡そうとその紙をスラックスのポケットに突っ込んだ。

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